「十二月八日を想う」あの日から六十年
(「内親王殿下御誕生つれづれ」及び「靖國神社を想う・12月8日篇」二編立て)
「内親王殿下御誕生つれづれ」
平成13(2001)年12月1日
この日は朝から騒がしかった。
皇太子殿下同妃殿下の間に待望の御子が生まれそうだ、ということで、世間は奉祝の大騒ぎをしていた。私は、てっきり男児が生まれるものだと思っていた。わざわざ、そのための準備をしてきた。
この12月1日に待望の皇太孫殿下がお生まれになったならば間違いなく「運命の御子」となったはずであった。
昭和16(1941)年12月1日
60年前の昭和16(1941)年12月1日午後2時、宮中東一ノ間で御前会議が開かれた。そして午後4時、会議は終わった。
「十一月五日決定帝國國策遂行要領ニ基ク対米交渉ハ遂ニ成立スルニ至ラス帝國ハ米英蘭ニ対シ開戦ス」
すでにその一ヶ月前から決意は固まっていた。昭和16年11月5日。宮中東一ノ間にて同じような御前会議が開かれ、「帝國國策遂行要領」が可決された。
一、帝國は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為此の際米英蘭戦争を決意し左記措置をとる
(一)〜(四)省略
二、対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功すれば武力発動を中止す
11月27日。前日に出されたハル国務長官のいわゆる「ハル・ノート」が日本側に届く。当時の日本としては、特に陸軍としては、絶対に受け入れることができない項目が並んでいた。
心ない人はいう。「戦争の被害を考えれば、受け入れた方がましだった」と。戦後の感想を戦前にいうことができれば、これほど楽なこともない。平気でこう考える人間がいるのだから、世の中は不思議なものである。
もはや、運命の階段を降りるしかなかった。
開戦を決意した翌日の12月2日。開戦日が12月8日と正式に決定される。
杉山元参謀総長は寺内寿一南方軍総司令官に電報を発した。(四は略)
一、大陸命第五六九号(鷲)発令あらせらる
二、「ヒノデ」は「ヤマガタ」とす
三、御稜威の下切に御成功を祈る
(ヒノデは開戦日の隠語。12月1日から10日まで隠語で順に(1)ヒロシマ(2)フクオカ(3)ミヤザキ(4)ヨコハマ(5)コクラ(6)ムロラン(7)ナゴヤ(8)ヤマガタ(9)クルメ(10)トウケフ(トウキョウ)と都市名が割り当てられていた。)
山本五十六連合艦隊司令長官は旗艦「長門」から命令を発した。
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」
意味は「十二月八日午前零時以後開戦状態ニ入リ各部隊ハ予定ニ基キ作戦ヲ開始セヨ」というものであった。
平成13年12月2日
私はこの日は、憂国の想いをともにする同志らとともに「皇居」に向かう予定であった。
この日の前日。12月1日午後2時43分、待望の御子がご誕生なされた。
「内親王殿下」ではあったが、それでも喜ばしい事であった。しかしその日から、日本中は「おかしな奉祝」に包まれた。私にはわからない。本当にご誕生を喜ぶ気のある人間がどのくらいいたかはわからない。
東京駅午後2時。駅には大きな日章旗が掲げられ、皇居に向けられてまっすぐに人の流れができていた。駅の回りを散策する。本当ならすぐにでも皇居に行きたかったが、人と待ち合わせをしていた。
