「大蒲原平野を想う ―弥彦神社・新潟交通・蒲原鉄道・山本五十六―」
はじめに
今回もまた無秩序です。どうやら私は「神社」「鉄道」「近代史」をあべこべにつまみ食いしたあげくに、すべてを半端にしているような気がする。ゆえに、話が二転三転するが御了承願いたい。特に今回は珍しく「神社」が余計な事のように思える。
だいたいにおいて、一人の人間による趣味の対象が「弥彦神社・新潟交通・蒲原鉄道・山本五十六」とならぶところがおかしい。
目次
「ムーンライトえちご・大蒲原平野」
「新潟交通・旧東関屋駅」(写真編は「新潟交通の面影」を参照)
「弥彦」
「彌彦神社」(弥彦神社・越後国一の宮・式内明神大社・国幣中社)
「JR弥彦線−磐越西線」
「蒲原鉄道・五泉−村松」(写真編は「蒲原鉄道の面影」を参照)
「新津」
「長岡・山本五十六」
「JR上越線」
「ムーンライトえちご・大蒲原平野」
18キップシーズン。そろそろどこかに出かけたくなるのも毎度恒例のこと。出かけるなら普通に出かければいいのに、わざわざ18キップを使ってしまう。もしかしたら、これは病気なのかもしれない。そんなことを思いながらJR池袋駅にむかう。
駅は帰宅する人々を吐き出す。そんな流れに逆行するかのように首都圏に向かう。人が過疎となる方向に向かいはするも、池袋はまったく普段と変わらない人の賑わい。入線予定のホームは帰宅の足となる宇都宮・高崎線の列車を迎え、そのたびに大勢の乗客が行き来する。そんな喧騒も最終列車が行き来したあとは静寂に囲まれる。向かいの埼京線ホームはあいもかわらず賑やかなのに、こちらのホームは照明すらも半減したかの様相となる。
私は待つべき場所を探す。一向に見当がつかないので駅員に伺う。「ムーンライトえちごの停車位置はどこですか?」と場所を確認した後で編成も伺う。「今日は何両編成ですかね。3両ですか、6両ですか」と。まだ見ぬ列車に対して、ここまで聞くような奴は初心者ではないと駅員も感づいただろう。
小雨が降っている。私にとっては雨だろうが関係はない。私が濡れるわけではなく、これから家路に着く人たちが濡れるだけなのだから。
23時16分。定刻通りに6両編成のムーンライトえちごが入線し、そして発車。席を探し、さっそく座る。座るとともに身体は「夜行モード」となり、あっという間に「寝られる体制」となる。そんな私を見知らぬ隣人は「旅行ですか」と訊ねる。この瞬間に私は思った。「この人は熟練者だな」と。同時に向こうも私のことも熟練者と思ったらしい。見知らぬ隣人は長岡まで行くということでしばし空間を共有する旅人となる。
新宿、池袋、赤羽、大宮と停車する「ムーンライトえちご」は最終便間際の帰宅人にとっても恰好の電車。帰宅者が何人も乗り込んでいる。車内検札は大宮以降であり、こころえた不正乗車人たちは大宮で降りていく。大宮着は23時40分。そこで3分の停車を行う。数席前の背広人が急に、文字通りに飛び起きあわてたように駆け下りる。どうやら大宮で降りる予定の帰宅人であったよう。大宮で降りられなければこの人は途方に暮れてしまうだろう。次の停車駅である高崎に着くのは明日になってしまうのだから。他人ごとながら、安心してしまった。
23時43分に出発する「えちご」の次の停車駅は高崎。到着は0時58分予定。18きっぷ利用者にとっては、この点が困りもの。丸一日使うにも翌日からの使用となると高崎までの乗車料金は払わなければならない。たとえば山手線内−高崎は1890円。なんとなくこの出費がバカバカしい。
改めて「ムーンライトえちご」を想う。私の予想以上にイス周りが広く、リクライニングも快適。ここ最近は、優等列車に乗っていないので「えちご」程度でも快適に感じるから不思議なものである。そんな快適さを「えちご」で感じることが出来る安上がりな私のすべきことは寝ることだけ。幸いにして、バカみたいに熟睡できた。こんなに座席夜行で熟睡できたのもひさしぶり。
日が変わってからの最初の停車駅は長岡。時間は4時01分。長岡駅停車の一番列車でもある。こんな時間でも列車が到着した瞬間、すこしは賑やかになる。さすがに長岡であった。何故だか長岡には縁がある。私が新潟に行くとき、きまって長岡が頭をよぎる。今回も長岡により道する予定になっている。それは長岡が交通の要所であり、東京方面の玄関口であるからだろう。この長岡から先、象徴的な「水田」をみることによって初めて「新潟」を実感する。
