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「比企をめぐる」

参考(武蔵国の延喜式内社解説

前篇・吉見
森林公園駅」/「松山城趾」(県指定史跡)/「吉見百穴」(国史跡)
伊波比神社」(式内社)/「横見神社」(式内社)
八丁湖公園・黒岩横穴群」(県史跡)
高負彦根神社・ポンポン山」(式内社)

後篇・滑川嵐山
「国立武蔵丘陵森林公園など」/「伊古速玉比売神社」(式内社・郷社)
「嵐山」/「鎌形八幡神社」(木曽義仲産湯の清水・郷社)
「菅谷館跡」(畠山重忠館跡・国史跡)/「菅谷神社」(村社)




「森林公園駅」
 午前9時からレンタサイクルが開始される。それに時間を合わせて東武東上線の森林公園駅に到着。東武東上線が発行するレンタサイクルクーポンによって電車賃もお得、レンタサイクル料金もお得、そんなわけで私は、森林公園駅前でレンタサイクルをする。

 借りた自転車は私の所有自転車よりもいい感じで、それでいてギアもついている。なによりも走りやすいのが良好で、さすが「サイクルクーポン券」の自転車だ、とか感じつつもとにかく西に突っ走る。市野川という川を目前にして松山城趾が見えてくる。埼玉県の松山たる東松山市に松山城はあるのかと早とちりしそうだけれども正確には東隣町の「比企郡吉見町」に城趾はある。だから森林公園のある比企郡滑川町から東松山市を横断してきたという形になる。ちなみに森林公園駅前から6キロぐらいの距離。



「松山城趾」(県指定史跡)
 松山城は吉見丘陵の先端に築かれた山城で、標高は約60メートル。自然の要害であり、今でも土塁や空堀がよく残されている。
 築城年代は明かではないが、武蔵と上州を結ぶ戦略上の要地として、絶えず争奪戦が行われていた。扇谷上杉氏の家老職にあった上田氏が主な城主であった。北条との川越夜戦に敗れ去った扇谷上杉氏の衰退とともに松山城は北条氏の領有となる。以後、太田家・上杉(越後長尾)家と北条家・武田家・上田家による争奪戦が勃発し、最終的には北条家庇護のもとで上田氏が領有した。
 天正18年(1590)の豊臣秀吉側の前田利家・上杉景勝らの軍勢によって落城。その後は徳川一族の松平忠頼が城主となるも慶長6年に浜松に移封となり廃城。現在に至る。(角川日本地名大辞典・解説看板等)

松山城趾
松山城跡碑
松山城趾
神社の礎石のような空間、奥の方で「祠」が崩壊
本丸付近はなにやら、不気味。
松山城趾
本丸に至る道(のようなもの)
松山城趾
松山城趾、遠望

 さて、松山城趾の入口に自転車を止めて、登山を開始する。標高60メートルとはいえ、城跡としては「未整備」にちかい雰囲気で、道は道でないような、そんな自然に埋没した「城跡」。
 本丸に至るまで、両脇に土塁や空濠をのぞみながら、とにかく歩く。一直線に登ると平らな空間。城跡らしい空間ではあるが、そんなには広くない。なにやら手水舎のようなものがあり、さらには「参道」のような道と、「神社」のようなものがあったであろう礎石までもある。その横には「祠」が全壞状態で放置されていた。なんというか、長居したくない空間。その奧に「松山城跡碑」がある。
 それだけのこと。でもなぜか「城跡」めぐりがやめられない。「神社」メインで「城跡」がサブ。だいたい私はこの二つを探訪している。



吉見百穴(国史跡)
 松山城跡の北部。古墳時代後期の横穴古墳群。江戸時代から存在が知られており「天狗の隠れ穴」「松山城の武器庫」などの伝承があったが、明治20年に坪井正五郎による発掘調査によって人骨や土器が発掘され、当時は「土蜘蛛(コロボックル)の住居」と推定されたが、のちに「墓穴」と断定。
 戦時中は横穴古墳群の岩盤に地下兵器工場などが造られ一部が破壊されたが、戦後に保存体制が確立され、昭和29年に219基の横穴が確認。また山裾の横穴には「ヒカリゴケ」(国天然記念物)が自生している。
 付近には幾つかの横穴古墳群が確認されているが、分布範囲は比企郡内のきわめて局地的なものである。(角川日本地名大辞典・解説看板)

吉見百穴
吉見百穴(約200基はあるという)
吉見百穴?
吉見百穴?
横穴を破壊した地下軍需工場の名残洞窟。
中島飛行機吉松地下工場としてエンジン製作を目的とした。

