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「ひたちなか海浜鉄道沿線神社めぐり」

<平成21年4月参拝・平成21年6月記載>

関連「茨城交通湊線沿線の古社」掲載社・・・「橿原神宮」「堀出神社」「酒列磯前神社」「大洗磯前神社」
<平成17年3月参拝>


湊中央ノ天満宮」「四郎介稲荷神社」「堀口ノ金砂神社」「堀口ノ加波山神社」「武田氏館」「湫尾神社



4月29日、新生「ひたちなか海浜鉄道」が開業一周年のイベントをおこなっていた。
私鉄・茨城交通湊線のときはちょくちょくと訪問していたが(もっぱら撮り鉄してました)、生まれ変わった第三セクター「ひたちなか海浜鉄道」として訪れたのは2回目。約10ヶ月ぶりの訪問だった。
このときは友人が一名同行。鉄道趣味仲間の友人であれど、歴史等にも理解があるので、鉄道と私の神社・歴史趣味をあわせて沿線散歩プランを即席で作成。

以下、「ひたちなか海浜鉄道」の「写真」をば。今回はあまり撮り鉄はしていないのだ。

勝田駅

阿字ヶ浦駅

ケハ601の車内から

那珂湊駅のケハ601(日本初のステンレス気動車)
おらが湊鐵道応援団」が修復作業中 

闇につつまれる那珂湊のホームから。

イベントでは著名な地元のサザコーヒーさんも出店されていました
(勝田駅ホーム)

阿字ヶ浦の浜にてみそ汁が振る舞われていたり。

那珂湊で駅弁やアラ汁も。

こんな感じで、「ひたちなか海浜鉄道」を愉しんでみたりする。
スタンプラリーをしたりしつつ、地元商店街主体地域一体のイベントの雰囲気に好感触。

午後からは沿線の神社を幾社か参拝してみる。同行の友人を一緒に連れ回しつつ。。。



「湊中央ノ天満宮」(ひたちなか市湊中央鎮座)

祭神:菅原道真公

鎌倉時代、海上に幾多の奇瑞があらわれ、神託を乞うたところ菅原道真公の神霊がこの地に降ったといわれ、時の領主は「北野山満福寺泉蔵院」を創建し神領として25貫文の地を寄進した事にはじまるという。
江戸期になると水戸藩第3代の水戸光圀公によって元禄年間に寺社改革(神仏分離)が行われ、泉蔵院別当の手から離れ柏原明神(現在の橿原神宮)に社職を命じている。

もともとの鎮座地は南方の峯にあったという。元禄年間に境内の「お中座」の場所に鎮座し、享保年間に現在地に奉遷されている。


正面鳥居

拝殿

本殿

お中座 旧社殿鎮座場

天満宮 扁額

手水の石 正徳3年(1714)

那珂湊駅から約500メートル南に鎮座。鎮座地は街の中心といったところか。境内は綺麗に整備されており、すがすがしい。閑静な住宅街に囲まれている。正面の鳥居は北面しており、参道は西に90度折れ曲がる格好となっている。



「四郎介稲荷神社」(ひたちなか市湊中央鎮座)

祭神:宇賀魂命(豊宇気姫命・伊勢神宮外宮の神)

文禄三年(1594)に飯塚家の初代を四郎介と名乗る神託があり伏見稲荷神社を勧請した事にはじまるという。

伝説としては、静神社の森に正理を尊ぶ四匹の狐がいた。神通力でもって土地の開発に尽力し、源太郎狐は瓜連、甚二郎狐は米崎、紋三郎狐は笠間に、四郎介狐は那珂湊に住し、それぞれが川原山海を守るために御祭神の使いしめとして人々に尊敬されてきたという。
川の守護神 静神社・・・・・・瓜連の源太郎狐
野の守護神 三島神社・・・・・米崎の甚二郎狐
山の守護神 笠間稲荷神社・・・笠間の紋三郎狐
海の守護神 四郎介稲荷神社・・那珂湊の四郎介狐