芝生のように生き生きと伸び伸びと広がる稲。まさに緑の絨毯。アジア稲作地域に生まれたものとして、この光景に「日本」を感じ「アジア」すらも感じてしまう。日本的なそして大陸的な雰囲気をも抱かせる水田地帯。本物の大陸からすれば大した事のない、それこそ猫の額のようなちっぽけな平野でしかないだろう。しかし、東京の空気を運び、東京から夜通し走り通してきた夜行電車からみるこの光景はどうだろう。まさに夢現の広がりすらも感じさせる。雲一つない空。まだ明け切らぬうちから今日一日の「青空」を感じさせてくれる気配。東の山並み、磐梯朝日連峰から昇る朝日。淡い朱の光に照らされる山並みから、神の息吹を感じる。
時間は4時30分。果たして4時30分という時間はこんなに明るさを感じさせてくれるものだったのだろうか。西には薄ぼんやりとした山影を見せる弥彦山地。越後国で最初に朝日輝く山とされる弥彦山は、神々しいばかりに日の光を照り返す。西に沈み行く「月天」は青白く輝き、東を昇り行く「日天」は赤白く光る。目の前にははるかに広がる「大蒲原平野」。あおい稲が自然の光景として広がる。これだけの水田をつくりだす「潟」の地。
世間的にはこの平野を「越後平野」という。地理の授業的に「越後平野」。それは「越のくに」の後方にあるという地理的な概念による呼称。ただ別名がある。その別名が「蒲原平野」。私的な解釈をすると「蒲(ガマ)の原」。すなわち「水草の多い茂る平野原」。まさに「潟のくに」を言い表した表現。そんな上中下蒲原郡にひろがる「大蒲原平野」。今の私には地理的面積以上に広大にひろがる、この神話的とも思える幻想的光景をうみだす場所を「大蒲原」と呼称したかった。この印象は日頃親しむ「関東平野」よりも大きなものであった。それだけ私の心は興奮していた。
ただ静かなる「大蒲原」を列車はひた走る。神のうみだす最高の日の光を一身に浴びて、まぶしいばかりに勿体ないぐらいに列車は照らされる。この瞬間が好き。闇に包まれていた夜行列車が、いよいよ檜舞台へと導き出される瞬間。夜から朝へと移りゆく時間の流れを走り流れる夜行列車のなかに、私という存在を置くことが好きだ。
ムーンライトえちご(新潟駅にて) |
「新潟交通・旧東関屋駅」(写真編は「新潟交通の面影」を参照)
新潟駅到着が4時55分。「ムーンライトえちご」は新潟でしばし停車したあと、進行方向を逆とし村上へと向かう。私は村上へと向かう編成を見送ったあとで、やけに元気な身体をJR越後線にゆだねる。発車は5時08分。当然、越後線の一番列車。私は二駅先の「関屋駅」で降りる。時間は5時16分だった。
街は寝ている。そんな中で、脇目もふらず駅からの道を歩く。この道は何も変わっていない。この角を曲がる先には何が広がっているのだろう。そんな期待を込めて角を曲がるも、その先すらも同じだった。その光景は5年前、電車に乗りに来たときと全く同じであった。
しずかに風が吹く。河川敷ちかくの道は、興奮気味の私を冷やすかのように早朝の贅沢な息吹を私の頬に当ててくる。それでいて、気力あふれる太陽はさらに私を辛くさせるかのように熱気をぶつけてくる。
いつもの道を歩く。そんな表現がおかしくないぐらいに通い慣れた道、関屋−東関屋間。あのシンプルでさわやかな薄く淡い緑の屋根が見えてくる。勿体ないぐらいに広がる駐車場と、かつては車庫入れかえ用に使った線路がみえる。思わず足早に駆けよる。
うれしかった。面影を感じた瞬間はうれしかった。ただすぐに悲しくなった。どうして何も変わっていないのだろう。私は内心では変化をもとめていた。あの「電車が走っていた」という事実を壊すために、想い出の記憶とするために再訪したのではなかったのか。たしかに「新潟交通電車線」は廃線となって3年以上の時を経ている。そんなことはわかっている。しかし、この目の前の光景はなんであろう。駅がある。そして線路があり架線があり、そして車両までがある。新潟交通の東関屋駅が、駅の形として残っている。ホームも残っている。これはなにかの嫌がらせであろうか。私の想い出を終わせないための。この光景、あの時と同じような光景を記憶として持ち帰ることはできない。この中途半端な情熱を無尽にさせるために、私はひそかに何もない空虚な光景を期待していたのかもしれない。少なくとも、その方がもやもやした気分からは開放される。あきらめもつく。
