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「雨降る相模伊勢原の古社めぐり」

<平成21年6月参拝・平成21年7月記載>

大山阿夫利神社」「子易ノ比々多神社」「三之宮ノ比々多神社
上粕屋神社」「伊勢原大神宮」「高部屋神社」「高森神社



調布駅駅前から魅力的なバスが出ている。
『調布駅発鶴川駅行きバス』
神奈川中央バスが1週間に1本だけ走らせているバス。多摩川を越境してくる珍しい神奈中バス
路線維持の為に休日早朝に一本だけの運転だというもののバスマニアな方々には有名らしい。

一番右側の休日欄に唯一書かれる「31」の文字

調布駅前の「神奈川中央バス」
多摩川越境路線は珍しいようだ。

そんな休日一本バスは7時31分に調布駅を発車。鶴川街道をアップダウンしながら鶴川までひた走る。所要時間は約45分。料金は250円。
せっかくなのでちょっと面白いバス路線にのって、新鮮な気分で鶴川に着いてみた次第。
ちなみに今回も夫婦での神社詣で。うちの嫁さんもだんだん神社散策趣味に慣れてきたのかな?

8時15分。鶴川駅着。
そこからは小田急。大山阿夫利神社を一目散に目指す。
そうして伊勢原駅についたのが、9時ちょうど。地元駅から1時間30分でこれるのだから近いものだ。埼玉時代は神奈川に行くというだけで結構大層なことであったが、いまは多摩川をわたればすぐ神奈川県。

伊勢原駅からは神奈川中央バスの乗り換えオンパレード。けっこう芸術的なまでにスケジュールをたてたのだ。

伊勢原駅から4番バス停。9時25分のバスにのってまずは大山阿夫利神社へ。
トレッキングの人々や町内会の散策会のような雑多にたくさんの人々を乗せたバスは超満員。途中の停留所から乗る人が難儀をするほどだった。
関東近郊のトレッキングコースとして大山・丹沢地区の人気をうかがい知る事ができる。

9時50分。バスは終点到着。そこから15分ほどおみや屋や大山講名残の「先導師」宿のつらなる道を歩くと、大山ケーブル駅(旧・追分駅)がある。
毎時20分ヘッドで往復券だと850円。


大山ケーブル駅。帰りに撮影なのですでに雨。

交換駅は大山寺駅

阿夫利神社駅。帰り撮影で、霧ってます

阿夫利神社駅。同じく帰り撮影

そうして10時25分。大山阿夫利神社駅に到着。

阿夫利神社駅から神社へ。すぐに歩いていける場所に鎮座しているのは「下社」。この下社に赴いているとあれれという間に霧が出てきてそうして雨が降ってきました。もうこの日はやむ事のない雨。確かに大山阿夫利神社は水の神様故に、雨が似合うのはわかるのだが、ちょうど降ってくるあたりなかなか趣深いと云ったところ。

「行きはよいよい帰りは怖い」とは天神様の小唄であれど、雨降山の大山阿夫利神社にきた瞬間に雨が降るとはさすがです。




「大山阿夫利神社」<延喜式内社 旧社格・県社兼郷社・関東総鎮守>(神奈川県伊勢原市大山鎮座)    
おおやまあふり(あぶり)じんじゃ

朱印

祭神 大山祇大神 (おおやまつみのかみ)
高オカミ神 (たかおかみのかみ)
大雷神 (おおいかつちのかみ)

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公式より抜粋
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大山阿夫利神社は、大山の山嶺に三社があり、本社は大山祗大神(オオヤマツミノカミ)を祀り、摂社奥社に大雷神(オオイカツチノカミ)が、前社に高オカミノ神(タカオカミノカミ)が祀られています。  