午後3時。誰もこない。待ち合わせの時間だが、誰も来ない。私は「五分前の精神」に基づいて準備しているのに誰も来ない。しばし待つ。同志の一人、法華八紘氏に電話をする。「変な横須賀線が走っていて、どうやら東京じゃなくて新宿に行く羽目になった。ゆえに遅れる。」とのこと。12月のJR東日本ダイヤ改正にて「湘南新宿ライン」という「横須賀・東海道線」と「高崎・宇都宮線」を新宿・池袋経由にて連絡するというすばらしい路線が誕生した。しかし、彼にとっては迷惑な話で、知らなかった故に「遅れる」羽目になった。
3時10分。ようやく電話がかかってくる。相手は同じく同志の秋水先生。「いま、着いた。どこにいる?」遅れたのもこの人の多さだ。いたしかたがない。「皇族専用口の前で待っている」「えっ」「とにかく、東京駅の真ん中だ。」
やっと合流したのでひとまず皇居に向かおうかと思う。とにかく凄い人の流れであった。押し分けるようにとにかく進む。
和田倉門から桔梗門に行こうかと思うところで、警官に止められる。別に私が不審者な訳ではない。理由を聞くに、どうやら午後4時まで行われるはずであった「記帳」は、あまりの多さに収拾がつかず本日は中止。翌日行うからまた来てくれ、とのことらしかった。それはいたしかたがない。なんせ、私はあまり気乗りしなかった。「皇太孫殿下」誕生ならいざしらず「内親王殿下」である。
おかしいのは、世間一般とマスコミ連中に煽られた人間たちである。ゆえに、私のような愛国者は記帳できず、ただの妃殿下ファンが殺到する。世も末であった。
一度、内堀通りに戻る。しょうがないのでこのまま「新宮さまのご誕生をお祝いする国民の集い」に参加しようかと思う。
前日、法華八紘氏がなにやら馴染みの「和風レストラン」と名乗る居酒屋からビラを貰ったとのことで、いち早く情報をくれた。「皇居前広場(二重橋前)」にて午後4時会場、5時開始で「集い」が行われるという。
いざ行ってみると、こちらもとんでもない人の行列。どうやら「記帳」が出来なくて列に加わった人もいれば、「記帳」と勘違いして並んでいる人もいるようだった。
私は思いっきりしらけていた。ただ、雑踏を眺めているのは楽しかった。どうも世の中がおかしい。ここにいる群衆が 天皇陛下や皇太子殿下や皇族をなんと思っているかは知らない。私にはわからない。ただ、なにかがおかしかった。
しばらくすると、我々の先輩にあたる海軍元帥殿がいらっしゃった。彼は現役の軍人(海上自衛官)で将来は日本海軍を背負うともっぱらの噂が出ている人である。だが、法華八紘氏はどうにも遅かった。遅かったわけは「記帳は出来ない」と言ってあるのに桔梗門まで突き進み、つまり私と秋水先生が追い返されたのと同じ事を繰り返してきたらしい。とにかく同志は揃った。
午後5時「集い」は始まった。でも、なんというか私はなにも覚えていない。誰が話をして、誰がどうしたかは覚えていない。あまりにもしらけていたうえ、熱意もなかったからだろう。
「君が代」を唄う。そして万歳のやり方を教わる。「手のひらを前に向けて両手を挙げるとそれは、降参になってしまいます。万歳は手のひらを内側にしてまっすぐに挙げます」云々と聞いた。これは、おおいに勉強になった。
最後に、幾度も幾度も万歳をする。いつの時代もやることは一緒であった。
そしてよくわからないまま「集い」は終わった。我々も戻ろうかと踵を返したところで、放送が入る。「今入りました情報によりますと、まもなく二重橋に 天皇皇后両陛下がおいでなさるとのことです。」この瞬間の我々の動きはすばらしかった。「なにいっ、 陛下がおいでなさるのか!」返した踵を戻して、さらには駆け出す。走り出す。とにかく前に向かって突撃を開始した。
あとは、よくわからない。ただ「 天皇陛下万歳!!」を繰り返しただけだった。
