「東北本線城跡紀行」
<平成13年7月>
目次
東北本線 / 白河 / 二本松 / 伊達郡 / 白石
東北本線
7月27日。仙台に野暮用があった。たいした用事ではなかったが、仙台に用事をつくってしまった。私の別面の顔であり、雑多な趣味を抱えているが故の野暮用であった。その野暮用は仙台駅前に16時頃に到着できればなんも問題はなかった。故に仙台に行くまでの時間が余っていた。
前日までの、連日の猛暑により思考回路が鈍った頭で、「いかにして仙台に行くか?」ということを考える。だいたい、仙台以南の東北本線には何度も乗っており、また実家が福島ということもありあまり魅力を感じなかった。常磐線経由で例えば水郡線や磐越東線などを経由するという鉄道旅もあるが、最近は鉄道乗り潰し旅にも飽きてきていた。手元にあるのは恒例の「青春18きっぷ」と「仙台駅前−新越谷駅前」の帰りの夜行バスチケット。これで、如何に一日を充実させるかということで悩んでいた。
ふと、思う。「久しぶりに途中下車の旅がしたいな」と。今年は冬に松山に行った。そこで、昔の眠っていた専門知識を目覚めさせていた。「姫路城」と「松山城」という日本国第一等級の城を見物。本来の私は「安土桃山時代」を専攻していた。それがいつのころからか「近現代」専門になってしまったが、史学科として歴史的素養はきちんと身につけているつもりであった。「そうだ、城巡りをしよう」。わかりやすく簡潔に、今回の「仙台行き」の副題が決定した。
「城」なら、地元ということもあり何も問題がない。以前は「復元」された城は軽蔑の対象でしかなかったが、最近は考えが丸くなり「復元」にも「復元の味」があると考えるようになっていた。第一、東北地方に昔から残っている城というもの(追記・弘前城がある)はなかった。故に今回は城跡復元探訪とするしかない。
早朝、4時。暗闇という朝の中を35分かけて歩く。もよりのJR武蔵野線始発に乗るため「JR北朝霞駅」に向かう。本来家からの最寄り駅は「東武東上線志木駅」。だが、これの始発を待っていると、武蔵野線の始発に乗れないという理由から35分も歩くこととなる。
4時52分「北朝霞駅」。武蔵野線上り東京快速が発車する。日帰り旅路に出るときのいつものパターン。そしていつものおんぼろ「103系オレンジ」。
夕日の様な光が射し込む中、電車は荒川を渡る。この早朝の日の出列車が私は好きだ。心が洗われ、今日一日が無事に送れそうな気がする。
電車は「西浦和」を過ぎ、「武蔵浦和」に到着する。「JR埼京線」乗換駅であり、大宮に行くのに一番便利な駅である。しかし、私はここでは降りない。今回の旅路、最大の苦肉策がここにあり、この接続が最大のネックだった。今の時刻4時59分。ここで「埼京線」に乗ろうとすると5時24分まで電車がない。そうなると大宮着5時36分となり、私が乗りたいと思っている東北本線の発車時間と同着となってしまい、結果乗り過ごす為、1時間の時間差ができてしまう。
それでは、困る。そこで私は時刻表とにらめっこを開始した。いくつかの可能性を模索した結果、頭を切り換えることに成功する。すなわち「大宮」から乗るという頭をすて、あらたな選択しからルートを検討する。「武蔵浦和」はやめ隣の「南浦和」から「JR京浜東北線」に乗り換える。南浦和には車庫があり、始発の運行もここから始まるということもあり、さすがに朝早くから動いている。
「南浦和」着5時02分。発5時12分。「浦和」着5時16分。浦和は駅が多いということは承知済みではあるが、こう多いと位置関係が怪しくなってしまう。とにかく私は「浦和」にいる。ここで5時29分の「東北本線」を捕まえる。そうすれば、懸念もなにもなかった。
5時29分。予想通りに「ロングシート」な「E231系」が入線。ここから「黒磯」まで一気に走ってしまう列車だが、客としては2時間30分も揺られるのはうれしくない。もっとも、通勤客用なので、そのようなバカな乗客は対象外ではある。
この電車、JR東日本がほこる新車らしい。窓の開閉ができず、その大型窓はさらにはUV遮断仕様のため薄暗くくすんでいる。おかげで外は薄暗く、今にも雨が降ってきそうな雰囲気さえ漂っている。
「大宮」入線5時35分定刻通りに入線。離れたホームで似たように入線した列車がいた。見覚えのある車両。まちがいなく「急行能登」の姿であった。でも「能登」の入線時間は5時39分のはずであった。ということは4分の早着であろうか。早着とは珍しいことであった。日頃は夜中にしかみることができないが朝日の下ではあかるくぼろかった。いずれにせよ、国鉄ボンネットの風格ある姿をみることができたので益々持って上機嫌となり、いい加減眠くなる。
昔はがちがちにダイヤ表通りの行動をしていたが、最近は極めていいかげんになってきた。最初の目的に以降はすべて未定。あとは降りられそうだったら降りるということで、まずは「白河」に向けてひたすら北行する。
「黒磯」着7時47分。乗り換え電車は7時52分「梁川」行きであった。つまりこれは「阿武隈急行」乗り入れ電車ということ。私の田舎はその「阿武急」沿線。急に田舎気分になってしまった。これはうれしいやらかなしいやら。
白河