摂社の両社は、古くは大天狗・小天狗と言われていました。  
底津磐根(ソコツイワネ 地の底です)に鎮座して、高天原(タカマガハラ 天上の神々の国のこと)に千木高知り座して天下の神蹟と言われているのが、両部時代より大山石尊大権現(オオヤマセキソンダイゴンゲン)と称せられた、本社の御霊体であり祭神です。
大山阿夫利神社の御鎮座、神社創立は、今から2200余年以前の人皇第10代崇神天皇の御代であると伝えられています。  
古来より大山は山嶽神道の根源地であり、別名に雨降山、古名を大福山と呼ばれていました。  
標高1253メートルの山頂に本社があり、延喜式神名帖に登載されている式内社です。  
天平勝宝4年(752年)に良辯(リョウベン)大僧正が入山してようやく不動堂建立以来の時運到来、神仏習合の機が熟し、堂塔僧坊を建て、霊石の由縁をもって石尊大権現と称し、雨降山大山寺と号しました。
この号は、神山の山頂にある、常に雨滴がたたえられている霊木にちなんで名付けられたもので、今なお、雨降木の名をもって残されています。  以後、数百年の間、神職・修験・僧侶などが入り交じって奉務することになりました。  
聖武天皇の勅願所であった時など、房相総3ヶ国の租税から一山の費用をまかなうなどして報賽(祈願成就のお礼参り)を欠かさなかったものですが、元慶3年、大地震があって神火に遭い、一山すべてが無に帰してしまったのでした。  
その時、鎌倉の僧、願行上人が来られて、再興を計られたのです。  
その後、元歴元年9月、源頼朝は幕府所在国の霊社として、特に社嶺を寄せて篤く信仰しました。  
徳川氏の時代になってからは、朱印黒印などをもって社領157石を寄進、また、神池境域の内外に除地・山林 200町歩を置いたりしたのですが、中でも三代将軍家光公は、18万両の巨費を献じて、本社以下、摂社末社を改築し、実に12坊8大坊でもって一山をとりしきらせることとしました。  
ところが、安政年間の大火で全山が灰燼に帰してしまい、以前の盛観はまったくなくなってしまいました。  

崇敬者は再建に努力し、明治元年、神仏混淆の廃止・同年10月の鎮守府の命によって、石尊大権現らなびに大山寺の称を廃止して、阿夫利神社の旧号に復し、明治6年7月、県社兼郷社と定められ(初代祠官権田直助翁)、続いて昭和27年8月、宗教法の制定により阿夫利神社本庁として出発、神社・祀職・先導師・講社一連の組織を確立し、神道の実践と日本神社宗教の確立を計ることとなり、現在に至ります。

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大山阿夫利神社公式 http://www.afuri.or.jp/
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僧良弁(大山阿夫利神社の不動堂開祖・東大寺の開山)
延喜式内社 旧社格は県社兼郷社。
なお、阿夫利神社本庁を存続させたまま近年、神社本庁の参加に入っており神社本庁別表神社となっている。


伊勢原駅前の大鳥居

大山阿夫利神社下社参道

大山阿夫利神社下社参道上より

社頭に座る「無事かえる」の像

大山阿夫利神社下社拝殿 ちょうど霧が出てきてこのあと雨が降ってきました

社殿脇の御神水

御神水奥の本殿下の聖域

御神水の奥では寸志で御神酒を頂戴できます。

境内には多くの講碑や「豆腐之碑」がありました。

大山阿夫利神社下社拝殿脇

ご本殿

大山登拝口

片開きの登拝門
 
山内の鹿
上記:片開きの登拝門 由緒

そんなわけで、写真を撮っている間にみるみると雨が強くなってきて、そうして山は霧に包まれてしまった。大勢いたトレッキングのかたかたは大丈夫なのでしょうか?小学生もたくさんいたのでちょっと心配。

境内の左奥には頂上への登山口がある。頂上まではここから90分ないし120分ほどかかるらしい。さすがに私たちは登山の準備をしていなかったので今回はここから遙拝するのみ。次回は山頂に登ってみよう。
ちょうど社殿をながめていたら、もくもくっと霧が出てきて、あれれというまに「雨降山」をリアルに体感する事になってしまう。ある意味で貴重な瞬間。
11時20分のケーブルカーで下に降りる。下に降りれば雨が弱いかなと淡い期待をするもそんなことはなく盛大に雨が降る。
バス停まで戻って、次の目的地は12時02分発で「明神前」下車が12時8分。この直ぐ近くに式内論社がある。



「子易ノ比比多神社」<子易(こやす)明神・式内論社>(神奈川県伊勢原市上粕屋字子易鎮座)

朱印

祭神 神吾田鹿葦津姫命(かんあたかあしつひめのみこと)
又の名を 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)=大山阿夫利神社の祭神である大山祇命の娘神