見た目は変化がない。しかし3年半という歳月がたしかにたっていた。徐々に朽ちていく「存在たち」。新潟交通を語る存在たちは、すべてから見捨てられたかのように、默っている。時々私のような「勇姿を知るものたち」が訪問する、その時まで。
どうして私はこの地に立っているのか。一体何をしにやってきたのか。答が見つけられなかった。後ろ髮をひかれるような、それでいて突き放されているような「存在たち」に会釈をしてその場からたちさる。もう彼ら「新潟交通の勇姿たち」には出会えないかもしれない。そんな想いと共に。
「弥彦」
6時10分。JR関屋駅から再び越後線に乗り込む。蓄積された疲れと共に睡魔に襲われる。それはなんとも心地よい感覚であった。朝の6時に越後線で眠る私はなにやらおかしかった。
越後線内唯一の他線接続駅である吉田駅に到着したのが6時51分。目の前にはひときわに大きな弥彦山が出迎えてくれる。しばらく神の坐す山と対座する。山は幾多ものアンテナを背負っている。痛痛しいばかりな「アンテナ山」であった。ただ遠望した際の存在感は抜群のものがある。「大蒲原平野」に唐突に飛び出た異質さは、まさに「神の坐す山」であった。7時17分に吉田を発したJR弥彦線は、途中「日本一の大鳥居」といわれる高さ30メートルの朱鳥居を右手に望んで7時25分に弥彦駅に到着する。
弥彦の駅は「やしろ」であった。神社建築にこだわり、様式通りに左側には「手水舎」まであった。さすがに「弥彦神社の御分霊」まではないようではあったが。そんな駅からゆっくり歩くこと15分。さすがの温泉街も静かで早朝の散歩程度にしか人がいない。これでも「弥彦神社夏の祭禮」の真っ最中であるというのが意外のような、それでいて自然なような気がする。しばらく独特の温泉街を歩くと、例の如く、神社を感じさせてくれる鬱蒼とした空間が見えてくる。弥彦らしい朱の鳥居とともに。
JR弥彦線(吉田駅にて) |
JR弥彦駅駅本屋 |
「彌彦神社」(弥彦神社・いやひこ神社・越後国一の宮・式内明神大社・国幣中社)
祭神・天香山命(アメノカゴヤマ命・高倉下神と同神=詳細)
祭神に関しては「大彦命」として高志深江国造が祖神を弥彦の神として祀ったという説もある。
しかし「弥彦山」そのものを信仰の対象とし、
特に人格神を想定しない「伊夜比古神」が祀られていたものと考えられる。
天香山命は天照大神の御曽孫であり、天孫降臨に際して供奉し紀州熊野に住し、神武天皇東征の際にフツノミタマ剣を奉じ大功をたてられた神。神武天皇即位4年に勅を奉じて越後国の国土開発のために、日本海を船で渡られ越後野積浜に上陸。弥彦山に宮居して国土開発・産業発展に尽くしたという。
越後開発の神として、弥彦神社の東麓に奉祀したのがはじまりで、その年代はあきらかではないが、万葉集に「いやひこおのれ神さび青雲の棚引く日すらこさめそぼふる」等と詠われていることから1300年以上前とされている。また社記によれば和銅4年(711)に社殿を造営したともあり、越後国第一等の古社として延喜式には明神大社に列し、その後神階も正一位に進んでいる。
明治11年には 明治天皇が御親拝。昭和47年には 昭和天皇陛下、皇太后陛下そろいで御親拝、昭和56年には時の 皇太子同妃殿下(現 天皇陛下)の御参拝を仰がれている。 昭和の天皇陛下の御参拝を記念した「祭り」と題した「我かにはの 宮居にまつる神々に 世のたひらきを 祈る朝々」の碑が御神木の脇にたてられている。
なお、社殿は明治45年に町内で起きた火災で焼失。その際に本殿の位置を現在の場所(旧本殿は御神木の後方、現宝物殿の方向)に移し再建された。御神木である「椎の木」も幹を残して焼失したが、その後にたちまち新芽を出し、元の姿に戻っている。この御神木はイヤヒコ神が椎の杖をこの地に挿し「もしこの地が自分の住むべき土地であるなら繁茂せよ」と仰せられたところ、たちまちに大木となったものと伝えられている。
越後国が生んだ禅僧であり歌人であった良寛は「御神木讚歌」という詩を残している。
伊夜比古(いやひこ)の 神のみ前の
椎の木は 幾世経(へ)ぬらむ
神世より 斯(か)くしあるらし
上つ枝(え)は 照る日を隠し
中つ枝は 雲を遮ぎり
下つ枝は 甍(いらか)にかかり
久方(ひさかた)の 霜はおけども
永久(とこしえ)に 風は吹けども
永久に 神の御世(みよ)より
斯くしこそ ありにけらしも
伊夜比古の 神のみ前に