「集い」は終わった。さあ「どうしよう」ということになったが、法華八紘氏がビラを頂戴した例の飲み屋で「内親王殿下ご誕生を記念するための祝宴」を開くことになった。この「和風レストラン」な居酒屋、愛国的というか海軍的というか、とにかく我々と同じ系統である。二階に上がってみれば、そこは海軍色に染まった展示物の数々。外見はいたって普通で、食べ放題では24時間無制限で、肉から寿司から、とにかく何でも食べ放題というすばらしいお店。
そこで「おばちゃん、行ってきたよ」と法華八紘氏が「奉祝提灯」を差し出す。おばちゃんは「そうかい、行ってきてくれたかい。ありがとうねえ。仕事でいけないからねえ。ホントにうれしいねえ。よかったねえ。」と大喜び。これだけで、すべての話が通じてしまった。
その「奉祝提灯」はその居酒屋にありがたく掲げてあり、いまでも「奉祝」している。場所は五反田駅南口のすぐ近く。見かけたら、その「奉祝提灯」にはそういういわくがあると心に留めて貰いたい。
「靖國神社を想う・12月8日篇」
平成13(20001)年12月8日・靖國神社
12月8日がなんの日かわからない人間が増えたという。まったくもって信じられない事態であり、私は人間不信とならざるを得ない。この日になにが行われるのかわからない。ただ「靖國神社」に行こうと思う。この場所であれば、私と志を同じくする人々が集っているはずだから・・・。
家を出る前に見たニュースはいう。「今日は雅子さまと愛子さまが退院なされます。」と。私は嫌いだ。なにがというとこの呼び方が嫌いである。どこにも敬意のかけらもない。私は絶対にこの呼び方はしない。いうなれば「皇太子妃殿下と敬宮内親王殿下」である。
とにかく、こういう日であって、ほかに12月8日はなにも意味をなさない日らしい。少なくとも、何もニュースは言わない。
靖國神社12時。思った以上というか、予想通りに人々が参拝していた。
さすがに「靖國神社」である。この運命の日を忘れずに、人々は参拝している。老若男女が参拝している。おもわず、涙腺がゆるみ、たましいが震える。来て良かった。ただ、佇むだけでもうれしかった。
靖國神社とはいったいなんなのだろうか。私にはわからない。ただ、まったく違和感のない光景が広がる。
今年の8月15日にも私はこの場所に立った。
そして「英霊に応える会」もまったく同じ場所に例の「愛国的絵画展」を展開し、今回は「靖國神社カレンダー」を販売する。一部500円。「参拝の記念にいかがですか」「一家に一部、靖國カレンダーを購入して英霊の皆さんに感謝いたしましょう」云々。こう言われてしまうと、とにかく参拝者はカレンダーを買わなくてはいけない気分にさせられ、なんとなく売れ行きは好調のようであった。
「今日の参拝ありがとうございます。」「参拝、ごくろうさまです。」と「英霊に応える会」の人に声を掛けられる。別に私個人に声を掛けてくれたわけではなく、参拝者に声を掛けたに過ぎない。ただ、この会のこの人は今年の2月11日と8月15日と12月8日の3回も私は見かけている。私も祈念日には靖國神社に行く。彼らも靖國神社に行く。必然的に、私はよく知っている。もしかしたらむこうも私を知っているかも知れない。
なにごとも物事を簡単には考えることができない。ご老体がおられる。どう見ても靖國の友に会いに来た方々である。友がこの神社に祀られている。そして、またこの12月8日を迎えたことを戦友に報告に来た人。そういった方々の何人かは海軍軍服やら陸軍軍服やらを着用していた。この1年に1回しか訪れない12月8日の報告を、毎年かかさずに戦友に行っているこの方々を見ると、どうしても熱くこみあげてくる想いがあった。もう体中が震えていた。