今度はあっという間の8時19分「白河」着。駅のホームからでも城が望めた。これなら探す手間もないし、さい先がよい。実はこの城は平成3年の復元。故にピカピカだが、城壁石垣自体は明治以来変わっていないらしく、奇妙さは感じず、逆に綺麗に整っていた。
さすがに、こんな時間だから中には入れない。また入ろうとも思わなかった。城の中に入ってもさして面白くないということは何度も実感しており、こうゆうものはむしろ外から眺めた方が楽しいものである。
ここの白河城は正式には小峰城という。(白河城といっても近世城郭を小峰城、中世城郭を搦目城・白川城と区分し、両城は別の場所にある)
南北朝期に南朝方として活躍した結城宗広の子である結城親朝が興国元年(1340)長男の顕朝に惣領白河(白川)城主の地位を譲り、小峰と呼ばれる小丘に館を構え、自らは小峰家を分流したことに始まる。結城(小峰)氏在城時代に常陸佐竹氏の軍によって2度落城している。
13代晴綱の代に至り、同族の小峰義親に城を奪われ、その義親も豊臣秀吉によって城を没収され、白河をひらいた結城小峰氏はこの地から一掃された。
結城氏滅亡後、白河は会津領主蒲生氏郷、続いて上杉景勝、さらに蒲生秀行の所領に包括され、その城代が小峰城に在城した。
寛永4年(1624)、白河は会津領から離れ、丹羽長重が白河藩主として来城。寛永6年から9年にわたり旧城の地に近世城郭としての小峰城(公式には白河城)を築城し、城下町を造営した。阿武隈川の旧河道を濠とした不等辺五角形・梯郭式の縄張りである。城主は丹羽・榊原・本多・奥平(松平)・結城(松平)・久松(松平)・阿部と7家の大名が交代し、10−15万石であった。阿部氏の時に城は棚倉に移り、明治維新の折りは幕府直轄領であった。
戊辰戦争では、奥州諸藩の最前線拠点となり、薩摩・大垣藩らの新政府軍と対抗したが慶応4年(1868)5月1日に落城、城郭は焼き払われた。
平成元年から整備が進められ、同3年に三重櫓が再建、その後に前御門、清水御門も再建された。
白河小峰城趾 |
小峰城趾石垣・濠 |
JR白河駅 |
白棚線JRバス |
復元とはいえ、城の形をしているからには存在感がある。いや、別に城がなくてもよい。ここに当時の城壁があり、濠がある。素人目からしても、これがかもし出す風格は、頂上に鎮座している城よりも威圧感がある。そして、戊辰の荒波を越え、今の世まで培ってきた歴史がそこのあった。私は、その場に佇み、当時を想う。それだけで満足であった。
私は、歴史に浸っていた。そんな中、城跡公園を高校生の何かの部活と思われるが、一生懸命走っている姿が目に入る。確かに城跡で走れば、アップダウンが激しく、いい訓練になる。それにまだ朝の8時過ぎだから観光客の邪魔にはならない。だからこの光景は毎日の事なのかも知れない。しかし、今日はこの城に奇妙な客がいた。冷静に考えればまだ朝の8時過ぎなのである。城の中にも入れないのに、この旅人は何をしているのだろうか、とすれ違う学生皆が思っただろう。自分でもおかしかった。確かにこんなばかげた旅は旅ではない。まあ、自分は歴史に触れることができたのでそれだけで満足であった。それ以上は求めない。とにかく駅へと道を戻ることにする。
ここ「白河」には史蹟が多い。松平定信公のつくった日本最初の公園(おおくの大名庭園とは違い庶民に開放した)である「南湖公園」やその松平定信公を祀った「南湖神社」。また「白河の関跡」などもあるが、実は以前白河には旅行に来たことがあり、その時に上記の名所は散策したので今回は割愛、城だけにしてそうそうに駅前に戻る。
駅前でぼーっとすると目の前にバスが止まる。なんてことはない「JRバス」だが、私はそれに注目する。行き先は「棚倉」。これだけで乗りたくなってしまった。普通の思考ならバスになど乗りたくない。ここで私が「棚倉」という地名にひかれたのだろうと思うかも知れない。確かにその一面もある。しかしもう一つあった。
かつて白河と棚倉は鉄道で結ばれていた。鉄道建設計画は明治36年(1903)に地元有志の間に起こり、紆余曲折の末、大正3年(1914)に白棚(はくほう)鉄道が創立され大正5年11月29日に全通した。開業後しばらくは順調な営業であったが、大正末期からの経済恐慌により業績は悪化、貨物輸送も減少したため、苦肉の策として昭和4年からガソリンカーを導入する。会社の思惑とは別に水郡線が開通すると、ますますもって業績が悪化。昭和8年4月に廃止を決意するが、許可が下りず昭和16年に政府に買収され白棚線となる。しかし、戦争の激化とともに緊急度の低い路線は続々と廃止とされ、昭和19年営業休止となり、レールが供給されてしまった。
ここまでは、地方鉄道に多い一連の流れであるが、白棚線が他と違い、なおかつ私が注目した理由は他にある。
戦後、鉄道復元の動きがあり、一案として線路に国鉄自動車を走らせるという計画が生まれた。その結果、昭和32年(1957)4月26日国鉄白棚線は国鉄バス専用路線として復活した。復活当初は全線が線路跡を走っていたが、道路の整備とともに徐々に国道の通行へと切り替わり今では一部区間のみ、白棚線跡で運行している(平成12年現在)