立てる椎の木
同じく良寛に「よろづ代に 仕へまつらむ 弥彦の 杉の下みち い住きかへらき」という詩もある。なんとなく「弥彦」というイメージがふくらんでくる。良寛という人物に対しては多くを知らないが、この機会に勉強をしてみたいとも思う。ちなみにこれらの詩は「御由緒書き」や「境内説明板」からの引用。私が知っているはずはない。
彌彦神社鳥居 |
彌彦神社随神門 |
彌彦神社随神門 拝殿側から |
彌彦神社拝殿(写真左後方に弥彦山の山裾) |
彌彦神社境内末社「十柱神社」
国の重要文化財
室町期の手法を伝える元禄期の萓葺きの建物 |
石油蒸留釜
明治27年に考案された我が国最初の石油精製装置。
現存2機。こういうのが奉納されるのが越後らしい |
旧本殿址
明治45年の大火に類焼。
その後に本殿は現在地に移転。
旧本殿の礎石をそえてある。 |
御神木 |
夏らしい鬱蒼とした緑の空間。この「神社」をあるくという感覚が好きだ。一歩一歩やしろに近づくにつれ、私の心も落ち着いてくる。朝の8時前。境内では多くの神職が「掃除」をしている。私はよく「掃除」をみかける。神社らしい静かな空間をこの朝のひとときに感じるのがうれしい。いくら朝のはやい神社とはいえ、この朝の掃除にはどことなく慌ただしさをも感じさせる。それでいてそんな慌ただしさも、悠久の時の流れとなる。巫女さんが随神門を掃除している。大正5年の再建とはいえ、太古からそこに鎮座していたかのような随神門の先には「神の坐す弥彦山」が望める。そんな古色的な楼門を、清らかなる深紅と純白の巫女が掃除をしている。不思議と絵になっていた。
今日は、「弥彦神社」の祭禮の日である。それでいて「まつり」の気分は感じられない。境内に奉納された灯のともっていない提灯が、わずかに雰囲気を残しているのみ。私の嫌いな屋台も境内にはみられず、参拝前の懸念〜写真のレイアウト〜も解消される。まつりは夕方以降でないと風情が出ない。ただ私は時間に捕らわれし旅人なので、早朝に弥彦神社に押し掛けすぐさま次に進まなければならない身。地元が培う「ハレの場所」とは関係ない部外の人間である。そういう部外者は地元の「ハレのまつり」に闖入するべきではないだろう。
随神門を抜けると大きな弥彦山を後方に従えた社殿がある。拝殿(入母屋造)は彫刻も少なく、流れるような簡素でそれでいて重厚な造り。拝殿前でいつもの通りに参拝をすます。なんどか写真を撮るためにレイアウトを決め右往左往する。拝殿前を横切るときは頭を下げるのがマナー。ふと気が付くと、朝の掃除の一環として巫女さんが四つんばいになって拝殿内で雑巾がけを行っていた。それに気が付いたのが頭を下げおわった後。考えてみれば「巫女さん」に頭を下げていたのかもしれない。間が悪く苦笑してしまう。
来た道を戻り、御神木と対座する。拝殿は神に拝す場所。でも私は神社にある「御神木」が好きだったりする。どことなく「神の気配」を宿す御神木には悠久の時代を生き抜いてきた「木の霊力」があるような気がする。とくにこの弥彦神社の御神木は先に記したとおりに火災後に「復活」を遂げた御神木である。そのみなぎる生命力は尋常なものではないだろう。
弥彦山に登りたかった。しかしそんな時間がないことはここに来る前から分っていた。その原因はJR弥彦線。このローカル線は次の9時49分のあとは12時12分まで運行がない。私は時刻表的に9時49分に乗らないと先に進めなくなってしまう。そしてロープウェイは9時にならないと運行しない。弥彦駅から弥彦神社までは徒歩10分。神社からロープウェイ乗り場までも徒歩10分。ロープウェイは所要5分。さらには山頂駅から弥彦神社奥宮までも徒歩10分。最低でも1時間は余裕がなければ山頂を往復できなかった。やむおえないけど、諦めざるを得ない。里にある本社におもむいて、山にある奥社を目の前に引き返すのは片手落ちのようで甚だ面白くないが、私には「神社」意外にも今回の旅には目的が多すぎた。ゆえに弥彦駅にもどる以外に選択肢はない。
「JR弥彦線−磐越西線」
弥彦駅を9時49分に発車する。充分に「朝」といえる時間帯。普通の観光客ならこの時間ぐらいから「観光」が始まるだろう。しかし私はすでに二つの目的を片づけてこの地をあとにする。大きな大きな弥彦の山を背に受けてJR弥彦線は南下する。
