神社紀行〜全国編
神社紀行〜武蔵国編
武蔵国延喜式内社
神社御朱印
記紀神話の神様
神社つれづれ
靖國神社を想ふ
かみちゅ!舞台探訪参詣記
武蔵調布の神社歳時記
下総銚子の神社歳時記
 
掲載社一覧
神社所在地図一覧
掲示板
りんく集
 
Google

WWW を検索
サイト内検索

−表紙に戻る−


「武蔵の古社を想う/品川大田編」
<平成14年2月参拝・3月記>

目次
稗田神社」(大田区蒲田鎮座・延喜式内社・旧郷社)
品川神社」(元准勅祭神社・品川鎮守・旧郷社・北の天王)
荏原神社」(品川鎮守・南の天王・旧郷社)
居木神社」(旧村社・大崎鎮守)

 今回は2月から3月にかけて、暇に任せて訪問した神社の幾つかを掲載することにする。ゆえに連続しておらず、神社単体を扱う。


「稗田神社」     
(ひえだ神社・本来はひえという漢字で「ひえ」・大田区蒲田鎮座・延喜式内社・旧郷社)

主祭神:誉田別命(=応神天皇)
配祀神:天照大神、春日大神
参考(武蔵国の延喜式内社解説

 案内板によると度々の火災や水害で古い記録は残っていないが、貞観六年(864)に官社に列し、従五位を賜ったとされ、延喜式内社「稗田神社」は当社であろうとされている。社伝によると和銅二年(709)に僧行基が天照大神・八幡・春日の三神体を祀ったことに始まり、のちに僧日蓮が村民の請いをいれて開眼したともいわれているが定かではない。明治以前は応神天皇を祀る八幡社で、隣接する栄林寺が別当寺であったが、明治期の神仏分離により独立し、近隣の小祠をいくつか境内に合祀したという。明治五年に郷社に定められ、神楽殿の新設等を行うが、昭和二十年四月十五日に社領が灰燼に帰してしまったという。

稗田神社 稗田神社
稗田神社 左上:稗田神社社号標

上:拝殿

左:拝殿+本殿

延喜式内社(武蔵国荏原郡)とされる
稗田神社

 JR蒲田駅から北東の方向に15分程度歩いたところに鎮座している。住宅街の密集したところで、異様に見つけにくい場所に鎮座。私が訪問したときは、近隣で道路工事を行っており、輪にかけて見つけにくかった。訪問してみると、みるも新しめな神社建築。いろいろみてきたけれども、ここまでピカピカな「やしろ」にであったのは久しぶりであった。誰も居らず、工事の警備員が不思議そうに私たちの方を眺めている。たまたま友人を連れ人としていた。本来ならそんなつもりも無かったのだが、蒲田に用事がありその場の不思議な空気によって、私が連れてきてしまった。



「品川神社」     
(元准勅祭神社・新東京八名勝の一つ・旧郷社・北の天王)

御祭神:
天比理乃当ス(あめのひりのめのみこと=太玉命の后・祈願の神)
素戔嗚尊(すさのおのみこと・風水害疫病徐の神)
宇賀之売命(うがのめのみこと=豊受大神か宇迦之御魂神か・農産業の神)
大国主命(・福徳円満、清廉の神)恵比須神

 創建は文治三年(1187年)に源頼朝が海上安全の守護神として安房国の洲崎明神(延喜式内大社・旧県社)である天比理乃当スを勧進して祀った神社。古くは品川の鎮守として「品川明神」を称していたという。寛永十四年に東海寺の鎮守に定められ「稲荷社」とされ、明治元年に旧来の「品川神社」と改称したという。明治元年十一月に准勅祭社(東京府下の10社のうちの1社)とし、明治五年に郷社に定められた。
 昭和七年に東京市の合併を記念して選定された「新東京八名勝」では第三位(第一位は池上本門寺、二位は西新井大師、四位は日暮里諏訪神社、五位は赤塚松月院、六位は目黒祐天寺、七位は足洗池、八位は亀戸天神)の投票を集めたという。現社殿は昭和三十九年に再建された。
 品川の近隣では「東海七福神」(昭和七年新詣)として七社寺が「七福神」として崇拝を集めている。あいにく私はその手の「神仏習合」は嫌いなのだが、品川神社は大黒天、下に記する荏原神社は恵比須とされている。ゆえに品川神社は七福神の中心となり、団体参拝の集会所であり、そしてやけに参拝者が多い。