残念ながら、現在はどうなっているか分からない。路盤整備が終わり、もう旧線を走っていないかも知れないし、まだ旧線を走っているかも知れない。この「バス」の過去を知っていたからこそ、私はなおさら注目のまなざしをそそいでいた。いま、思う。せっかくの機会だから、運転手に現在の状況を聞いておけばよかったと。
やっと駅に戻り、下り列車が来るまでホームでぼーっと佇む。しばらくすると駅アナウンスが通過列車を知らせる。「どうせ貨物だろ」程度に目を向けると、なにかが違う。ふと、思い立ちカメラを向け、望遠にしてのぞき込む。意外にやってきたのは「北斗星」であった。その「北斗星4号」は轟音をあげ、駅を通過する。こんなところでカメラを向けることになろうとは思わず、私は少々焦る。意味もなくうれしくなり、ひとり喜ぶ。とにかく優等列車は良いものであった。
9時4分、白河を後にする。次の目的地は「二本松」にすることに決めた。私はこの「二本松」が精神的に嫌いであった。なのに「二本松」に行こうとしている。「二本松」到着時間は10時23分と1時間以上もある。ぼーっと電車に揺られる。おなじみの「東北本線」では楽しくも何ともなく、郷里に戻っている様な気しか起きなかった。
二本松
「二本松」着10時23分。なにか面白くない。「二本松」という響きそのものが面白くなかった。この町は白河以上に観光を整えているようで面白くない。ガイドブックには「二本松城」まで徒歩15分とあったのでそれを信じて歩く事にする。
歩く。なぜか目の前に急激な坂が展開される。しんじられない光景であった。「これを登れというのか」憤りすら感じさせられる坂道であった。やっと登ると今度は下る。つまり峠を越してしまったようだ。15分というのは真っ赤な嘘で、足に自信があり人より速く歩く私の足ですら20分かかった。一般的には25分だろう。おまけに雨まで降ってきた。面白くない。だから「二本松」なんか嫌いだ。
「二本松城」が目の前にある。駐車場ではスイカ割り大会が行われていた。福島県らしいというかなんというか、みている方が思わず悲しくなってしまった。
この「二本松城」は霞ヶ城趾として県立自然公園として整備されている。確かに規模が大きく、山城をまるまると一山抱えているような広さがあり、私もこれ以上は時間がなく、雨も降り出してきたので、本丸跡までは赴かず引き返す事にする。どうもこの地は縁起が悪い。すべて「二本松畠山氏の怨念」のような気がしてきた。
この「霞ヶ城県立記念公園」は二本松落城悲史として有名な霞ヶ城跡と、南北朝期名城といわれた霧ヶ城跡を公園として整備したものであり、全国的には「二本松菊人形展」会場として有名である。(私の行ったとき、もう準備が始まっていた。)
霧ヶ城は興国年間(1340〜45)北朝方足利尊氏によって奥州探題に任命された畠山高国が館を設けたのに始まる。時期的には前記の白河城と重なり、南北朝の勢力分布としても興味深い。(ちなみに近隣南朝の最大勢力は私の郷土のちかく「霊山」を中心とした一帯)
3代国詮は大崎斯波・吉良両氏と戦って敗れた後当地に逃れ、応永7年(1400)4代満泰の時、山頂の要害に本格的な城が築かれた。
ここからしばし余談に入る。
天正12年(1584)に二本松の畠山氏11代当主畠山義継や近隣豪族の大内定綱は伊達氏16代当主伊達輝宗に帰属していた。しかしこの年に伊達輝宗は引退し家督を18歳の政宗に譲ることを表明。これに対し畠山や大内が反旗を翻し翌年13年に大内定綱の塩松城(岩代)を落城させ降伏させると、伊達氏17代当主政宗は二本松の畠山氏攻略を謀り始める。
阿武隈川を挟んで両軍相対峙したが、二本松城は要害ということもありなかなか落ちなかった。畠山義継は戦いが長期化するに及んで、政宗の叔父である伊達実元を仲介に和議を申し入れた。政宗は和議を拒絶したが、隠居していた父輝宗の取りなしで和議が成立、義継は小浜城に輝宗を訪れた。政宗はその場にいなかったが、祝宴が終わると気を許した伊達輝宗を伊達氏の態度に疑心感を抱く畠山義継が拉致。輝宗を二本松城に連れ去ろうとするが、急報により政宗軍が追跡し間一髪で来援。輝宗を救出しようとするが、義継は輝宗を離さず、輝宗は政宗に自らと一緒に義継を射殺するように指示。やむなく政宗軍は発砲し、義継は輝宗を刺し違えて射殺された。この日は10月8日であり、二本松城を巡る攻防は、その翌年天正14年7月16日に伊達政宗によって落城するまで続いた。現在の山頂に残る石垣はその二本松城(霧ヶ城)の遺構だという。
ここまで書けば、私が「二本松」が嫌いな訳がわかるであろう。念の為にいうと私は「信長の野望系戦国ゲーム」は必ず伊達氏からプレーする人間であり、不幸な事件を再発させない為に必ず「二本松(畠山)義継」を攻め滅ぼすなり捕らえるなりして、首をはねている人間である。
余談を戻す。
一方の「霞ヶ城」は山麓に築かれた城で、白河藩から入封してきた丹羽光重が10年あまりの歳月をかけて承応3年(1654)に完成させた。以後、戊辰戦争で落城するまで丹羽氏の居城となった。
幕末の際、奥羽越列藩同盟の拠点白河城を落とした新政府軍は、続いて三春藩を下し、慶応4年(1868)7月に霞ヶ城に押し寄せてきたが、この時主力は領外の白河口の守備につき、藩主丹羽長国は米沢に逃れていた。城を守るのは家老丹羽一学と側近、そして少年兵や農兵しかいなかった。結果、少年兵の奮戦と戦死、二本松落城悲史が後世に残ることとなり、それでいて会津よりもマイナーな為歴史に埋もれる悲劇も起きてしまっている。