東三条駅着が10時22分。そしてここから新津方面の電車が11時12分。接続が最悪でかれこれ50分は待たされるが、接続に文句は言えない。そういう時刻がくまれている以上、現状でなんとかせざるを得ない。せっかく50分も時間がある。腹ごしらえでもしようかと思ったが(朝から何も食べていない)、そういうときに限って飲食店がない。東三条駅は三条市内の駅。別にローカル無人駅な訳でもない。それなのに何もない駅。もはや脱力ぎみで、ホームのベンチで暑さと戦いながら今後のプランを立てる。改めて時刻表をひいても格別な新案が出てくるわけでもないが。
東三条駅を11時12分に出発して新津駅11時39分着。すぐさま向かいのホームに待機する磐越西線に乗り込んで新津駅発11時40分。なぜだかこの接続だけは上手くいっている。新津を久しぶりに見たが構内改築中らしい。なにか違和感を感じてしまった。(その違和感は後ほどあきらかになった)
次の目的地である五泉駅が近づく。私はただ進行方向右側を見つめつつける。到着は11時56分。駅に着いたとたんに「蒲原鉄道」のあった方向をみる。こちらはある程度の予想がついていた。私の予想は最悪の事態、すなわち何もないというものを想定していたが、まだ面影は感じることが出来る。とにかくあの場所に行きたかった。
さきほど東三条駅では暇で仕方がなかった。駅改札あたりを物色していると「JR東日本新潟管内」では駅レンタサイクルを行っているらしいとわかる。私の予定駅五泉でもレンタサイクルがあるらしい。そこで改札で「レンタサイクルができるか?」と訊ねると、500円でできますよ、とのこと。これで私は「サイクリング」をすることが決定した。
「蒲原鉄道・五泉−村松」(写真編は「蒲原鉄道の面影」を参照)
レンタサイクルで廃線跡をたどる。これは「廃線跡探訪」としてはもっとも上等な部類に属するだろう。さっそく五泉駅から自転車をこぎ出す。そこはなれたもので地図はなくとも走り出す方向はわかっている。駅の反対側の「蒲原鉄道五泉駅ホーム跡」におもむく。
夏のまぶしいばかりの日差しを浴びてすくすくと育つ芝生のような草たち。雲一つない、まさに青空の見本のような空を天に仰ぎ、緑のじゅうたんの中を踏み分ける。遠目からは芝生のような美しい光景も、足を踏み入れてみたらどうだろう。そこはかつて「荒荒しい鉄道」が走っていた痕跡を宿す。忘れられたように焦茶色のゴツゴツとした石が「ここは線路があった場所だよ」と私に語りかけるかのように連なる。その空間だけは雑居としている草もまばらで、ただ荒涼たる雰囲気を抱かせる。折角借りた自転車ではあるが駆け抜けるを止めて、手押しで歩く。ただ蒲原鉄道の面影にそって、ときどき過去を振り返りながら歩く。あのカーブ。あの直線。昔、撮影したポイント。今にも電車は走ってきてもおかしくないようなそんな光景。私の耳には「あの音」だけがこだまし、残像となって「あの電車」が瞬間を駆け抜ける。
旧蒲原鉄道今泉駅。もはや駅を物語るものはなにもない。新しく舗装された「バス停」はかつての寂しげなホームとは違い、みるからに明るく照り輝いていた。もちろん、新しく作ったバス停であり、バス待合室であるから、だといえる。
ただ私がこの時イメージしていた「今泉」は白い残像。蒲原らしい神々しいまでに空気が切り詰めていた雪の薄暗い冬の瞬間。目の前に広がるのはバカバカしいまでにまぶしく暑い光景。蒲原鉄道の過去と未来。そんな光景をこの「夏景色」に重ねて、せめともの記憶として私は心の中で明るく演出する。そうでもしないと泣きたいぐらいに、この皮肉に耐えられなかった。
今泉駅跡だけは新しかった。ただこの前後は「未舗装」。蒲原鉄道が存在していた空間のままに、その場所は自然へと回帰をはじめていた。ゆっくりと自転車をこぎながら、時折自転車から降りながら、蒲原鉄道を進む。五泉−今泉間はわずか1キロ。そして今泉−村松間は3.4キロの直線が続く。私をあざ笑うかのような太陽を真上に、自然を営む人工的な水田を延々と左手に、そして自転車の走行を邪魔するかのように猛烈に自動車が右手を走る。いつでも蒲原鉄道は同じだった。
廃線跡はときどき鉄道の存在をわすれさせるかのように部分舗装され、ときどき鉄道の存在を思い起こさせるかのように「廃たる道」がよみがえる。忘れられ、砂利道となったバラストの直線。その隅に自然に土と化すのを希望するかのように枕木の残骸が埋もれ、赤錆たネジが一層の酸化を望むかのように、焦茶けた砂利と同化していた。そんな赤錆たネジを手に取ってみる。予想通りに夏の日差しを浴び続けたネジはやけどするかのように熱せられていた。そんなことは最初からわかっている。ただ理性よりも先に手が伸びていた。少しでも面影を感じたいという思いからかもしれない。