現在の社殿は明治9年11月8日造営のもの。御神木の前に足尾神社を配祠している。


正面参道

拝殿

本殿

裏参道

北参道

横姿

御神木と境内社足尾神社

宇賀魂神社の扁額

那珂湊駅からまっすぐに南に約300メートル歩くと当社が見えてくる。県道6号側が北参道。回り込むと正面の東参道と、南参道がある。結構立派な拝殿。境内は北・南・東にそれぞれ細長い空間が広がっていた。



「堀口ノ金砂神社」<旧村社>(ひたちなか市堀口鎮座)

祭神:大己貴命・武甕槌命(鹿島神)・猿田彦命

創建は長享2年(1488年)と伝えられる。
境内には茨城県指定天然記念物に指定される「金砂山ノ大柊(ひいらぎ)」がある。
本殿の南西側から北西側裏にかけて社殿を囲むように5株のヒイラギがが生育をしている。幹周囲は最大で2.6メートル。樹高は最大で約12メートルを誇っている。樹齢は約400〜600年と推定。
昭和10年に天然記念物に指定された際は樹勢が良かったようだが、現在では幹が空洞になっているものもあり衰えが見られるという。以前はフジが絡みつき天に昇るかのように幹をのばしていたというが現在ではフジも枯れてしまい以前ほどの樹高がない。
暖帯域に生育するヒイラギが当地のような冷涼な気候の地に5株もまとまって大樹として生育するのは非常に珍しいとされている。

当地に伝わっている伝説を記載。
この地に5人の兄弟がおり、いずれも敬神の念が強く各1本のヒイラギを奉納した。元亀3年(1572)、金砂神社分祠の当日に一天にわかに掻き曇り、雷鳴がとどろき、黒雲の間から忽然と5匹の龍が5本のヒイラギに分かれて天降り、祭事が済むと、また各ヒイラギによじ登って昇天していったと伝わっている。

明治社格では旧村社列格。


正面参道

参道

参道

拝殿

本殿

本殿裏

大ヒイラギの巨木

大ヒイラギの巨木

勝田駅より1.5キロほど南西に行った所に鎮座している。那賀川北側の台地。
正面をのぼると参道が曲線を描いており、その先は気持ちの良い直線が広がる。前に広がる参道の直線と垂直に伸びる樹木の直線のバランスが気持ちよい。社殿の南側から西側にかけて大ヒイラギが取り囲んでいて、この迫力に圧倒されてしまう。それぞれを神域として祠が設けられていて、これは一見の価値有り。気持ちの良い境内のなかでヒイラギにかこまれ、リフレッシュする。



「堀口ノ加波山神社」(ひたちなか市堀口鎮座))

加波山の神様を勧請したものか。詳細は不明。
地元では「堀口の湧水」「加波山の滝」と呼称されている湧水地。加波山らしくカエルの石像が鎮座しており、その下から湧き水が豊富に流れ落ちている。


堀口から武田に向けて歩いていたら途中で、綺麗な水が湧いている空間に出会えた。気持ちの良い水が豊富に湧き出ており、歩き疲れたひとときの休憩にもってこいの場所。鳥居と小さな祠があり、そこに赴くまで石を渡っていくというシチュエーションも良い感じ。



「武田氏館」<甲斐武田源氏発祥の地・ひたちなか市武田>

甲斐武田氏発祥の地。源頼義の三男であった新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)は後三年の役(1083−1087)に際し、兄である八幡太郎義家の苦戦をきき奥羽に救援に赴いていたり、のちに常陸介に任命され在地勢力と結びつき、結果として常陸大豫(おおよ)平氏との間にも縁戚を結んでいる。その後も刑部丞という中央の役職にありながらもたびたび常陸国に下向していた。

源新羅三郎義光には義業(よしなり)・実光・義清・盛義・。親義らの子があった。
うち長男の刑部太郎義業は常陸大豫の一族であった吉田清幹の娘を嫁として昌義をもうけ、常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に土着させ「佐竹冠者」を名乗らせた。この昌義が常陸佐竹氏の祖となった。
一方、三男の刑部三郎義清を常陸国那賀郡(吉田郡)武田郷(ひたちなか市)に配した。義清は那珂川を望む突端に屋敷を築き武田の郷名をとって武田氏と称し武田冠者と名乗った。ゆえに武田義清は武田氏の祖となった。