また公園の右側にある「二本松藩戒石銘碑」は国史跡であり、寛延2年(1749)7代藩主丹羽高寛が、儒学者岩井田昨非の献策を入れ刻ませたものという。石の置かれている場所は、登下城の際に必ず通りかかるところであり、石には「諸子の俸禄は、これことごとく領民の汗と脂のたまものである。したがって、つねにいたわりと感謝の念をもって領民に接さねば、必ずや天の怒りに触れるであろう」という意味が漢文で刻まれている。なかなか革新的な内容であり、さすが「丹羽氏」といいたくなってくる。
相変わらず雨が降る。この雨は畠山の雨なのか、はたまた新幹線で仙台へと北上したと思われる「雨女コーダ嬢」の影響によるものかは分からない。ただ、今は雨が降る、という事だけであった。折り畳みの傘を広げ、来た道を戻る。つまりまた峠を登って下って、息切らすが、雨はやまない。どうにも、このままでは面白くない。来る途中、駅前の目抜き通りにあった「二本松神社」に雨宿りもかねていってみようと思う。
雨に濡れる「二本松神社」の石段を登る。思った以上に高台にあった。ますます雨は強くなる。雨の中で、このような神社に好きこのんで参拝する人間も珍しい。第一、ここの神様はどなたか存じていない。存じてはいないけど、体は神社参拝ということでいつもの神式参拝を行う。知らない街の知らない神社ではあったが、拝殿には古ぼけたおもむきがあり、味わいがあった。雨に濡れ、風格が一段と増していた。200年の時がそこに存在した。そんな中で1人、私はいったい何をするためにこのような場所に佇んでいるのだろう、懐疑の念が頭をよぎってしまう。
「二本松神社」、旧県社。祭神は 伊邪那美命・ 事解男命・ 速玉男命・ 品陀別命・ 気長足媛命である。
元来当社は八幡社と熊野社両社の相殿であった。熊野社は地頭であった殿地ヶ岡城主安達盛長が久安年間(1145−51)が勧進して守護神にしたことに始まる。その後、奥州探題として下向した畠山高国の孫満泰が、その氏神である八幡神を合祀し、霧ヶ城の東郭に八幡神、西郭に熊野神を祀り、守護神として崇敬していた。のちに畠山氏が衰退し、領主の変遷とともに消長はあったが、寛永20年(1643)丹羽光重が入部した時、両社を現在地に移して二本松の総鎮守と定め、領民一般に信仰を許したという。
現在の社殿・拝殿は文化2年頃(1805)の建築である。
また、二本松神社の秋の例祭として提灯まつりが有名であり、東北では秋田竿燈まつりと肩を並べるほど華やかな行事であるという。
二本松神社 |
二本松霞ヶ城趾箕輪門 |
雨もだんだんと穏やかなってきた。この神社の風格を案内板で知る。改めて、今度は「知った神社」として参拝する。
まるで畠山氏の歴史を実感するような旅をしている。それでいて白河から転封されてきた丹羽氏を偲ぶかのように私も白河から二本松にやってきた。さらには東北を語る上ではずせない戊辰戦争の舞台をたどるかのように北上を続ける。不思議なものであった。あらかじめ事前学習をしてはいたが、実際に歴史を体感すると認識が変わる。あれだけ嫌っていた二本松畠山氏を知り、織田の武将丹羽長秀の不遇な印象しか知らない丹羽氏を知る。不思議なものであった。
伊達郡
「二本松」発12時01分。やってきた車両をみて驚く。今度は正真正銘に「阿武隈急行」であった。「阿武急」乗り入れというのは当然だが、今度は前回と違い車両まで「AT−8100」というまるっきりの「阿武急車両」であった。益々持って郷里に帰るような気がしてしまう。だから「東北本線」福島以南というのはあまり旅路という感じがしない。
「福島」着12時25分。このまま乗っているとホントに阿武急になってしまうので「東北本線」に乗り換える。この福島駅は新幹線開通、山形新幹線連結、そして標準軌・狭軌併用駅として目覚ましい変化を遂げてきた駅であり、私にとっては使い慣れた駅ではあるがここで途中下車するわけにはいかなかった。
かの内田百關謳カは昭和26年秋に運行された「東北本線阿房列車」にて「福島」に大変閉口なされたようで、旅館では女中のいう「準急」を「選挙」と聞き間違えたり、女中の高潔にあきれたりしている。福島県人としてはこのくだりをどうとらえれば良いのか私が閉口してしまう。
12時29分「福島」を発車する。次に私は「白石」に向かおうとしていた。「白石」は是非とも行っておきたい街であった。というのもここは仙台藩南部の要所でありあの「片倉小十郎」の城下町であった。伊達趣味者としては、まずもってはずせない街のひとつである。
そんな電車は我が郷里でもある伊達郡の中心地「伊達」に入線する。うわさに違わぬ良い駅だった。よい駅ではあったが、駅前に高架線路があり東北新幹線が通過する。風格ある駅だけに、無愛想な感じがしてしまう。当初は降りようかとも思ったが、車中からの一瞥であきらめる。それにしても重厚な和風作りの歴史漂う駅であった。