品川神社
社号標は清浦奎吾謹書
品川神社
昇り龍の鳥居
品川神社
品川神社拝殿
品川神社
京浜急行と第一京浜道路

 鎮座地は京浜急行の新馬場駅すぐそば。第一京浜に面して石段が延びている。私は「JR大崎駅」から歩いたがこの行き方は大崎に用事があっただけで、お勧めはしたくない。すくなくとも道路は交通量が多く、嫌気がさしてしまう。
社号標を覗くと、正二位勲一等伯爵清浦奎吾謹書とある。あまり知られていないけど(苦笑)元総理大臣。いずれにせよ、珍しい名前であった。正面の石鳥居は「昇り竜」が施されており、これもまた珍しい。急な階段をのぼると右手に富士講で使われる富士塚がある。なかなか気合いの入った富士塚であり、あとで昇ってみようと思う。石段を登りきり、拝殿の前に小振りな石の鳥居がある。この鳥居は慶安元年(1648)に佐倉城主堀田正盛が寄進したもので都内で二番目に古い石鳥居(一番目はどこ?)とされている。拝殿は昭和三十九年の再建とされているが、見た目に綺麗に整っており、やはり昭和期ではそんなふるさは感じさせてくれない。
 さいわいにして社務所が開いていた(集会場になっている?)ので、そこで御由緒(略歴)書を頂く。拝殿から振り返って石段の上に立つと、第一京浜と京浜急行がよく見える。道路は見てもつまらないが、京浜急行の線路をぼっーと眺めるだけでも意外と楽しかった。



「荏原神社」     
(南の天王・旧郷社)

御祭神:
高オカミ神(たかおかみのかみ・漢字出ず・闇淤加美神)
豊受大神(とようけのおおかみ)
天照大神(あまてらすのおおかみ)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
天手力男命(あめのたじからのをのみこと)
 
創建は和銅二年(709年)といわれている。古くは貴布禰(きぶね)大明神・天王社(「北の天王」とされる品川神社に対して、当社は「南の天王」とされる)と称し、品川宿の総鎮守とされる。明治天皇東京遷都の際に、当社を内侍所御行宮とされ四度の行幸をなされている。それを記念して、境内に「明治天皇と荏原神社・内侍所御奉安所史跡」という碑がある。現在の社殿は天保十四年(1843)の再建という。また現在は本殿に「恵比須」を祀り、東海七福神の一社となっている。

荏原神社
荏原神社
荏原神社
拝殿

 品川神社からすぐにいけそうなところだったので行ってみた。品川神社から徒歩10分ほど。京浜急行の高架を抜け、目黒川に沿ったところに鎮座していた。思ったよりも大きめのやしろ(それでも普通の大きさだが)で人もたくさんいた。もっとも人というのは散歩途中に境内の梅を眺めている人であり、参拝はしていないようだが。やはり社殿も江戸期再建クラスでないと風格が出てこないようで、この荏原神社はなかなか良い雰囲気を醸し出してくれた。すくなくとも、私の予想と期待以上の風格を持っていた。社務所を伺って例の如く「御由緒書きはあるか」と尋ねるも「ただいま、在庫切れ」とのこと。ないものはないし、しょうがないので立ち去りたいところ。しかしこの神社は、祭神がなにもわからずどこにも由来が書いて無くて大いに困ってしまった。案内看板のひとつもない。私としては、やはり神様の名前を確認しておかないとどうしても不安になってしまう。もっとも古神道においては、神の名前などついて居らず森羅万象総じての世界ではあったが・・・。結局、帰宅してから祭神を調べる羽目になってしまった。社務所で聞けば良かったが、祭神を聞くのは馬鹿馬鹿しいし、あげく「七福神の恵比須様です」などといわれても(現に人と見たら七福神巡りの人と見ろ、という雰囲気だった)困る。参拝するという行為が大切なのであって、祭神は二の次、と言うことを言い聞かせて次に向かうことにする。



「居木神社」     
(旧村社・大崎鎮守)
主祭神:日本武尊(やまとたけるのみこと)
配祀神:高オカミ神・大国主命・天児家根命(あめのこやね命)・倉稲魂命(くらいなたまのみこと)

 創建年代は定かではない。古くは居木橋ちかくに鎮座していたが、江戸期に目黒川の水難を避け、現在地に動座したという。現在の社殿は昭和53年に再建されたものという。また現在の社地は居木橋貝塚(縄文前期)の上に鎮座しており、拝殿前の石段の横手には貝塚がある。

居木神社
居木神社
居木神社
居木神社

JR大崎駅西口から、とある大学に通学する道のちょうど真ん中にこの神社が鎮座している。ところが学生は総じてこの神社を無視している。(もっとも大学生なんて言うものは神社に関心を抱かない)私は律儀に一礼をして社頭を通過していたが。
そんな学生云々をのどけば静かな住宅地に鎮座している典型的な「地域の鎮守様」。地域に愛されている境内にはなぜだか某アニメのキャラがマスコット的石像として陳列していて、そんな光景もほほえましかった。


−表紙に戻る−