もう1時になろうとしていた。そして純粋に「静か」であった。例えば8月15日の異常な騒がしさもない。人々は皆、深々と参拝を行っている。さらには「靖國通り」で高らかに軍歌を流す車もいなかった。とにかく静かだった。
あとで、聞いた話によると、うるさかったのは元赤坂の東宮御所のほうだったとか。もっとも軍歌ではなく群衆ではあるが。
疲れてくると「靖國会館」に足がおもむく。ここでは、無料でお茶が飲めるというありがたい喫茶店として私は毎回利用していた。しかし、足はおもむくけれども中には入れなかった。入る勇気がなかった。ちょうど「靖國会館」の前に軍人が二人、直立不動で敬礼をしており、そこから指揮刀をもった海軍軍人が歩いてきたところに出くわしてしまった。
さっきから、至る所にちらほらと軍人がいたのが気になっていた。
あとで、確認したところによると、どうもこの「靖國会館」が彼らの着替え室兼控え室になっていたらしい。いずれにせよ、気がついたら隊列が出来ており、気がついたら20名ほどの、おそらくは「元軍人」の方々が集まっていた。
ラッパの音が高らかと鳴り響く。なんのラッパかを聞き分ける能力は私にはない。
ラッパが鳴り響き、この一団は行進を始める。まっすぐに歩き、どこかへと行ってしまう。私には、突然のことで理解できなかった。ただ呆然と歩む先を見送る。まさか、このままお帰りになるのか、とも思った。が、ラッパの音は鳴り響く。ラッパを考える。行進していた・・・。
そう思うと、私の決断は早かった。いち早くとって返し拝殿前の鳥居に向かう。まだ、なにも起きていない。本殿に頭を下げることを忘れずに行い、神門を抜け第二鳥居に向かう。ちょうど、道路側から第二鳥居の前に向かおうとしていた一団と向かい合う。予想通り先ほどの集団であった。
第二鳥居前で整列。体勢を整え、心を静め、いざ拝殿へと進む。行進のラッパが鳴り響く。私は走る。行進の先に進むように駆け足でその一団を捉える。
靖國神社だった。これこそが、靖國神社の光景だった。今。この集団は「昭和」を歩んでいる。私も彼らと同化したかのように、いや専属のカメラマンのようについて歩き、ファンダーにその勇姿を納める。
昭和の光景。軍人が靖國神社で拝神する。陸海軍合同の靖國神社慰霊祭。そう言っても差し支えがない光景。
何度となく想う。私は想う。靖國神社とは、一体何か。そして「大東亜戦争」とは一体何か・・・。
昭和16(1941)年12月8日・ハワイ真珠湾沖
東京時間12月8日午前零時(ハワイ時間7日午前4時30分、ワシントン時間7日午前10時)、南雲忠一中将率いる「機動部隊」は予定通りにオアフ島北方230マイルに到着した。
機動部隊の陣容は南雲中将直率の空襲部隊が空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」「瑞鶴」「翔鶴」。支援部隊は三川軍一中将が率いる戦艦「比叡」「霧島」重巡「利根」「筑摩」。警戒隊は大森仙太郎少将率いる軽巡「阿武隈」と駆逐隊群。その他にも周辺海域には哨戒のための潜水艦が張り巡らされていた。
午前5時30分(ハワイ時間)「利根」「筑摩」のカタパルトから零式水上偵察機が一機ずつ、直前偵察のため打ち出された。
偵察の結果、真珠湾には戦艦8隻、重巡2隻、軽巡6隻を初め大小94隻が在泊していた。しかし戦艦は全隻揃っていたが、空母は在泊していなかった。
戦闘ラッパが鳴り響き第一次攻撃隊の出撃準備が始まる。午前6時(東京、1時30分)、「発艦はじめ」の合図と共に次々と飛行機が舞い上がる。