しばらく自転車で駆ける。そろそろ村松が近づいてきたな、と思えるところに不思議な空間がある。そこは蒲原鉄道の車両2両が保存された空間。その蒲原鉄道が休まる地の入口には看板が立てられている。そこには「村松町の個人が私費を投じて保存している」旨が書かれている。もうありがたいばかりで、言葉もでない。こういう面影を感じることが出来るのがうれしかった。
無秩序な原野の中に屋根を抱いた車両が置かれている。この屋根は五泉駅か村松駅の屋根かもしれない。もう動きはしない車両たちだけど、そこにいるだけで不思議と心が安まる。私はしばらく、この荒涼たる原野で対座するだけであった。
この先は徐々に時間が流れているようであった。村松駅からゆっくりとしたスピードで歩道設置のために舗装工事がなされている。これが五泉まで完成すれば町民にとっては念願の歩道かもしれない。それだけ、この道は狭かった。ただ、その時は「蒲原鉄道の面影」が消滅する時でもある。
昔、村松に近づくと大きな車庫をかすめて、小さいながらも立派な構内をもつ村松駅に入線する瞬間が好きだった。そんな車庫や構内は、もうあとかたもないけど「村松駅」だけはのこっている。重厚な駅と、駅構内があったことを思わせる空間が残っている。
なつかしい気持ちを抱きつつ重くそびえ立つ駅であった建物の中に入る。ただ何もなかった。これはある程度は予想していたが。中には面積の半分を專有する蒲原鉄道グル−プの「旅行会社」と手前の待合室。そして旅行会社がかつて入っていた細い空間に蒲原鉄道バス関係の事務所のような空間がある。そこにはもはや面影はないが、ただそこに「駅」があったという証拠にこの建物の入口には「村松駅」と書かれており、その上には「蒲原鉄道」のシンボルマークが掲げられている。ただ呆然とそれを見つめるだけで充分満足であった。
駅構内跡。今はコンビニ等が入っている空間の後ろのほうにわずかに「蒲原鉄道」の面影を感じる。そこには「ED1」と「モハ31」がいた。複雜な気分になる。これまで私がみたことのある保存車両は、すべて私とは関係ない車両であった。ところがこの新潟でであった車両たちはどうだろう。新潟交通にせよ蒲原鉄道にせよ、すべて私が乗ったことのある鉄道であり、走っていたのを見たことがある鉄道たちである。いままでの「博物館でモノをみる」ような心境ではない。生きていた頃、それは晩年であってもたしかに生きていた頃をしっていた鉄道たちが、今はこうして甦ることもなく何も語ることなく、構内の隅においやられ、時々訪問する往時の勇姿の面影を知る者たちを迎えている。なつかしい「ED1」と「モハ31」に手を添えてしばし佇む。
次に「蒲原鉄道」に会いに来るのはいつだろう。もうないかもしれない、と思いつつ。
「新津」
五泉駅。未練を引きずりながらも、私は家路に着かなくてはならない。13時36分ではあれど接続が悪く、難所を越える「JR上越線」の最終便に乗るにはこの時間から引き返しにかからねばならない。かつて蒲原鉄道のちいさな寂しげなホームには、今は明るく痛いばかりに太陽の日差しをあびている芝生のような空間がひろがっている。どうしてこんなにさわやかなのだろう。そんなことを感じながら私は新津駅に向かう。
新津駅。13時50分。ここで14時25分の電車を待つ。かつて鉄道のターミナルであった駅。新幹線に回避されたために、しばらくさびれた静かな「鉄道の街」も磐越西線を走る「SLばんえつ物語号」によって昔日の活気を取り戻している。しかし、この駅に降り立ったときに何か異変を感じた。どうもいつもと違う。最初、何が違うのかまったくわからなかった。しかし駅を降りた瞬間にそれは失望へとかわる。あの歴史的風格を漂わし鉄道の街「新津」を象徴していた駅舎があとかたもなくなっていた。まさか「新津駅」までなくなっているとは思わなかった。蒲原がなくなるのは承知していたから、心理的影響は少ない。しかし自分の予期していたものがあとかたもなく消滅している光景が目の前に広がっていては、もはや言葉を失い立ち尽くすしかなかった。
