「郷土の鎮守様〜東浦和編〜」<平成17年12月>
「附島ノ女体神社」「大間木ノ氷川神社」「大牧ノ氷川女体神社」「大牧ノ浅間神社」「大牧ノ八幡神社」
郷土の鎮守様シリーズ。今回は東浦和編。東浦和から見沼通船堀公園。そのまま見沼用水沿いに北上して大牧の地まで。大牧から約1.5キロ北に三室(浦和宮本)ノ女体神社が鎮座しているが、今回はそこまであるく元気と時間がなかったのだ。川口と草加を経由してきたから。
「附島ノ氷川女体神社」
(埼玉県さいたま市緑区東浦和大間木鎮座・東浦和・女体神社・女体明神社)
御祭神:奇稲田姫命
創建年代は不詳であるが浦和三室ノ氷川女体神社の社領が附島にあったことに関連すると推測。三室ノ氷川女体神社の社領であった見沼溜井二十石の地が造成によって水没した際に代替え地として附島村内に与えられたのが寛文六年(1629)以降ゆえに、そのころ以後の創建とされる。
当社は吉田家の氏神でもある。江戸期の附島の地は吉田一族の地でもあり、村内のほとんどが吉田姓であったという。
附島の地は見沼の南端に位置し、見沼通船堀が築かれ、その八丁堀の起点に当社が鎮座している。見沼通船堀は享保十六年(1731)に開通した日本最古の閘門式運河でもあり、国指定史跡。
明治期には附島が大間木村に合併され、当社氏子も大間木ノ氷川神社に吸収された形となるが、当社は旧来通りの祭祀が行われてきた。昭和四十七年に改めて大間木ノ氷川神社の氏子を抜けて独立している。
附島ノ氷川女体神社。高台に鎮座 |
こじんまりとしています |
社殿 |
境内裏手の見沼通船堀公園 |
武蔵野線・東浦和駅から道なりに南に400メートルほどあるくと「見沼通船堀公園」があり、その小高い台地上に鎮座している。境内地の後方は竹林、そして通船堀がある。浦和宮本の三室ノ氷川女体と同様に水縁の地に鎮座している。この辺りの沿岸地域が古来の東京湾の水際、でもある。
閑静な鎮座地。公園ともなっており、その緑と水がやさしげだった。竹林の音に和ませられつつ、通船堀をながめつつ、私はここから北上をする。
「大間木ノ氷川神社」
(埼玉県さいたま市緑区大間木鎮座・東浦和)
御祭神:素戔嗚尊
当社は江戸期には大間木・大間木新田・大牧・附島の総鎮守。現在は大間木の宮前・西谷・会梅・内谷・水深地区の鎮守。当社は源義経家来である亀井六郎重清にちなむとされる。亀井六郎の屋敷跡とされる地が別当三光院の本寺である玉林院の地であったとされる。三光院の先祖が当地に土着して当社の祭祀を司ったとされ、当社の創建は室町頃とされる。
寛文七年(1667)に武蔵国一宮の大宮氷川神社が再建された際に、その旧本殿を買い受けたものが当社の本殿。
本殿は一間社流造り。平成五年に拝殿が火災した際に本殿も被災。平成7〜8年に修復工事を施し、寛文期の姿に復した。
当社の脇を「赤山街道」通る。赤山街道は関東郡代伊那氏が寛永六年(1629)に陣屋を構えた川口の赤山に向かう街道。伊奈氏第三代忠治は関東郡代・勘定奉行兼任として赤山領七千石を領し、赤山に居住。
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大間木ノ氷川神社 |
大間木ノ氷川神社は大宮氷川神社の旧本殿を移築したもの |
本殿 |
武蔵野線・東浦和駅から200メートルほど北上した地に鎮座。当社は。大宮氷川の本殿を譲り受けた神社でもあり、その存在価値は高い。もっとも私はそのことを忘れて参拝していたので、境内の案内を読んでから、あわてて本殿を見直すという状態ではあったが、いずれにせよ当社の本殿は旧・大宮氷川神社本殿、である。
近隣では規模の大きめな神社であり、境内地は街道脇に接して、細長い。
本殿は、質素で流麗な一間社流れ造り。眺め拝していれば、そこに存在感を感じさせてくれるよい気配であった。
「大牧ノ氷川女体神社」