第一次攻撃隊は総指揮官が淵田美津雄中佐、制空隊零式艦上戦闘機43機、九九式艦上爆撃機51機、九七式艦上攻撃機89機であった。このうち九一式魚雷を積んだ艦攻機が40機、二五〇キロ爆弾を積んだ機が51機、八〇〇キロ徹甲爆弾を持ったのが49機のしめて攻撃隊140機であった。
その1時間15分後(ハワイ7時5分)には島崎重和少佐率いる第二次攻撃隊が発艦。うちわけは九九式艦爆78機、九七式艦攻54機、零式戦闘機35機。第二次攻撃隊は魚雷を持たず二五〇キロ爆弾搭載機が105機、六十キロ爆弾搭載機が27機であった。
この時が、日本人765名が航空機に乗り込み、総計79.82トンの爆弾と40本の魚雷に機銃弾を積み込み、真珠湾に攻め込んだ瞬間であった。
すべてが、幸運に恵まれていた。単冠湾出港以来、道を遮るものはなにもなく、哨戒機に発見されることもなかった。
真珠湾を攻撃するという、破天荒な目標は遂に実現の時が迫っていた。
実は、これより前に攻撃は行われていた。
ハワイ時間6日23時、潜水艦5隻が真珠湾内の艦艇を攻撃するため特殊潜航艇を発進させた。
7日3時42分に湾内の哨戒艇が特殊潜航艇の一隻を発見、6時45分(東京8日1時15分)に湾内を警戒中の米駆逐艦ウォードが特殊潜航艇の1隻を発見し、撃沈した。(現在、江田島に展示されている甲標的が、引き上げられた該当艇ではあるが乗組員は不明)航空部隊が攻撃を開始する1時間ほど前のことであった。この事実は時を移さずに司令部に連絡され、それらの情報が司令長官キンメル大将に電話連絡されたのが7時40分(東京8日2時10分)であった。
まったく同じ時間。7時40分。オアフ島に到達した淵田隊長が「奇襲の展開命令」である信号弾を一発機外に発射し攻撃態勢に入った瞬間であった。(もっとも、連絡が行き渡らず、再度信号弾一発を発射したので合わせて信号弾二発発射の「強襲」と勘違いした部隊があった。)各航空部隊は攻撃のため展開し、7時49分淵田隊長は「ト連送」を命じた。「全軍突撃せよ」の合図であった。
4分後の7時53分。まだ一撃も攻撃を行っていなかったが、成功を確信した淵田隊長は「トラトラトラ」を発信した。「我、奇襲に成功せり」の略語が飛ぶ。日本時間の8日3時23分の事であった。
昭和16(1941)年12月8日・マレー半島沖
日本は真珠湾に攻め込んだだけではなかった。いや、むしろ全作戦行動の中心はマレー半島にあった。そして軍艦で構成されていた真珠湾攻撃に比べて、輸送艦で構成され、ましてや警戒厳重の中を進むマレー半島上陸の方が一層の危険を宿していた。
「ヒノデハヤマガタ」の電報を受けた山下奉文陸軍中将率いる第二十五軍は集結していた海南島を抜錨してマレー半島に向かった。12月4日午前7時のことであった。
12月6日午後1時45分。輸送船団は仏領インドシナ・カモー岬南方の洋上にさしかかっていた。この地点からまっすぐに突き進めばマレー半島にぶつかることになる。作戦では輸送船団は数時間後にバンコク・タイ湾に向かうかのごとく変進する予定になっていた。
そこへ航空機による爆音が鳴り響く。小澤治三郎海軍中将率いる護衛艦隊と輸送船団に警戒ブザーとラッパが鳴り響く。予想された事態が遂にやってきた瞬間であった。当然、予想はしていた。しかし、出来ることなら想定したくはなかった。
空には独特の大型双発機、ロッキードハドソン爆撃機がイギリス空軍のマークをはっきりと印し飛行してきた。ハドソン機は上空で大きく旋回し輸送船団の規模を測るように飛行する。