天平の頃(729−749)に相模国守護の任にあった染谷太郎時忠(藤原鎌足の玄孫・関東総追捕使・相模国司・東大寺初代別当良弁僧正の父という)が当国安土・子宝を願って勧請したという。
その内室懐胎に及び信仰益々篤く安産祈願の霊験あらたかであった。
のち醍醐天皇の勅願所ともなるが天正18年小田原城落城のおりに宝殿亡失してしまう。
神号を「易産大明神」「子易大明神」と称し、安産守護の神社として崇敬される。

現在の社殿は享保2年再建。神木は二本あったが、一本は関東大震災のおりに倒木。一本は現存している欅の大老木。

境内の梛(なぎ)の木は市指定保存木。梛の葉には神霊が宿ると古来より伝えられており、当社の配布している安産祈願の「肌守」には梛の葉を一枚入れている。

拝殿向拝の柱
参詣者が子宝・安産を願い少しずつ削って持ち帰ったために細くなってしまった。向かって左が男児、右が女児出産の祈願とされる。現在は三代目の向拝柱であるが社殿保護のため削るのは禁止しており、かわりに安産祈願の「肌守」を配布している。

参考:境内案内看板・由緒書及び「神奈川県神社庁・サイト」より


子易ノ比々多神社

境内正面

社殿


向拝柱には削られた名残が。

御神木の欅

境内に実っていた梅

境内社

境内は細長いが、さほどに狭さを感じさせない。境内の向かって左側に立派な御神木(欅)を望む事が出来る。欅の木は本体からの伸びはすでにないが、その生命を受け継いだ幹が若々しく葉を宿していた。
拝殿の向拝柱が削られているのが、信仰の深さを感じさせてくれる。
感じの良さそうな神職さんから御朱印を頂戴する。大山詣での途中で寄り道する価値に値する好印象。小さいながらもよく整備されていた。
さて、ここからが難事であった。<
バスがない。伊勢原駅に戻るバスはたくさんあるのだが、私が行きたい場所へ走ってくれるバスがない。致し方がないので雨であれど途中から歩く事にする。

12時30分。伊勢原駅行きのバスに乗り込み、途中の「石倉橋」バス停で降りる。
ここから三の宮方面に行くバスの運転本数はすくなく13時05分まで待たないとやってこない。
距離は1.5キロほど南。それならば歩こうかなということで、三の宮めざして雨天歩行を開始。



「三ノ宮ノ比比多神社」<相模国三の宮・旧郷社・式内論社>(神奈川県伊勢原市三ノ宮鎮座)

朱印

祭神:
豊国主尊(とよくにぬしのみこと)=豊斟野尊(とよくむぬのみこと) 
天明玉命(あめのあかるたまのみこと)
雅日女尊(わかひるめのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)

相殿:
大酒解神 (おおさかとけのかみ)=大山祇神(おおやまつみのかみ)
小酒解神 (こさかとけのかみ) =木花咲耶姫(このはなさくやひめ) 


当社境内地や近隣の発掘調査によると縄文時代中期の祭祀遺跡(環状配石立石)がみられ原始信仰が行われていた事が推測できる。

鎮座は神武天皇6年(紀元前655年)、相模国大山を神体として豊玉主命を日本国霊として古代の人々が当地を最上の地として祭祀をしたことにはじまるという。

崇神天皇7年に「神戸」が奉られ、孝徳天皇の大化元年(645)に「うずら瓶」(県重要文化財)と称される須恵器が奉納。
第41代持統天皇の朱鳥6年(692)に相模国司であった布施朝臣色布知によって社殿の改修が行われ、一対の木彫り狛犬(関東最古の狛犬・市重要文化財)が奉納。

天平15年(743)に竹内宿禰の裔孫とされる紀朝臣益麿が比々多神社初代宮司となる。(それまでが宮司というものを設けていなかったのか?)同じ時に聖武天皇より荘園を賜る。