「伊達」の隣駅は「桑折」。こちらも負けずに古そうな感じで興味ひかれる駅であった。日頃、福島以北の東北本線に乗ることがなかったため、改めて沿線の良さを知る。実家が伊達郡ではあったが、伊達郡でも「阿武急」沿線ということもあり「東北本線」沿線の伊達郡内は、意外と同じ郡内でも他の町の事は知らないものであった。「桑折」といえば、やはり伊達家中名家の桑折氏を想い出す。そろそろ土地的は伊達の勢力圏に入ったようで安心感が沸く。
以下、伊達をめぐる余談話。
そもそも伊達氏発祥の地はこの伊達郡である。「伊達は、仙台だろ」という人や、まあ知識があって「米沢だろ」「岩出山だろ」という人もいるけど、発祥はこの福島県伊達郡である。
文治5年(1189)奥州合戦(源頼朝軍と奥州藤原泰衡との合戦・奥州藤原氏が滅亡する)の戦功により常陸伊佐荘中村の中村常陸入道念西(朝宗)が伊達郡の郡地頭職を与えられ、それを期に郡名の伊達を称することになる。伊達朝宗の最初の居住地は伊達郡保原町高子が岡館(保原町が私の郷里)であったといい、以後、桑折町西山常陸館・梁川町栗野大舘に移った。伊達氏はこの時来一族を郡内に扶植しつつ勢力を伸ばしていく。
建武の新政で陸奥守に弱冠16歳であった北畠顕家(神皇正統記を執筆した北畠親房の子)が任じられ、国府多賀城に着くと陸奥国守北畠顕家を補佐する評定衆に奥州住人として結城宗広・親朝父子(前述白河城主)とともに伊達惣領の伊達行朝が任命された。この任命からも伊達氏が北条討伐に功があった当時の有力な勢力であることがわかる。
足利尊氏が反旗を翻すと、奥州鎮守府将軍に任命された北畠顕家側と奥州の押さえとして派遣された足利一族の斯波家長奥州大将軍とのあいだで南北朝の争乱が奥州でも開始された。時には京都の尊氏を駆逐するために奥州軍は北畠顕家のもとはるばる京都まで遠征し、尊氏を九州まで追い落としその名を轟かしたこともあったが(建武3年1336)、その足場である奥州は北朝方の相馬や岡本、南朝方の結城、伊達、田村などの争いでさらなる混沌としていた。
後醍醐天皇は再度鎮守府将軍北畠顕家に上洛を促し、建武4年(1337)1月に北畠顕家は義良親王を連れ多賀府を離れ南下するが、一度目の上洛よりも状況は悪化しており、北畠顕家は途中の霊山城に入城せざるを得なかった。ここはいうまでもなく奥州南党の重鎮、伊達行朝の支配下の要害である。しかしこの霊山で北畠顕家軍は身動きがとれなくなり、霊山そのものすら危うくなってきた。8月、北畠顕家は、北党の猛攻のわずかなすきを見つけて霊山を脱出。宇都宮に向かうが、進路を妨げる敵が多く各地で苦戦を重ねる。この年の12月にやっと鎌倉に入るが、ここでも戦闘が行われ、腰を落ち着ける暇なく西上を開始する。この北畠顕家に従う伊達・信夫郡の兵は2万騎と太平記は記している。
北畠顕家と奥州兵はその後も各地で転戦し、最後は5月に和泉で北畠顕家が戦死することになる。まだ21歳という若さであった。北畠顕家と奥州勢の働きは「太平記」のなかでも涙なくしては語れない場面であろう。
この間も奥州では留守を預かる南党が奮戦し、霊山をいまだ固守していたが、北畠顕家の戦死を転機に小康状態となる。小康状態といっても北党の勢力は増長し、この間に北畠親房は関東でよるべきところを失い吉野へ帰還し、また南党重鎮で白河結城親朝は北党に降った。
貞和3年(1347)7月に北党が南党を総攻撃する。南党各城が降っていくが、このころ中央の政争が陸奥にも波及してくる。尊氏・直義兄弟の相剋が尊氏方の奥州探題畠山高国・国氏(二本松)と直義方の吉良貞家とが多賀国府近辺で争い、やぶれた畠山高国・国氏は自害をする。この「観応の擾乱」の内部抗争の機をつかみ奥州入りしていた北畠顕家の弟顕信は南党を励まし、積極攻勢にでてきた。北畠顕信は兄の戦死後陸奥介兼鎮守府将軍に任じられ、義良親王を奥州に下向することになったが、親王を連れ海路奥州に向かう途中で暴風雨にあい、北畠顕信と義良親王は伊勢に吹き戻され、北畠親房も漂流することになる。この間に後醍醐天皇が薨去し義良親王は吉野で後村上天皇として即位した。北畠顕信は興国元年(1340)に奥州石巻入りし、これから観応年間(1350)までは雌伏しており、先の内部抗争の機を積極攻勢となった。
正平7年(1351)に北畠顕信方は多賀を奪回したが、一時的なものであり、その後は体勢が芳しくなく北畠顕信らは姿をくらましてしまった。
こうなったら、余談としてさらに伊達家を語る事にする。
南朝方として奮戦した伊達家も一度は衰退したが、次第に力を盛り返していた。8代宗遠9代政宗のころ勢力を広げ、特に9代政宗は伊達氏中興の祖と称されている。11代持宗のころ信夫荘に侵入しさらに勢力を拡張、12代成宗は足利義政に接し大膳大夫就任の礼と奥州探題職就任の礼、2度の上洛をしている。
天文5年(1536)14代伊達稙宗(伊達家17代仙台藩初代政宗の曾祖父)は梁川西山城にて有名な「塵芥集」を制定している。ところが、このあと伊達家に世にいう「天文の乱」というものが勃発する。
天文11年(1542)14代伊達稙宗は三男時宗丸(のちの伊達実元)を越後守護職上杉定実の養子にいれることを決定していた。上杉の使者も伊達にやってきており、いよいよ出発というときに長男伊達晴宗が、父植宗を桑折西山城に幽閉し伊達家の権力を握ろうとしたのが6月のことであった。