今は、ただの穴。

 ここには何度も来たことがある。べつに今、ここを探訪する必要もないけど、せっかく通り道にあるのだから立ち寄ってみる。吉見百穴を間近で見物するためには「150円」を支払わなければならない。
 そうそうに公開する。なかではどこかの中学生の一群が走り回っている。洞窟のなかが楽しいらしく、とにかく駆け回っている。しょうがないからしばし休んでいると、あっという間に招集がかかって、あっという間にいなくなる。管理をしている人と何気なく話をすると彼ら中学生たちは次に「さきたま古墳群」にむかうという。残念ながらあの年頃では「古墳」の楽しさがわからないだろう。なんせ、私が中学生の時に同じように見物させられたが何も記憶に残っていない。小中学生時代の「知的探訪」は多くが徒労であろう。困ったことに「さきたま古墳群」に「式内社」があったりするから再訪せねばならない。
 吉見百穴。横穴の石室を眺めておしまいだったりする。軍需工場もただの洞窟。なにもない。これからサイクリングが続くので、心を落ち着けて、とにかく走り出すことにする。

 10時ちょうどに出発。自転車で走っている間中は話題がない。とにかくアップダウンが激しい「丘陵地帯」を駆け抜ける。走行距離は約5キロ、10時20分に「伊波比神社」に到着する。



伊波比神社     
(いわい神社・延喜式内小社・埼玉県比企郡吉見町黒岩鎮座)

祭神:天穂日尊(アメノホヒ尊)・誉田別尊(ホンダワケ尊=応神天皇)

 吉見丘陵の東端部、旧荒川筋沿いに鎮座。付近は500基以上が確認されている一大古墳群地帯。
 安閑天皇元年(534)に武蔵国造の地位を巡って争いが行われ、朝廷に献上された「横見郡」が屯倉(=天皇直轄地)に定められたために周辺地域に式内社三座が集中している。
 当社は和銅年間(708−715)の創建と伝える。嘉祥2年(849)に伊波比神社は従五位下に敍せられ、貞観元年(859)に磐井神として官社列格。平安期においても朝廷から地方の有力神社として認められていた。
 中世期には源範頼(頼朝の弟)の所領となり、子孫が吉見氏として四代続き、在地信仰として機能。このころは岩井八幡宮と称され社号額も旧社号のまま残されている。
 来は大己貴命ともいわれ、誉田別尊は合祀したものであったが、誉田別尊が崇敬を集め、旧祭神は忘れ去られたという。またかつては単に「八幡社」と呼ばれ、現在の社殿の西方にある「八幡台」と呼ばれているところが旧境内であるといわれている。応永初年(1394)ごろに現在地に移転した。(角川日本地名大辞典ほか)

伊波比神社
なんかこの雰囲気がステキ(延喜式内 伊波比神社)
伊波比神社
鳥居。やけに立派な構え
伊波比神社
参道。ちょっとした高台です
伊波比神社
拝殿。写真ブレ気味です

 鎮座地は吉見らしい丘陵地にある。この近隣は丘陵が多く、この伊波比神社もちょっとした高台に鎮座。木々に埋もれるようにひっそりとした佇まい。社殿は新しめではあるが、この空間は「式内社」らしい空間といえた。
 ただ案内の看板もなにもないのが、こまりもの。普通の感性では見向きもしない鎮守さまは、ただ静かな森の中に埋もれていた。

 この伊波比神社の鎮座しているところから横見川を挟んだ南東300メートルほど離れたところに、横見郡三座の式内社の「横見神社」も鎮座している。
 こう書くと、すぐにでも訪れたかのような言い回しではあるが、実際は見つけるのに周辺を1キロぐらい駆け回って、やっとみつけた。



「横見神社」     
(延喜式内小社・郷社・比企郡吉見町黒岩鎮座)

祭神:建速須佐之男命・櫛稲田比売命

 創建は和銅年間(708−715)。当社は吉見丘陵の東端に近い平野部に鎮座。付近には「稲荷前遺跡」(古墳時代の集落跡)「御所古墳群」がある。境内末社の稲荷社も稲荷塚という円墳の上に鎮座。本殿も古墳の上にある。
 境内にあった松の大木(周囲4.5メートル)は神木として「横見の松」と呼ばれていたが、台風で折れてしまい、今はその根だけが残っている。この木の下に石室があり、豪族の墳墓ではないかとされている。
 中世には「飯玉氷川大明神」と呼ばれ穀物の神として崇敬。
 慶長年間(1249−56)に当社は大洪水によって流され、御神体が漂着した南の吉見町久保田ではこれを貴い神の御来臨とされ当社分社の「横見神社」が祀られている。
 以前は祭神に宇迦魂命をも祀っていたが、明治5年に古墳保全の意味も含めて境内末社の稲荷社が創建されたときに遷座。(角川日本地名大辞典ほか)