あわてて駅員に嫌味を含めて尋ねる。「すいません。あの歴史的風格にあふれる駅舎はいつ壊されたんですかねえ」と。話を聞くと、去年(平成13年)の冬には壊していた、という。鉄道系の情報は率先して集めているわけでなく感覚で行動している私は何もしらなかった。知らなかったゆえに衝撃も大きかったが、私にとって実は新津はかなり馴染みのある駅。
本来なら新津から羽越本線二駅先の「水原駅」に行きたいところ。そこには母方の祖父母がいる。つまり新津市・水原町は私にとっても「第二の故郷」。ここまで来たなら挨拶に行くのも礼儀だが、挨拶だけではすまされなくなる。ゆえにやむなく黙って素通りする。郷里に帰るときはきちんとした形で、つまり片手間のような形で帰りたくなかったから。
ありし日の新津駅(平成11年2月撮影)
今は、もうこの姿を見ることはない・・・ |
「長岡・山本五十六」(参照「山本五十六記念公園関係の写真」旧版はこちら)
新津駅を14時25分に発車した電車は、長岡駅に15時19分に到着する。次の電車は16時46分。これがJR上越線水上行きの最終電車。これに乗らないと私は鈍行では帰れなくなる。
なんにも用事もないけれど、長岡に1時間あまりの滞在時間が出来てしまう。こう暑いと街などは歩きたくないが、私にとって「長岡」は馴染みある街。この街は何度も歩いているので感覚で道がわかる。しばしの間散歩に行こうと思う。
もっとも行く場所は決めてある。初めて長岡にきた時〜平成9年〜に「北越戊辰戦争長岡藩軍事総督 河合継之助秋義」と「大日本帝國海軍連合艦隊司令長官 元帥山本五十六海軍大将」にまつわる史跡を回った。その際に「山本五十六記念館」の建設を知り、そして平成14年の今年になってようやく訪問する機会を得た。場所は「山本五十六記念公園」にほど近い場所。
「山本五十六記念館」にいく。場所はすぐにわかる。中は誰もいない。思っていたよりもちいさな「記念館」。ホールは一部屋。中央には「一式陸攻左翼」が大きく展示され、それを取り囲むように「山本五十六」にまつわる遺品が展示されている。正直なところ、この一式陸攻がみれただけで満足であった。山本五十六長官が最後に乗機され、撃墜された一式陸上攻撃機。山本五十六に関しては多くの書籍もあるし、その戦死の状況を記したものも多い。ここではその詳述はしないが、山本五十六の戦死直後の搜索隊の模様を描いた『山本五十六の最期』(蜷川親正著、光人社)及びに、阿川弘之氏の「山本元帥! 阿川大尉が参りました」(中公文庫)を明記しておきたい。特に阿川弘之氏は戦後の日本人として一番最初に「山本長官機」の元に訪づれた人であり、その顛末が同書に詳述されている。ぜひ阿川氏の「新版 山本五十六」(新潮社)ともども興味のある方は一読をお奬めする。
本来は日本の所有物ではあるが、今はパプアニューギニア所有のものとなっている「山本長官機」。その左翼が平成元年(1989)に「山本元帥景仰会」に関与(将来の「山本五十六記念館」設立を条件として)され、平成11年4月18日の元帥戦死の日に同館がオープンし現在に至っている。
目の前には「一式陸攻」の左翼がある。予想以上に大きく、そして形をとどめていた。墜落の衝突を物語るかのように激しくジュラルミンがめくりあがっている個所もある。いたるところに銃痕のあともある。ただ左翼中央の「日の丸」は綺麗で美しかった。しばし対座する。これだけで私が長岡に来た目的は達せられたかのようであった。遙か南方の地ラバウルよりも、さらなる南島の地。ブーゲンビル島のジャングルに眠っていた長官機の一部がここにある。それを私が見聞できるだけでもありがたかった。入館料の500円という金額はこの「一式陸攻左翼」の為だけでも充分に元が取れた。
もちろん「一式陸攻左翼」だけが展示物ではない。山本の郷里ならではの遺品の数々が展示されている。特に幼年期や高野五十六時代、長岡らしい「私」の部分の展示や、友人知人に宛てられた「書簡系」が多い。なかにはおもしろいもので「山本五十六愛用のトランプ」というのもあった。山本五十六のギャンブラーは有名であり、そう言う意味でも興味深い展示品が多かった。
*なお館内は撮影禁止とのことなので、写真は撮っていません。
*興味のある人は長岡に行かれることをお奬めします。
*ただネット上には「一式陸攻左翼」の写真が掲載されているの確認しました。
*アドレスは書きませんが・・・。
