「武蔵の古社を想う・足立郡他編」
<平成十四年十一月参拝>
目次
「足立神社」(式内社・村社)
「多気比売神社」(式内社・村社)
「久伊豆神社(岩槻)」(県社)
「久伊豆神社(越谷)」(郷社)
<参考・武蔵国の延喜式内社>
「足立神社」
(式内社・村社・さいたま市飯田鎮座)
祭神:猿田彦命ほか17柱
足立神社は古代における殖田(植田)郷に鎮座し、この殖田郷を本拠としていた豪族足立氏が奉祀していた神社であると考えられる。ただ長い年月で足立氏は衰微し、江戸期には足立神社と称する社が多数にわたる状態となり、式内社を確定するのは難しい。
「新編武蔵風土記稿」では足立氏の子孫と伝える植田谷本村の名主であった小島勘太夫の屋敷内で祀っていた足立神社が式内社であるとされている。
当社は 古くは氷川八幡合社と称していた。。明治6年に村社列格。明治40年に政府の合祀計画により近隣の村社、無各社計30社を合祀。この中に有力な式内社「足立神社」であった植田谷本村の足立神社、水判土村の足立神社も含まれ、この合祀を機に氷川神社から足立神社と社名も改められた。
足立神社 |
足立神社拝殿 |
足立神社本殿 |
足立神社境内社・十二所権現神社 |
何も考えずに、唐突に神社に行きたくなった。そんな軽い気持ちで「JR大宮駅」に到着。大宮駅からは西に3キロ程度なので普通に歩いても良かったが、駅前のバスロータリーに二ツ宮行のバスが止まっている。間違いなく神社の方向に走っているバスは大体10分に1本という高密度であった。
「足立神社前バス停」。そのものずばりの神社前で下車する。境内はすっかり秋らしい様相。足立神社周辺の水判土・飯田・植田近辺は歴史散歩コースとして整えられており、地味ながらも見所が多い。私は足立神社だけを見聞して、大宮駅に戻るだけだが。
また境内社の十二所権現神社(合祀した神社十二所にちなむものか?)も、足立神社ともどもに神威的気配というか風格を感じてしまった。
10分ごとに走っているバスなので、さして慌てずに散策できる。足立神社から500メートルほど東にすすんだところが水判土バス停。ちょうどここには慈眼寺という寺もある。合祀前の水判土足立神社の面影はどこにもないが。そこから南に500メートルほど南下すれば豪族足立氏の本拠地とされる植田谷本もある。
ただ、今は荒川の作りだした低地を感じながら、バスに乗って大宮駅に戻ることにする。続いて大宮駅からJR高崎線にのって桶川の多気比売神社に向かおうかと思う。
「多気比売神社」
(たけひめ神社・通称姫宮神社・村社・桶川市篠津鎮座)
祭神:豊葦建姫命・倉稲魂命
元荒川右岸の加納川に面した集落で、かつては篠津沼という大沼があった。祭神名の豊葦建(竹)姫命から連想できる篠や葦、竹が多い茂った付近一帯で、女神を祀った神社。
江戸期は「姫宮神社」と呼ばれ、式内社「多気比売神社」に比定。ふるくから安産の神として信仰を集めていた。
境内にある「多気比売神社の大シイ」は樹齡約600年とされ、樹高13メートル、根回り6.7メートル、枝張り最大17メートルという大木である。
手前が赤堀川、奧の社叢が多気比売神社 |
多気比売神社と大シイの杜 |
多気比売神社・境内 |
多気比売神社・拝殿 |
JR桶川駅は予想以上に狭い駅だった。駅前の旧中仙道も狭い。そんな窮屈な駅前にバスが止まっている。行き先は「菖蒲車庫」。このバスに乗れば多気比売神社に行けそうなことは地図を見れば見当できる。桶川から菖蒲に向かう途中に神社があるのだから。このバスは20分毎に運行されており、比較的乗りやすいバス。さすがに桶川駅から6キロほど離れているとバスに乗りたくなる。