(埼玉県さいたま市緑区大牧鎮座・東浦和)
大牧ノ氷川女体神社は、見沼を見おろす台地上に鎮座しており、三室ノ氷川女体神社祭神の御子姫神をまつるともされている。
当社の本殿は一間社見世棚造。寛永十三年(1636)に造営されたものとされる。小規模な社殿ではあるが現在は覆殿の中におさめられている。
東浦和駅から北上すること約一キロ。見沼用水がわい曲するその内周の台地上に鎮座。ちいさな社殿ではあるが、公園が並んでおり、親子連れで賑わっていた。近くには小学校もあり、子どもたちも親しみやすそうなやさしげな空間。
境内には猫が昼寝などをしているのんびりさに溢れていた。
「大牧ノ浅間神社」
(埼玉県さいたま市緑区大牧鎮座・東浦和・旧無格社)
御祭神:木花之佐久夜毘売命
当社の鎮座する大牧の地は、武田信玄の娘であり、二代将軍徳川秀忠の子であった幸松丸(保科正之)を養育した見性院が慶長年間(1596−1615)ごろに徳川家康から領地として賜った地。地内の清泰寺にその墓所がある。当社の鎮座する地は梅所とよばれ、見性院はかつて穴山梅雪の後室となっていたことに因むともされる。大牧の地に甲斐武田氏ゆかりの浅間社がまつられたのは見性院にまつわるのだろう。
見性院は元和八年(1622)に没し、当社はその二年後の寛永元年(1624)に創立している。見性院の墓所をまもるために、当時は清泰寺地であった高台の当地に勧請されたものとされる。
当社は富士山の方向に東面。
氏子地域は和田地区のみ。大牧としての鎮守は八幡神社があるため。
大牧ノ浅間神社 |
大牧ノ浅間神社 |
JR東浦和から北上すれば約一キロ。上記の大牧ノ氷川女体神社からは約200メートル西に鎮座してる。やはり見沼用水沿いの台地上に鎮座。鎮座地前の道路は国道463号線。交通量は多く賑賑しい気配。付近は集落の中心部らしく商店も多い。
台地上の平らな空間に、私の予想を大きく覆してくれる小さな社殿。鳥居の方が大きいぐらいだ。参拝した時は、期待はずれで意気消沈していたが、由緒を調べれば、武田見性院が関わってくる。歴史的には興味深いものがそこにはあった。
「大牧ノ八幡神社」
(埼玉県さいたま市緑区大牧鎮座・東浦和・旧村社)
御祭神:応神天皇
江戸期より大牧地区の鎮守として祀られる。代々の村名主であった岡村氣の鬼門にあたる場所に鎮座。岡村氏は甲斐武田氏の家臣と伝えられ、武田信玄の娘で、穴山梅雪の後室であった見性院が、当村内に300石の領地を賜ったことに由来する。
当地の八幡神社は甲斐武田の穴山梅雪が駿河江尻城主であった際に城内鎮守としていた八幡宮(静岡市清水)を、恐らくは穴山梅雪亡き後も見性院に従っていた岡村氏によって勧請されたものであろうと推測。
明治六年に村社列格。氏子地区は大牧。
大牧ノ八幡神社 |
大牧ノ八幡神社 |
先ほどの国道463号沿いの浅間神社から北上すること約200メートル。
完全に住宅地に埋没しており、探すのに少々迷った。住宅地のなかのちょっとした高台に、唐突に神社空間があったようか感じ。道は狭く、家が密集している。こんな生活空間に一眼レフカメラなんぞをぶらさげてあるくものではない。
ちょうど豆腐屋さんがやってきたらしく、独特のラッパ?をふきつつゆっくりと走っていた。神社前の狭い道上では井戸端会議的に近所の人々が話をしている。そんな生活感溢れる地域。私のような関係ない人間があまり足を踏み込むものではないようだ。
あとはさきほどの国道からバスに乗れば東浦和にはすぐに戻れる。夕方なので、ここから北上して三室ノ氷川女体神社にいこうかなという気持ちは諦める。
見沼用水にそってあるけば、きっと楽しいだろうとは思ったのだが。
参考
各神社由緒案内等
「埼玉の神社」埼玉県神社庁神社調査団編/埼玉県神社庁
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