第一、バンコクに向かうと見せかける変針前のことであった。今のままではどう見てもマレー半島に直進しているようにしか見えなかった。このまま偵察を許すわけにもいかず、だからといって撃墜するわけにもいかず、旗艦「鳥海」に置かれた南遺艦隊司令部は大混乱を来した。しかし、南遺艦隊司令部内で小澤司令官は毅然とまるで平時の訓練のごとくに命令を発する。
「触接中ノ敵機ヲ撃墜セヨ」
艦隊の高角砲は一斉に火を吐き、南部仏領インドシナに基地をもつ海軍第二十二航空戦隊からも撃墜のために零式戦闘機が飛び立った。だが、危険を察知した英国機は西方に機首を返し、そのまま零戦の追跡を振り切ってしまった。
対英米戦の最初の一発は小澤治三郎中将によって撃たれたのであった。
南遺艦隊司令部は輸送艦に乗船している陸軍第二十五軍司令官山下奉文中将に対して「輸送船団ハ本六日英飛行機ニ依リソノ全貌ヲ発見セラレタリ」と伝えるとともにサイゴンの南方軍総司令官寺内寿一陸軍大将にも、極めて憂慮すべき英機接触事故を緊急通報した。
小澤長官は戦後「マレー作戦で奇襲はもちろん望ましいが、敵機が我が方を発見し触接をつづけるなら、我が方の企図はすべて暴露してしまうであろう。それなら撃墜すべきだ。あまり心配しすぎて敵機をそのまま行動させておけば、その結果はもっともっと重大なことになっただろう」と語っている。
これは、開戦二日前のことであった。当然、連合艦隊では厳重な無線封鎖が行われていた。どんな些細な無線も聞き漏らすまいと全神経をとがらせていたさなかのことであった。大本営と連合艦隊司令部はこの小澤中将の「作戦緊急電」を傍受し、まさに飛び上がるほど驚愕した。耳を疑い、やがて戦慄に襲われた。
ここで戦闘が始まっては、すべてが崩壊する。「真珠湾に向かっている艦隊は?」「マレー半島の輸送船団は大丈夫か?」「フィリピンや香港やシンガポールの動きは?」
作戦の中枢部はただ祈る思いで、経過を見守るしかなかった。
南遺艦隊旗艦「鳥海」艦橋内でも、幕僚一同が不安に包まれていた。そんな中、ただ一人小澤治三郎中将だけは、泰然自若と構え、何も変わらぬ顔つきをしていた。
すでに、日は没していた。しかし翌日7日には日本軍輸送船団の接近を知り大衝撃を受けたマレー・フィリピンの英米両軍は、両国航空隊は夜明けと共に大挙して輸送船団に襲いかかるに違いなかった。また、イギリスが誇るプリンス・オブ・ウェールズを旗艦とするイギリス東洋艦隊を中心とした英米蘭連合艦隊も総出撃してくるに違いなかった。このプリンス・オブ・ウェールズに対抗できる戦艦はまだ「長門「陸奥」しか日本海軍には存在せず、重巡主体の南遺艦隊では心許なかった。
遂に寺内寿一大将は悲痛な決断をせざるをえなかった。それは「翌七日早朝ヨリ敵機ノ反復来襲ノ虞大ナルト認ム」という判断報告につづいて敵海空兵力の攻撃を受けた場合には、海軍と協力して、航空機による進行作戦を開始するというものであった。
大本営は強烈な衝撃をうけざるをえなかった。
開戦日時は8日午前零時であるというのに、南方軍は7日早朝から戦闘開始は決定的だと伝えてきている。しかし、寺内大将の判断は状況を鑑みて妥当なものではあるし、攻撃を受けた場合の航空機による進行作戦も当然なことであった。
しかし、マレー半島上陸作戦は当初から哨戒厳重な危険海域を航行するため、奇襲などが易々とできる場所ではなかった。イギリス機に発見されたのも当然のことであったし、充分予測されていたことでもあった。
大本営中枢は、深刻な状態ではあったが、一方で諦めの色も浮かんでいた。