植宗は伊達の力で持って衰退する越後上杉家(長尾上杉とは別)を昔日のごとくよみがえらそうとして、養子を考え出したがその計画も水泡に帰してしまった。
そもそも、この時の伊達家内乱は宿老の中野宗時と桑折景長が時宗丸の陪臣としてすぐれた家臣団が越後に行ってしまえば、伊達家は蝉の抜け殻のように弱体化してしまう。ぜひとも越後入嗣はとどめるべきだという諫言を晴宗にしたために、後継者の晴宗としては家臣をすぐれた家臣を失っては困るという気になり、幽閉という手段に打って出たとされている。一説には強権な植宗の封じ込めの為に晴宗を担いだともいわれている。
このときは伊達分家の小梁川宗朝が、西山城幽閉の稙宗の救出に成功した。このあと稙宗はさかんに檄を飛ばし、これから天文17年まで晴宗と父子憎しみの相剋が展開された。
以下列記する。
天文11年9月、稙宗党の田村隆顕・塩松・二本松畠山が晴宗党と合戦して勝利。
同11年11月、相馬顕胤・最上義守・田村隆顕が晴宗党西山城の攻略に失敗
同12年5月、晴宗岳父岩城重隆が懸田を攻撃。
同13年7月、稙宗党は信夫荘を入手し、形勢は稙宗党に有利となる。
同14年4月、晴宗は晴宗党として活躍する面々の諸役を免除する。
同15年5月、晴宗は白河の結城晴綱に友好を求める。
同15年6月、晴宗党は梁川西山城を脱出し、白石実綱の白石城に移る。
同15年同月、稙宗が西山城入城、白河の結城晴綱が稙宗と友好を結ぶ。
同17年1月、戦況が変わり、晴宗党が有利となる。田村家中が分裂し晴宗党となる。
同17年5月、室町幕府13代将軍足利義輝が父子の和睦を命じる。
同17年9月、和睦成立。稙宗が丸森城に隠居し、晴宗が正式に伊達家15代当主となる。
これで稙宗晴宗父子の相剋は収拾した。しかし伊達家中の混乱はおさまらず、しばらくののち15代晴宗と16代輝宗との間にも家督相続をめぐる争いが勃発するがさすがに「天文の大乱」ほど事は大きくならずにすんでいる。
このころには戦国の世で異例ともとれるほど輝宗に愛されて、湯殿山の申し子・万海上人の再来と呼ばれ、伊達家中興の祖として誇りとされた「政宗」の名を引き継ぐ、「伊達政宗」も誕生するころである。
伊達政宗は18歳という若さで17代当主となっているが、これには代々の家督相続問題を引き起こさぬ為輝宗がそうそうと引退した為である。隠居した輝宗の最後は「二本松」で触れたため、ここでは触れることはしない。
天正12年(1584)に家督を相続した政宗は破竹の勢いで勢力を拡張していき、天正17年には芦名の黒川城(のち会津若松城)を攻略している。しかし、時はすでに遅く豊臣秀吉の小田原北条攻めが開始され、芦名攻めの釈明と後詰の為、小田原に参陣。政宗は会津・岩瀬・安積を没収されたが、本領に加えて二本松・塩松を安堵され奥州54郡、出羽12郡の仕置きを仰せつかることとなる。
しかし、天正19年(1591)に伊達・信夫・田村・刈田・二本松・塩松・長井が没収され、大崎・葛西12郡と宮城など20郡が新領とされ、米沢から岩出山に移された。
この時に伊達郡が伊達の手から離れ、以後一度だけ関ヶ原の合戦の際「百万石のお墨付き」時に領有の機会があったがそれも灰となり、以後仙台藩伊達家と福島伊達郡は無縁のものとなってしまった。
以上、ながながと伊達の話をしてしまった。家に「保原町史」があるのを見つけてしまったのがそもそもの間違いであり、郷土愛?から伊達を語りすぎてしまった。第一上記の話の舞台である福島・宮城の地名と歴史に心得がない人はまったくなんのことかわからないだろうし、どこが紀行なのかもわからない。あとは南北朝期なら吉川英治著「私本太平記」、戦国時代なら山岡荘八著の「伊達政宗」を読まれるとよいだろう。
これから紀行文に戻るのもばかばかしい感じがするが、このまま終わらすわけにも行かないので、先に進む。しかしこれからむかう地は「白石」であり最終目的地は「仙台」である。この先も伊達の歴史を偲ぶものとなることは容易に想像できる。
白石
伊達郡を過ぎ、阿武隈川を渡るともう宮城県であり南部の要衝である「白石」の地にやってくる。「白石」到着13時08分。まだまだたっぷりと時間はあった。
まずはどうしようか駅前の案内板を前にして思案する。いいかげんつかれておりバスないしタクシーでも使おうかと思ったが、やはり自分の足で歩くことにする。大体の観光地は地図を配布しているものであり、とうぜん地図は現地調達のつもりでいたのにどうにも地図がない。こうなるとやけくそで駅前の地図を頭にたたき込んでがむしゃらに歩き始める。
病院の後ろに岡がありちらっと天守が見えた。見えさえすればなにも問題がなくあとはそこにむかって歩くだけである。石段を登ると右手に神社がみえた。左手には復元の城が見えたが「城は外から見物するもの」という法則に基づくと、もう見たことになる。無性に神社がきになり足は自然とそちらに向かってしまう。看板には「神明社」とある。例の如く神道式の参拝を自然と体が行う。新しめであったが、簡素で良い造りの神社であった。
「神明社」の祭神は 天照皇大神、配祀は 天御中主神・ 高御産巣日神・ 神産巣日神という。いつも思うのだが、古事記・日本書紀の素養がない人間にとってはこの「神様」の位置づけがわからない。さすがに 天照皇大神は存じているが、あとは存じ上げない。どうにか勉強したいと思わざるを得ない。