私の長岡滞在時間は短すぎた。ひさしぶりでいろいろなことを思い出した。最初に長岡史跡めぐりをしたときに悠久山にある「蒼柴神社」に参拝したことを思い出す。ところがたったの5年前であれど、当時の私は歴史にしか関心がなく「神社」にたいしては何も記憶がない。そう思うとなんとなく悔しい。実のところ、昔から私は神社に接していた。しかし興味はなかった。参拝した写真でもあればすこしは実もあるが、何もない。そんな地が多いので、再訪という手間と楽しみが増えたりもする。
山本五十六記念館入口 |
山本五十六記念公園 復元生家 |
生家内 位牌など |
室内はこんな感じ。あとは「こちら」を参照 |
「山本五十六記念公園」。本来なら「山本家」の墓にも行くべきかもしれない。ただ墓のある寺は方向が違い、今の時間のない私の身では訪づれるのも大変であり、再訪はまたの機会として「公園」に寄り道することにする。
この公園は山本の生家跡であり、現在は生家を復元された小さな家が建っている。本来この地には「山本神社」が建立される予定だったともいう。山本戦死後に新潟県や長岡市の有志が集まり、乃木・東郷神社のように長岡に「山本神杜」の建立を希望し中央各方面に折衝し、当時の世相から当然出来るものとされていた。しかし、山本神格化に反対する海軍の盟友たち、すなわち井上成美や葬儀委員長を務めた米内光政、海軍兵学校級友の堀悌吉らが神社建立に反対。なかでも山本の上司であった米内光政は断固として反対。結局、神社予定地には「記念公園」が造られた、というわけである。
せっかく来たのだから生家跡も訪問する。5年前、4年前そして3年前にも訪づれている。何れも「蒲原鉄道・新潟交通」がらみで新潟を訪問した折であった。とにかく中にはいる。汗がにじみ出るようにあつい。例の如く位牌が置かれた段がある。なにも変わっていなかった。こうして変わらずにあるのがなによりもうれしいのかもしれない。昔の私を思い出しつつ、今の私を思いつつ、そして「山本五十六」という海軍提督の個性を思いつつ静かに手を合わせる。
ただそれだけの長岡。長岡の個性「山本五十六」を感じる、ただそれだけの駆け足な長岡再訪。
「JR上越線」
長岡駅発16時46分。水上行の最終電車は満員の乗客を乗せて南下をはじめる。水上到着予定は18時36分。これから2時間もあるのにこの混みようでは先が想いやられる。私はかすかな期待で「どうせ近場で降りるに違いない」と思っていたが、席に座れたのは17時40分の六日町駅。ちょうど立ち座り半分半分であった。
はるかなる「大蒲原平野」はすでに過ぎ去っている。地理学的には長岡は蒲原郡でもない(蒲原郡と呼べるのは見附市以北)。そしてなぜか「蒲原(越後)平野」という印象もない。長岡の南は「魚沼丘陵」。ちょうど長岡は「蒲原平野」と「魚沼丘陵」、それぞれの要であり、だからこそ交通の要所であり地政学上の要地である。
長岡以南、JR上越線。すでに「新潟」のイメージはない。あたりは山々に囲まれ、そして小雨も降り出してきた。不思議なタイミングであった。単純な気象学的「山の天気」かもしれないが、私の新潟は「青空」しかなかった。新潟を去ろうというときに「小雨」が降る。こういうのを「不思議」といってもさしさわりはないだろう。
あとは覚えていない。左手から神々しいまでの山並みをもつ八海山に圧倒され、武尊山・千ノ倉山の間をぬう清水トンネルを抜ける。
清水トンネルは往路に通った。あいにくにして「ムーンライトながら」で眠りの世界のため、ループ線であったという感触はないし噂の土合駅も知らない。そして復路は「新清水トンネル」。こちらは新線のために興味はわかず、やはりここちよい眠りの世界。いつも「JR上越線」の醍醐味をしらずにトンネルを抜けていた。
水上まで来てしまうと、惰性になる。首都圏交通網の西北隅にあたるためにダイヤ接続もよろしく、水上−高崎、高崎−大宮、となにも考えなくとも電車が走っている。あとは車中での睡眠を楽しみながら帰路に就くだけ。
なにやらおかしかった。今日の一日を回顧する。充実していたのか、無駄が多いのか、それすらもわからない。ただ丸一日を「活動状態」としていた疲れだけは確実に私の身体に蓄積されていた。
だたそれだけのこと。もはや「大蒲原平野」のイメージも縮小し、ただの「越後平野」でしかなかった。
参考文献。
弥彦神社御由緒書き、他境内看板
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