輸送船団は6日午後7時、西北方に変針し、予定通りに欺瞞のためバンコク・タイ湾方面に向かった。そのまま、夜の闇のなかを船団はただ進むだけであった。
深刻な状況が予想される12月7日がやってきた。早朝から航空機が上空掩護を行い、空気の緊迫さが兵士にも伝わってきた。
たしかに偵察の結果はシンガポールの極東軍司令部に伝えられていた。対日作戦用マレー防衛用の「マタドール作戦」というものをイギリス軍は兼ねてから準備していたが、12月6日の時点では、同司令部は開戦を予期せず日本軍の行動目的がはっきりしないため、日本軍はタイに向かうものとして「マタドール作戦」の発動はおこなわれず、何の処置もとらなかった。
さらに、英国東洋艦隊司令官のフィリップス大将は米国アジア艦隊司令長官ハート大将との打ち合わせのためマニラにいたため、日本艦隊・輸送船団発見の報を受け7日にシンガポールに引き返すことになっていた。
7日午前9時50分。南遺艦隊所属の特設水上機母艦「神川丸」から発した零式水上偵察機が、船団にかなり近い上空で不意にイギリス空軍機コンソリデーテッドPBYカタリナ飛行艇と遭遇した。カタリナ飛行艇がそのまま飛べば間違いなく船団を発見してしまう、という状況の中で零式水上偵察機は必死の誘導を行ったがおもうようにはいかず、カタリナ飛行艇は船団のほうになおも近づこうかと直進を始めてしまった。10時15分頃、前方から飛行してきた九七式戦闘機中隊がこの異変に気づき、一方でカタリナ飛行艇も銃撃を加えて逃げようとしたため、たちまち戦闘機隊は散開し、この飛行艇を撃墜した。
陸軍機によるカタリナ飛行艇撃墜の報は南遺艦隊、南方軍総司令部に緊急報告された。撃墜したことは船団偵察を阻止したという意味で大成功ではあったが、すでに昨日に引き続く攻撃は開戦日時以前に戦闘が開始されたという意味もあった。
大本営も覚悟を決め、また船団もこうなってしまった以上、敵機来襲の覚悟を決めて航行を続けた。
10時30分。小澤南遺艦隊司令長官から山下第二十五軍司令官に対して「上陸ハ予定ノ如ク決行ス」旨の信号が発せられ、予定海域に到達した船団は進路を変えコタバル・シンゴラ・パタニー等の上陸地点に向けて航行を開始した。ここから先は、欺瞞ではなく、上陸をむき出しにした行動となるため、ますますもって危険であり、ましてやイギリス軍が待ちかまえている海域への突入であった。
イギリスはいまだにマタドール作戦を発動していなかった。飛行艇一機が消息を絶ったという情報(撃墜されたとは想像できなかった)や午後5時30分に「輸送艦一隻、巡洋艦一隻、コタバル北方一一〇マイル。シンゴラニ向カウ」という報告。また午後6時30分に「駆逐艦四隻、パタニー北方六〇マイル、海岸沿ニ南下中」という報告があったにもかかわらず、いまだに決断できなかった。
イギリス極東軍司令部ブルックポーハム総司令官はフィリップス東洋艦隊司令長官と相談した結果、8日早暁の偵察結果を待ってから判断することにして、午後11時20分に「マタドール作戦発動準備」の命令を下した。
8日午前0時45分。輸送船三隻に分乗した佗美浩少将の第二十三旅団がコタバル上陸開始。続いて午前1時40分。山下奉文中将率いる第二十五軍司令部と第五師団主力がシンゴラに上陸。午前2時、第5師団歩兵第四十二連隊他がパタニーに上陸した。
真珠湾攻撃に先立つ1時間25分前のことであった。この報を受けた香港、フィリピン、グアム、ウェーキ等の攻略部隊は一斉に活動を開始し、ここに明白に「大東亜戦争」の火蓋が切って落とされた。
平成13年12月8日・靖國神社社頭の対面
60年後の靖國神社。あの日の、あの時を思い浮かべて社頭の対面を行う。