旧社格は郷社。大同2年(807)平安時代に坂上田村麿の創始と伝えられ、藤原秀衡、蒲生氏郷、長尾景勝の臣甘糟備後守清長などの武将の崇敬が厚かったという。慶長5年(1600)7月伊達政宗が長尾(上杉)景勝領の白石城を攻め落とし、同7年に片倉小十郎景綱の領有後は片倉家の尊崇を受け白石城の鎮守として明治に及んだ。
明治32年5月の大火により社殿その他ことごとくが焼失し翌年に再建された。現在の社殿は昭和10年に竣工したものである。
神社を後にしてこんどこそ「城」に向かう。が、その途中にまたまた変なものを発見してしまう。城石垣のすぐ横にある区画に碑としては新しめのものがある。そんなことは問題ではなく、問題はそこに掘られた字であった。碑面は得てして読めない字が多いがこれは私には容易に読めた。その碑面には「皇道發揚」(皇道発揚)なる四文字熟語。尋常ならこんな四文字熟語の碑はあり得ない。つまりこれは尋常でなかった。知らずして笑みを浮かべて碑に駆けよる。陸軍大将なんやかんやと肩書きが書いてあるその碑には「松井石根」の名前が…。松井大将ならさすがに海軍専攻人間でも存じている名前である。
調べてみれば、松井石根大将は愛媛県出身。故に郷里でない。歩兵第29連隊長か歩兵第35旅団長か第11師団長時代に接点があったのだろうと考えるしかない。なんせ、陸軍の資料が手元にないのでそれ以上はわからない。もっともそんな事よりも「松井石根」の名は有名といえばこれ以上有名な人もいないぐらいに左の方々も存じているだろう。実をいうとこの松井石根陸軍大将は極東軍事裁判でA級戦犯として絞首刑になっている。最大の罪は「南京大虐殺事件の責任」という容疑である。昭和12年に北支事変が勃発し、8月の大山中尉虐殺事件によって中支にまで事変が拡大し、支那事変となったときに松井大将は予備役から招集され上海派遣軍司令官に任命された。上海居留民同胞の危機を救い、そして国民党軍を駆逐するため、中支那方面軍がさらに新設され松井大将はその軍司令官となった。問題は敗走する国民党軍を追撃し、南京を12月13日に陥落させたときに起こった。この時に世にいう「南京大虐殺」が行われたとされ、軍司令官はなにも命令していなかったが、最高指揮官として責任が追及。しかし今の問題はそこではない。南京の話は長くなりそうなので切り上げ、「なぜこのご時世にかくも一部で悪名高い松井石根の皇道發揚なる碑がここにあるのか」ということである。よく撤去されないものだと感心してますますもって笑みを浮かべた顔になり、さらには城ではなく碑を撮影。売店のおばちゃんや見物客が不思議そうにこちらをうかがっていた。しかし「松井石根」は痛い。この「皇道發揚」なる文句もかなり痛いが、「松井石根」ほど痛いものはない。もしかしたらこの「白石市」は愛国的な街なのかも知れない。左翼的なら間違いなく撤去するだろう。まあ最近の傾向として無知というのもあるが、街ぐるみでそれはないだろうから、私としては「愛国的都市」として白石市を個人的に認定したいと思う。
まだ、城に行けない。最も中にはいるには400円なる料金を取るらしいが、中にはいるのは面白くないので、外から眺めるだけだが・・・。
門をくぐり、本丸前の広場を望む。平成7年復元というからピカピカなものを想定していたが、意外にもあたりにとけ込んでおり浮いた感じはない。
白石城は別名益岡城ともいう。白石城の起源は明らかでないが、11世紀末に刈田経元が居住したのに始まるといわれる。確かな記録としては「伊達氏天文の大乱」の際に白石実綱が伊達晴宗に味方し、晴宗も乱の後半はこの白石城で父植宗と対峙している。天正14年7月に白石実綱・宗実は福島塩松宮森城に移されたあとは伊達家臣屋代景頼が城代を務めている。その後天正19年(1591)に刈田郡は蒲生氏郷の領地となり白石城は一族の蒲生郷成が城主となった。
慶長3年(1598)には蒲生氏から上杉景勝領に変わり、甘糟清長が城を預かることとなる。慶長5年の関ヶ原の役に徳川家康は伊達政宗に上杉景勝攻撃を命令し、政宗は白石城を攻撃、これを落城させ家臣の石川昭光に城の守備を任せた。
慶長7年12月伊達家家老片倉小十郎景綱が1万3000石(のちに1万8000石)で入城し、以来明治維新まで片倉氏が城主を務めた。
元和元年(1615)武家諸法度によって一国一城制が定められるが、白石城は特に存在を認められ伊達仙台藩領として仙台青葉城にならぶ格を保った。
明治維新の際には仙台を盟主とした奥羽越31藩による奥羽越列藩同盟が白石城で結ばれ戊辰戦争へと突入することになる。戊辰戦争後は一時東北の広域政治の治所ともなった政略戦略ともに重要な城であった。
城郭は明治7年に解体されたが、平成7に復元されている。また本丸には「片倉景綱頌徳碑」があり、公園敷地内には白石市出身の横綱大砲の碑もある。
白石城趾 |
神明社 |
白石城を眺める。あくまで外から眺める。なかに入ってもよかったがいまいち気が進まずやめてしまった。知らない土地の城なら展示物を見物してもつまらないものだが、ここは片倉氏の城である。知る・知らないの時限ではない片倉氏なので今思えば見物しても良かったかと感じている。しかし私は先を急ぐ。一時はやんでいた雨もまた降り出し、私も安穏とはしていられなかった。