横見神社 横見神社
横見神社 横見神社
角川地名辞典によると左の林が古墳群らしい。
たしかにそういう雰囲気はあった。

 この神社も説明看板の一つもない。そのかわりに大きく「郷社・横見神社 改築工事竣工記念碑」が誇らしげに立っている。おかげで「郷社」であるということはわかった。
 せっかくだからこの石碑に書いてある情報。現在の社殿は平成10年4月15日竣工、総事業費が1421万円、らしい。建前上はすべて奉納金で工事完了、らしい。俗な話でもうしわけないが、それしか神社の情報がない。
 この神社は古墳に囲まれているということが角川の地名辞典に書いてあった。目に見えて「古墳」というものはないが、たしかに「丘のような林」が境内脇にひろがっており、そんな雰囲気を抱かせてくれる。ただ、なんとなく参道脇のそれこそ古墳と思われる木々の方向にカラスの死骸があったりするのを目撃してしまい、それだけで気分がめいってしまう。
 「伊波比神社」にせよ、「横見神社」にせよ、建物が寺院みたいだ。鳥居がなかったら神社とは思わないかもしれない。そう言う意味では「鳥居」というものが、一番神社を象徴している建築物なのかもしれない。
 もちろん、拝殿に接し写真を撮ってしまうと、用事がなくなる。サイクリングという過酷な手段のため、時間が惜しい。とにかく先に進もうと思う。

 「横見神社」「伊波比神社」の鎮座しているあたりから真っ直ぐに750メートルぐらいを北上すると、「八丁湖公園」という池がある。そんなところには用事もないけど「横穴」もあるらしいし、もう二度とこんな所にはこないと思われるし、何よりも通りかかったので探訪してみることにする。



「八丁湖公園・黒岩横穴群」(県史跡)
 八丁湖は、灌漑用人造湖で県立比企丘陵自然公園の一部。この吉見周辺は何度か言及しているように「丘陵地帯」であり、「沼地」が多い。ゆえに、ハイキングには最適で、現に公園の周りで人びとは思い思いにくつろいでいたりする。
 今はやりのマイナスイオン効果もばっちりで、用事もない私でも気分的には嬉しくなる。
 
 湖のまわりを北1キロぐらい歩く(自転車乗り入れ禁止)と「黒岩横穴群」がある。吉見百穴ほどの豪快さと管理はなく、ただ自然にまかせられた「横穴群」は不気味に、ところどころに穴を開けている。

 黒岩古墳群は古墳時代後期と推定。標高50〜0メートルの丘陵に古墳群がある。昭和44年の調査では八丁湖北部の百穴谷に約200基、北西部の首切り谷に約200基、さらに奧の地獄谷に約50基、八丁湖西側の茶臼谷に100基、他にも八丁湖東部と南部にも分散している。この総数は南西部の「吉見百穴」を越す横穴群であり、正確には「何基」あるかは、いまだに不明。開口している横穴は6群78基。(角川日本地名大辞典・解説看板)
 

公園
八丁湖
穴
黒岩横穴群

 とにかく、吉見百穴よりも圧倒的に知名度がない横穴ではあるが、それでも迫力はある。それにこの「管理・整備」されていない空間のほうが、歴史的情緒が感じられて「考古学趣味」としてもうれしくなる。私は実は「考古学」が好きだったりもするので。
 面白いけれども、むやみやたらと「横穴」が開いていたり、開いていなかったり、する。元を正すと「墓」なのだから、眺めていて気分の良いものではない。そろそろ自転車の置いたところまで戻ろうかと思う。時間は10時50分ぐらい。

 この八丁湖公園入口から1.5キロぐらい北上(黒岩横穴群からは北に1キロ、ただし自転車乗り入れ禁止で徒歩のみだから引き返した。)したところの「ポンポン山」がある。本来なら「高負彦根神社」がある、というところなのだが、普通は「そんな神社」はしらない、ということになる。この「ポンポン山」が有名なので。