拝殿前。整然とした彼ら「元軍人」と私たち「ただの参拝者」は自然と体を引き締め、英霊に対座することになる。ここにいる皆の心は間違いなくひとつになっていた。
ラッパが鳴り響く。さっきまでは勇壮な高らかとした響きであった。しかし今はどうだろう。どこか悲しげな音色を奏でる。英霊に奉歌するラッパの音色。胸にこみ上げ、目頭が熱くなる。
この場にいるものすべてが同志であった。日本人の魂を共有する憂国の志士たち。下世話なマスコミは一人たりともいなかった。事実をわい曲する偏向的な奴は一人もいない。この場にいなければ誰も知らない光景が広がる。まったく不思議な光景。そしてまったく違和感のない風景。ごく日常の風景。
靖國神社とは・・・。
彼ら「元軍人」とともに私も英霊と対座する。
憂国の想いを胸に抱き、英霊に感謝する。すばらしき「日本国」の建設の為に命を捨てて、それこそ今の「日本国」の為に捨て石となって国難に殉じた英霊に・・・。二百十三万三千七百六十柱の英霊に慰霊の誠を捧げ、今日の我が国の安泰と繁栄に感謝する。
簡単なことではない。社頭で手を合わし、頭を下げるだけでは足りない想いに溢れる。言うは易し。なにもしないよりかは、する方がましである。
間違っても、同じ過ちを繰り返してはならない。これ以上、英霊を増やすような愚かなことは勿論、戦争という無用の惨劇の為に命を落とす時代をなくさねばならない。
恒久平和。英霊の想いも、そこにあるはずだから・・・。
せっかくだから「日章旗」を購入する。なんとなく欲しかった。今、なんとなく部屋に飾ってある。今、パソコンデスクの横でゆらゆらと風に煽られてゆれている。なにも、意味はない。ただこの日章旗の旗の下で「大東亜戦争」が行われ、二百十三万三千七百六十柱の英霊と日本国民七千万人の想いが交錯しただけであった。
<あとがき>
なんか、凄く熱が入ってしまいました。この作品は、なんと足かけ4日で完成。執筆時間にすると10時間ほど。
エッセイのつもりで書いたのに、どうしてか話が難しくなっていく。マレーに関して書きすぎました。真珠湾は有名だから控えたけれどもマレーはあまり知られていないので、つい筆に勢いがついてしまいました。
なんか「その時、歴史が動いた」的に、この瞬間・・・・、というのが多くなったような気がします。
なお、写真は、作品と一緒に掲載すると作品のイメージを思いっきり下げそうなぐらいインパクトが強いので、特別に、この場所からのみ限定で「十二月八日を想う・写真館」にとぶように設定しました。
―――――「表写真館」へ―――――
―――――「裏写真館」へ―――――
神社の話が出来なくてごめんなさい。次こそは「神社」を書きます。
<参考文献>順不同
『昭和16年12月8日 日米開戦・ハワイ大空襲に至る道』児島襄著 文春文庫 1996年9月
『史説 山下奉文』児島襄著 文芸春秋社 昭和44年5月
『太平洋戦争(上)』児島襄著 中公新書 昭和40年11月
『大本営が震えた日』吉村昭著 新潮文庫 昭和56年11月
『昭和史の謎を追う(上)』秦郁彦著 文芸春秋社 1993年3月
『最後の連合艦隊司令長官−勇将小沢治三郎の生涯』寺崎隆治著 光人社 1997年12月
『日本海軍総覧』 別冊歴史読本戦記シリーズ26 新人物往来社 1994年4月
『太平洋戦争海戦ガイド』福田誠・牧啓夫共著 新紀元社 1994年2月
「歴史と旅・日米開戦50周年記念号」特集真珠湾奇襲攻撃 秋田書店 平成3年12月号
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