「郷土の鎮守様」 〜埼玉県朝霞市の神社・その2〜
<平成15年10月記>
目次・その1
「宮戸神社」/「内間木神社」/「下内間木ノ氷川神社」/「田島ノ神明神社」/「浜崎ノ氷川神社」
目次・その2
「岡ノ氷川神社」/「溝沼ノ氷川神社」/「膝折ノ氷川神社」
「岡ノ氷川神社」
(村社・朝霞市岡3丁目鎮座)
主祭神:素戔嗚尊
配祀神:菅原道真・倉稲魂命・大戸比売命・市杵嶋姫命
当社の境内から造営時と思われる鎌倉時代の瓦が出土していることから、創建時も鎌倉時代と推測されている。
鎮座地の200メートル南方に「城山」(現在の城山公園)とよばれる南北朝期から戦国期にかけての居館跡(太田氏)があることから、武将の崇敬があったことも想像できる。
氏子地域は岡・根岸台・本町・栄町・仲町。旧別当は東円寺。
昭和46年に社殿造営。
岡ノ氷川神社・参道 |
岡ノ氷川神社・拝殿 |
岡ノ氷川神社・社殿 |
岡ノ氷川神社・境内社 |
「溝沼ノ氷川神社」
(村社・朝霞市溝沼6丁目鎮座)
祭神 稲田姫命
配祀 天照皇大神・素戔嗚尊・面足命・惶根命・木花開耶姫命・菅原道真・伊弉冉尊
明治期までは「地類神社」「地類根様」「じるいね様」と称されていた。江戸期の社名は地類神社で祭神は稲田姫命。
寛文年間(1661−73)に村民が畑を耕すと地類権現と彫られた石を得たために、当時の地頭が社を建立しようとしたところ、偶然にも古くから稲荷山と呼ばれていたところで社の跡地に違いなく祀るに最適だというわけで社殿が造営されたという。
明治40年に近隣の無格社8社を合祀。その折りに氷川神社と改称。村社列格。
溝沼ノ氷川神社 |
溝沼ノ氷川神社 |
「膝折ノ氷川神社(子之神氷川神社)」
(村社・朝霞市膝折2丁目鎮座・平成16年5月参拝)
祭神・素戔嗚尊
膝折の地名は小栗小次郎助重が賊に追われて馬で当地まで逃れてきたところ、その馬が膝を折って死んだことに由来するという。
当地は室町期からすでに宿駅として栄えており、市も立てられていた。河越城と江戸城を結ぶ、現在の川越街道のもととなる道が整備され、両城の中間地点が膝折宿であった。近世にはいると川越街道の宿駅となり、寛永年間(1624ー44)に街道整備によって宿場が南方の新座和光沿いに移された。
当社は膝折の里の南方に位置し「子の神」とよばれる山上に位置する。
創建年代は社殿には明暦年間(1655−58)とされている。創建に関する詳細伝承は不明ながら、古くから山の神として祀られていた「子の神」が座す丘の上に、中世期頃武蔵一の宮氷川神社が勧請されたと推測できる。
明治43年に宿の愛宕社と上ノ原の稲荷社、下ノ原の稲荷社の無格社三社を、村社である当社に合祀している。
当社付近は水利に恵まれており、はやくから開けた一因ともなっている。境内一角にも清水がわき出しており、付近を麗している。
なお当社に隣接して陸上自衛隊朝霞駐屯地がある。駐屯地の隊員は海外出張などがある際には、当社で安全祈願をしてから出発するのが慣例となっているという。
また境内には駒留めの「榧(かや)」として昭和7年の陸軍秋期演習の折に竹田少尉宮恒徳親王が愛馬をつないだという「榧の木」がある。
氏子地域は膝折・幸町・三原・泉水。元来、参詣に際して川越街道(旧川越街道)から当社に至る参道を歩んできたが、国道254号(現在の川越街道)が参道を分断するかたちとなってしまっている。
膝折ノ氷川神社・入口 |
膝折ノ氷川神社は水が豊富 |
膝折ノ氷川神社・神池 |
膝折ノ氷川神社・拝殿 |
実は「膝折ノ氷川神社」は、むかしから馴染みがあった。この近くの高校に通っていた私は、高校時代にはなんとなく神社があったな程度でしかなかったが、参拝時に高校を経由して訪問した時に、懷かしくて仕方がなかった。高校での体育の時間にはよくこの前を走っていました。地元の人なら分るかと思いますが・・・。
<参考文献>
『埼玉の神社』北足立・児玉・南埼玉郡編 平成10年3月 埼玉県神社庁
『朝霞市史』
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