知らない街を歩く。地図がないということがさらなる不安を呼んでいた。さいわいにして市内のあちらこちらに「案内板」があり、かろうじて私は「案内」されていた。片倉家の廟所に向かう。どうも、足で見物する街ではないようで、完全に車がないと市内を回れないところではあったがそれでも私は歩く。
途中、「当信寺」なる寺がある。ここは二代片倉重長夫人の菩提寺である。重長夫人というのは実は真田幸村の三女。なんでも大阪の冬の陣で落城の際に片倉家の陣地に投降し後室となったという、いきさつを持っていた。故に幸村嫡男真田大助の墓と伝えるものや、真田家ゆかりの者の墓が多い寺であった。幸村の娘を嫁にした話は存じていたが、すっかり忘れていたこころに、唐突に「真田」がでてきたので私は寺の前でいささか慌ててしまった。
とにかく歩を進める。なにやら山の様な丘の様な斜面に整然としながらも雑踏とした墓石が並んでいる一角に出くわす。どうやらここらしい。とりあえず片倉家の墓を探す。雨に濡れ、木々に覆われる墓地はより一層な不気味な雰囲気で私を迎えてくれる。得てして名家の墓は上のほうにあるわけで、予想通り一番奥まったところに目指す「廟所」はあった。実は片倉家の墓所は二カ所ある。この「傑山寺」には初代景綱と二代重長、そして11代以降の藩主の墓がある。3代から10代は別の場所にあり、そちらは延宝八年(1680)、片倉氏三代景長が自ら土地をえらび歴代の墓所としたという。そこの墓所では初代と2代の墓も移し10代までが葬られている。特徴は10体の阿弥陀如来座像が並んでいることという。しかし私の足ではそこまではいけないので元々の初代景綱の墓地がある当寺にやってきたわけである。でも初代景綱は墓石がない。死後の盗掘を恐れて墓石を建てず、代わりそこには杉の大木が植えられたという。また11代以降の墓もあり、こちらにも、手を合わせる。
そろそろ「白石」をあとにするころがやってきた。白石は和紙とうーめんが名物だという。和紙は奈良東大寺二月堂の「お水取り」で使われる名紙であり、白石温麺(うーめん)も有名だが、私は金欠旅行の最中だし、第一「食べる」ために旅行しているのではないので気にもせずに駅にもどる。
15時16分。白石を発車する。この付近にも気になる場所がたくさんある。特に隣の常磐線の「亘理」は伊達実元・成美父子の領地でもあり無性に気になるが、さすがにそんな時間は残されていない。ただその常磐線と合流する「岩沼」が気になった。ここには「竹駒神社」という伏見・常陸笠間に並び三稲荷として有名な神社があり、興味が注がれた。しかも、司馬遼太郎の「街道を行く」の舞台にもなっており、時間さえ許せば途中下車したかった。しかしそろそろ仙台到着時間が怪しくなり始めたので、「岩沼」で腰があがれば降りよう、ということにしてロングシートに沈没する。
岩沼15時42分。結局沈没したままで腰があがらずそのまま仙台へと向かうことになる。
16時03分。「仙台」到着。私はこの駅の空中通路の実用性に日頃から感心しており、例えばどこぞの大宮の空中通路よりも、よっぽど美的にも美しいと想っている。そんな仙台は私が好きな街である。今回は平成10年「南東北周遊記」以来久しぶりの仙台ということもあり心躍るが、その時同様に仙台散策することができない。まあ、本来は別の目的で仙台にやってきたのだからいたしかたがない。車中での小一時間ばかりの休息のおかげか体調も快復し、あとは本来の目的を果たすだけであったが紀行文としては仙台到着で筆を置きたいと思う。
<あとがき>
仙台での野暮用とは恥ずかしながら(笑)「國府田マリ子ライブ」であった。帰りのバス停前でライブ終了後に私と同じように夜行バスで東京に戻るという、あるサイトで知り合った横浜の方がおり思わず「不思議なものがあるもんだ」と想うと同時に「私の他にもライブ終了後に夜行バスに乗る気狂いがいるもんなのか」とも想ってしまった。なんでも、日頃愛用している扇子が目印になって私に気づいたとか(笑)
さて、紀行文もだんだん狂ってきました。もはや鉄道紀行文ではありません。後半はへばって筆の進みもいい加減なものになり、苦行以外のなにものでもありませんでした。執筆期間は「東京大神宮篇」脱稿後の約一週間、400字詰め原稿用紙換算は約45枚。やはり苦行だった。
<参考・引用文献>
○JTB時刻表 2001.8
○保原町史 第一巻 通史 保原町史編纂委員会編 昭和62年2月
○鉄道廃線跡を歩くZ 宮脇俊三編著 JTB 1999年12月
○角川日本地名大辞典7福島県 昭和56年3月
○角川日本地名大辞典4宮城県 昭和54年12月
○郷土資料事典7福島県 人文社 1998年2月
○郷土資料事典4宮城県 人文社 1998年2月
○内田百闡S集第七巻 内田百闥 講談社 昭和47年10月
○吉川英治歴史時代文庫 私本太平記 講談社 1990年5月
○山岡荘八歴史文庫 伊達政宗 山岡荘八著 講談社 1986年8月
○街道を行く26 嵯峨散歩、仙台・石巻 司馬遼太郎著 朝日文芸文庫 1990年6月
○日本陸海軍名将名参謀総覧 新人物往来社 1995年5月