武田義清、その子である武田清光は在地に勢力を伸ばすが、やりすぎた勢力拡張に在地勢力の吉田清幹(上記・常陸大豫の一族)や鹿島神宮の中富氏にうとんじられ大治2年(1127)に新羅三郎義光が世を去ると武田義清・武田清光父子に対する抵抗がいっそう強くなった。
大治5年(1130)に国司藤原朝臣盛輔らによって朝廷に訴えられてしまう。

その結果、武田義清・武田清光父子は甲斐国に配流されてしまう。そうして新天地の甲斐国に土着せざるをえなくなった武田氏は甲斐源氏発展の礎を築き、清光の17代後に甲斐の虎と称された名将武田信玄を輩出するに至った。

武田義清・武田清光父子が住んだ館は武田台地の突端(現在の常磐線の向こう側に広がる武田溜のちかく)にあったといわわれており、この近くに「武田氏館」を資料館として建設したのが当施設。
中世の館を再現しており、主屋・納屋・厩を配している。


武田氏館

武田氏館

武田氏館 主屋

厩が土間ではなく板葺きというのが珍しい

下調べをするまで、「ひたちなか市」が甲斐武田の発祥の地である事を知らなかった。今回沿線を調べていて、このような場所があることを知り、是非とも行ってみたいと思っていた場所。

勝田駅からは南に約1キロ。ひたちなか海浜鉄道の日工前駅からは700メートルほど南。常磐線を東にみる高台に鎮座している。甲斐の武田の興味深いエピソードを知る事ができて結構満足。なにより入館無料で見学が出来るののが嬉しい。



「湫尾神社」<ぬまお神社・武田大神宮・旧村社・甲斐武田氏発祥の鎮守社>(ひたちなか市武田鎮座)

祭神:素戔嗚尊

神社の創建年代は不詳。武田氏館の北西にあたる断崖上に鎮座。

慶安元年(1648)に神社を再興した際に「武田大神宮」と称した記録が残っている。元禄年間には水戸藩主徳川光圀が神鏡を納めている。
水戸藩では宗教統制改革として寛文6年(1666)に一村一鎮守の令を出し神社整理の基準として「鎮守開基帳」を定めている。この改革でもって神仏分離をし、鎮守社から仏教的要素を排除、神体の改革等をおこなっている。元禄年間に「神鏡」を納めているのもこの一環といえる。

再興後は「武田大神宮」と呼称されていたがその15年後の寛文3年の「鎮守開基帳」では「沼尾明神」、そして現在の「湫尾神社」と社名が改められており、武田氏との関係や、鹿島市にある沼尾神社との関係も推定できる。

いずれにせよ武田郷の鎮守として崇敬されてきた。明治6年、村社列格。

境内にはスダジイとヒイラギの巨木がある。
スダジイは参道の南側(向かって左)に生育。樹齢は約400〜450年。幹周囲5.2m、樹高23mで市内最大のスダジイ。
ヒイラギは参道の北側(向かって右)に生育。樹齢は約250年。幹周囲は1.5m、樹高は14m。暖帯性のヒイラギが上記の「金砂神社」を含めて寒冷な気候の地でこのような巨木に育つのは極めて希とされている。


湫尾神社 左にヒイラギ 右にスダジイの巨木

正面参道

左にあるヒイラギの巨木

右にあるスダジイの巨木

湫尾神社拝殿 茅葺きの屋根

湫尾神社拝殿

湫尾神社本殿

湫尾神社本殿

湫尾神社。武田氏館のすぐ南に鎮座している。先ほどの金砂神社に続いてここにもヒイラギの巨木があり、自然の豊かさを感じ取れる。拝殿は茅葺きのまま残っており、古風な雰囲気に好感触。甲斐武田氏発祥の地に鎮座する神社であれど、マイナーな神社。佇まいに魅了され気持ち良く参拝できた。

ここから「ひたちなか海浜鉄道」の日工前まで歩いて、そうして電車を愉しんで本日を終了する。

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