「工業団地入口」というバス停で降りる。神社に行こうというのに名前がパッとしないバス停だがやむを得ない。バス停の脇には「調整池」があり、その先に赤堀川がある。川に沿って100メートルほど歩くと神社が見えてくる。知らない土地でも神社社叢の気配というのはわかりやすかった。遠目では木々の多いしげる立派な社叢にみえた。しかし境内に入ってみるとなんとなく不思議な感じ。この多気比売神社の社叢はたった数本の大シイの木によって産みだされていた。
鎮座地は赤堀川と元荒川支流に囲まれた篠津という地域。水の女神を祀る神社としては恰好の雰囲気であった。神社はさして広い方でもないが大シイによる圧迫感もなく、むしろ開放的な気配。あたりは長閑な田園地帯。わざわざ来て良かった、と思わせる神社であった。
多気比売神社の次にどこに行くかが謎であった。行きたい場所は幾つかあるが、中途半端な位置。現在地の桶川から近いのが鴻巣からバスに乗っていける前玉神社。しかしさきたま古墳も見聞したいので今回は余裕がない。
ではどうしよう。結局大宮に戻るしかなさそうだ。そういうわけで再びバスに乗って桶川駅から大宮駅に戻る。電車の車中で加須駅最寄りの玉敷神社にするか、鷲宮駅もよりの鷲宮神社にするかを悩んだが、結局これらも同じ日にまとめた方がよさそうだ。今日は近いところにしよう、というわけで「久伊豆神社」にすることにきめよう。
「久伊豆神社」
(県社・岩槻市宮町鎮座・ひさいず神社)
祭神:大国主命(大己貴命)
創立は不詳。一説に第二九代欽明天皇の頃(539−571)に土師(はじ)氏が出雲国から分霊を勧進し岩槻の地に久伊豆明神(=大己貴命)を勧進し社殿を建立したことにはじまるという。
中世期には太田道灌が岩槻城を築城(長禄元年・1457)した際に当社を祈願所・岩槻城鎮護とし、太田資正が天文19年(1550)に岩槻城の鎮守として崇敬してきた。
明治6年に村社に列格するが、明治8年に不審火によって拝殿本殿から末社に至るまでをことごとく焼失。本殿再建が明治15年、拝殿・神楽殿再建が大正4年。大正12年に郷社列格。神社側はすぐにでも県社列格を希求したが、敗戦後の昭和20年10月19日にようやく県社に列格。(ちなみに社格制度廃止は昭和21年2月2日)
境内には岩槻城主が乞雨祈願に使用したという「雨乞いの井」や県内三大「さかき」とされる大木がある。神社境内は岩槻城趾の一部でもあり、元荒川を臨む社叢は埼玉自然百選に選ばれている。
久伊豆神社(岩槻) |
久伊豆神社(岩槻)参道 |
久伊豆神社(岩槻)境内 |
久伊豆神社(岩槻)拝殿 |
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左:久伊豆神社(岩槻)本殿
明治十五年再建 |
JR大宮駅から東武野田線にのって岩槻駅下車。そこから歩くこと二キロ程度、ちょうど東武野田線の線路を横断した正面に位置している。いわば参道の途中を分断されたかたちともいう。鳥居をくぐったあとも参道は250メートルほどは続いている。ちょうど社地の北東には元荒川が流れている。
駅前から歩いてきたためちょっとバテ気味。そのうえ拝殿の見えない参道にウンザリし始めるが、ゆっくりと歩みを進めることにする。境内の一角にはウサギやニワトリがいる小屋があったりして、なつかしい雰囲気がただよう。神社はいたって真面目な気配であり、ちょうど拝殿では七五三のお祝いが行われていた。明治期に一度火災で焼失した神社というが、社叢は重層であり、かつ社殿も雰囲気も真新しさを感じない。
欽明天皇のころ創祀とされる神社は、県社という格にふさわしい境内をもっていたが、それを飾ることなく「街の鎮守」的にいたって真面目に愛されている様子を感じさせてくれた。