 ちょっとした小高い丘陵が見えてくる。1.5キロの距離でもこれは直線距離。自転車は坂道の影響を受けやすく3キロぐらいは走った気分になる。本当に「丘陵地帯」なので坂が多い。「車はいいなあ、坂で疲れないから」などとぼやきながら「ポンポン山登山口」に自転車を置く。もっとも階段が山頂まで延びている、のだけれども。
 一番上まで登って、「あれっ」と思ってしまう。山のような雰囲気を抱いて登ったのに、丘陵の上は「平地」がひろがっている。どうやら「丘陵」のでっぱりゆえに「ポンポン山」なのだろう。この場所に「休憩小屋」がある。そこに1人のご老体がいて、登ってきた私と目が合ってしまう。目があってしまったので立ち話をする。「すいません、高負彦根神社はどこらへんでしょう。」たしかにそう尋ねたいほどに「平地」が広がっていた。ご老体は「えっ、神社はそこじゃ。」といいつつ、指をさす。みればすぐそこに「らしい空間」がある。



「高負彦根神社」     
(たかおひこね神社・延喜式内社・比企郡吉見町田甲鎮座)

祭神:味耜高彦根尊・大己貴尊(一説に素戔嗚尊)

 和銅3年(710年)創建と伝えられる古社。田甲の地は旧荒川の水利とともに交通の要所であり、そこに玉鉾山が突きでており、その頂上に当社が鎮座している。周辺は「高負彦根神社周辺遺跡」として奈良時代の集落跡が残る。このあたりの丘陵と沼は「荒川」が作りだしたものであるとされ、このポンポン山の下もかつては「荒川」の流路であった。吉見丘陵東端には古墳群、そして式内社3社が存在していたことから、この地域が古くからの開発地域であったことがわかる。
 当社の祭祀には吉志(きし)氏(壬生吉志・渡来系氏族=屯倉管理か?)が関係していたとされる。横見郡三座のうちでもっとも古く、天平勝宝7年(755)に官符がひかれており(入間郡の正倉火災に関係)、奈良時代にはすでに官社となっていた。
 中世以降は衰退し不明。「玉鉾氷川名神社」と称していた。氷川社となったのは天穂日命の6代、五十根彦命の別名を高負比古命とする氷川神社宮司家の伝承によるものという。天明3年(1783)に再興。
 祭神はいずれも出雲系であるが素戔嗚尊が混入したのは牛頭天王信仰によるものとされる。
 ポンポン山(別名玉鉾山)と呼ばれる標高38Mの小山(磐座)の頂上に鎮座している。社殿後方の巨岩に近い地面を踏みならすと「ポンポン」と太鼓のような響きがするために「ポンポン山」と呼ばれている。この響きには地下に洞穴(空洞)があるという説と、ローム層と砂岩の境界面で音波がはねかえるという2説がある。
 説話として、何者かがこの山に財宝を埋めておき、盜まれぬようにするにはどうしたらよいかを当社に伺い立てたところ、神のお告げはこのまま霊地に埋めておくようにということであった。すると不思議と盜人が入り込むとポンポンと山なりがして身震いが止まらなくなるので、いかなるものも財宝を盗み出せなくなった、とされている。(角川日本地名大辞典・解説看板ほか)

高負彦根神社
高負彦根神社
高負彦根神社
高負彦根神社拝殿
ポンポン山
磐倉? 地面の一部を踏むと「ポンッ」と音がする
ポンポン山
ポンポン山、高負彦根神社遠望

 午前11時すぎに神社に到着。なんか気配が立派でうれしくなる。神社として雰囲気が整っており、この神威的な静けさがすき。社殿は平成2年1月竣工であり、たしかに小綺麗なほどに「身なり」が整っている。
 参拝を終えたら、さっそく「神社裏」に足を運ぶ。どうやら、わたしはこっちがメインなのかもしれない。とりあえず、社殿裏の岩の周辺をゆっくりと歩く。なんとなく足元が不自然な場所がある。その地面は歩くと不安定な迫力で「ポンッ!」と確かに音が響いてくる。「おぉっっ!」たのしいかもしれない。いつもどおりに誰もいないので、ここぞとばかりに「ポンポン」言わせてみる。音は地面下に空間のあるような雰囲気。この巨石は「磐倉」なのだろうか。こう楽しいと「岩」までもが神威的に感じてきてしまう。しずかだけれども足下から気配が伝わってくる。岩の上は赤城山・榛名山までも遠望できる立地で申し分のない見晴らし。予定以上に長居をしてしまった。


 このあとは吉見町から滑川町・嵐山町へと移動。目的地までは自転車で一気に約20キロを西に移動。丘陵地帯を横断するのだから、それなりに覚悟を決めて出発。
 出発時間が11時30分。目的地の「伊古速玉神社」到着が13時。さすがに休憩や昼食を途中にいれたが、それでもひたすらに約1時間を自転車に乗っていたことになる。

 もっともこの先は「後篇・滑川嵐山」に続く、とします。



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