さて、次も久伊豆神社に行こうかと思う。東武岩槻駅に戻って、東武野田線・東武伊勢崎線を経由して東武北越谷駅で下車。越谷の久伊豆神社に向かおうかと思う。
「久伊豆神社」
(郷社・越谷市越ヶ谷鎮座・ひさいず神社)
祭神:大国主命・事代主命など五柱
創建は不詳。一説には、平安末期とも室町期ともいうが不明。
久伊豆神社分布圏内は平安末期の武士団、武蔵七党の野与(のよ)党・私市(きさい)党の勢力範囲とほぼ一致する。当社の周辺には野与党に連なる豪族の支配地であり、創建には野与党が関わっていたものと推定。
鎌倉期は源頼朝が伊勢神宮に寄進した神領(大河戸御厨・中心地は松伏町大川戸)でもあった、という。
当社の神紋は「立葵」。一般に「葵」紋は禁止されていたが、参道入口を流れる元荒川対岸に徳川将軍家が鷹狩り等に使用する「越ヶ谷御殿」があったことなどから、特別に許可されたものとされている。(文書には残っていないが将軍が参拝した際に紋を奉納か)
本殿は寛政元年(1789)に再建されたもの。社殿関係では昭和39年に幣拝殿の建設、昭和55年に外拝殿、昭和58年に参集殿、平成2年に社務所、平成3年に回廊新設等いちじるしく充実をしている。特に「伊勢の神宮」第61回式年遷宮の折に「内宮の板垣南御門」古材を拝領し、平成7年に第三鳥居として建立している。
当社には国学者・平田篤胤(ひらたあつたね)の仮寓跡とされる「松声庵」がある。また久伊豆神社の藤は埼玉県指定天然記念物。樹齡約200年といわれ、毎年五月初旬には見事な藤の花を咲かせている。
平田篤胤仮寓跡(埼玉県指定旧跡)
この草庵は幕末の国学者である平田篤胤の舍即学問所であったといわれている。平田篤胤は幕府の忌憚にふれ隠退を命ぜられた際に、越谷の地に門人の山崎篤利がいたことからしばしば当地に滞在していたという。
久伊豆神社(越谷) |
久伊豆神社・第一鳥居(越谷) |
久伊豆神社・第三鳥居は伊勢神宮古材(越谷) |
久伊豆神社・拝殿(越谷) |
久伊豆神社・本殿(越谷) |
平田篤胤草庵跡(池の畔にあります) |
東武北越谷駅で下車し、東に1.5キロ弱を歩くと元荒川に面した久伊豆神社の入口が見えてくる。社地は広く、それこそ岩槻久伊豆神社よりも広いがそれでも郷社。入口の社号標の郷社をセメントで埋め込んでいるが、それがより一層に目立っている。
参道は延々に一直線に伸びている。距離にして500メートルはあり、そして秋なのに紅葉をせずミドリミドリしている樹木(つまり常緑樹)のおかげで一層暗い参道。経験したことがないぐらいに多数のカラスが鳴きわめいている環境。参道隣には県立越谷高校がありちょうど下校時間と重なってしまい何となく私は居心地が悪い。
この神社の第三鳥居は「伊勢の神宮」第61回式年遷宮の折に「内宮の板垣南御門」古材を拝領し、平成7年に第三鳥居として建立したものであり、当社の隆盛ぶりがよくわかる。驚いたのが「社務所」でまるでホテルのフロントのようにガラス張りで豪勢であった。
そんな神社でも雰囲気が落ち着く一角がある。藤の老木の後方に広がる神池は、夕日の光をあびて静かに湖面を揺るがせている。回遊式に作られた神池をめぐる。その一番奧まったところに「平田篤胤」の草庵がある。あたりの樹木と溶け込むかのようなその草庵は平田篤胤の劇的な雰囲気からは想像できないほどに質素で「わび」が感じられた。この草庵に接しただけで満足。なかなか良いものが見聞できた。
もう夕方。あとは1.5キロほど歩いて東武越谷駅から帰路につくだけである。
<参考文献>
角川日本地名大辞典・埼玉県
各神社の由緒看板・案内看板
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