淳和天皇の天長9年(832)に相模国司であった橘朝臣峯嗣を勅使として相模国総社「冠大明神」の神号を天皇より賜る。
のちに征夷大将軍源頼朝公が妻政子の実朝出産に際し、その安産祈願のため当社を「三宮冠大明神」としてを崇敬している。
頼朝によって元暦元年(1184)に大規模な社殿再建。
室町期は戦禍によって神領を失い明応年間(1492−1501)に兵火によって社殿焼失。旧鎮座地から神主屋敷のあった現在地に移転遷座。
天正19年(1591)に徳川家康によって社領が寄進され社頭復興。

延喜式神明帳記載の論社。明治社格では郷社。

「公式サイト」http://www4.ocn.ne.jp/~hibita/ 参考


三ノ宮比々多神社

正面 竹ノ輪

御神木

拝殿

本殿

ちょうどアジサイが咲いてました

拝殿脇のアジサイ

境内の鐘堂

そうこうして神社に到着したのが13時。石倉橋でバスを待つのとおなじ時間で到着できた計算。
入口に大きな「竹ノ輪」があって、大きな御神木と大きな拝殿があった。予想よりも規模が大きくて、思わず「でけー」と口走ってしまったほどだ。
境内にはかわいらしいベンチ(リスが持ち上げているような感じ)があったりして微笑ましい。

社務所にお伺いして御朱印を所望したら、わざわざ座布団とお茶を持ってきてくださったお気遣いも、雨の中を歩いてきた私たちにとってかなりかなりうれしいものだ。

13時30分。雨のなか、誰もいない神社にはそうそう長居が出来るものでもなし。スケジュールが詰まってきたので先を急ごう。
三ノ宮比々多神社に来る途中で、「上粕屋神社」と書かれた案内看板が目についたので、下調べのコース外ではあるが寄り道してみようと思う。
三ノ宮比々多神社からは距離にして1.5キロほど北東。どうせバスもこないことだし、伊勢原のメインのバス通り(=阿夫利神社へのバスが往来する道)まで出る事にしよう。



「上粕屋神社」(神奈川県伊勢原市上粕屋鎮座)

祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ)
大穴牟遅神(おおなむじのかみ)
若山咋命(わかやまくいのみこと)

創建年代は不詳とされるが、大同・弘仁(806−823)の頃に近江の日吉神を当所に移し勧請したと伝える。
風土記稿によると天平年間(729−749)に僧良弁(大山阿夫利神社の不動堂開祖・東大寺の開山・)勧請とも云う。
元禄年間に社殿を再建、山王権現と称した。 明治2年6月、日枝神社と改称。
明治6年7月に宇和田内鎮座の熊野神社と石倉上鎮座の白山社を合祀した際に「上粕屋神社」と改称した。
昭和39年4月に峯岸鎮座の御嶽神社、昭和41年10月に秋山鎮座の五霊神社を合祀している。

参考:境内案内看板及び「神奈川県神社庁・サイト


上粕屋神社正面

境内

鐘堂

本殿裏から

到着が14時。
雨の中30分ほどあるいて上粕屋神社に到着。長めの参道は50メートルほどだろうか。境内は綺麗にまとまっており社地後方も含めて手入れが行き届いている。まったく予備知識無しで訪れてみたが、意外に深い由緒をもっていて、へーっと感心してしまった。
伊勢原の神社を歩いていて、ずーっと気になるのが「鐘」。なぜかどこに行ってもあるんだよなあ。



「七人塚」「太田道灌公墓所」

「七人塚」
太田道灌が主君上杉定正に「謀反の疑い有り」として
定正の糟屋館にて暗殺された際に、
道灌の家臣七人が追手を受けて討ち死。
その七名を祀った墓とされている。
「太田道灌公墓所」
太田道灌(1432−1486)の墓。
太田道灌の父である太田資清は相模国糟屋に本拠地をおいており、
太田道灌も伊勢原市内で生まれたとされている。
主君上杉定正が「太田道灌が謀反の疑い有り」の誤解をもって
糟屋の上杉館で54歳で謀殺されてしまった。

道灌墓のある洞昌院は
道灌が関東管領上杉憲実の弟である道悦和尚の建立と伝わっている。

太田道灌墓

太田道灌墓

そのまま案内看板が「太田道灌の墓」と示しているので、歴史好きとしてはやっぱり是非とも行ってみたいということで足を運んでみた。
かの有名な太田道灌が最後を伊勢原でむかえそしてここに墓があるのは私も知らなかったことなので興味深い。
こうして神社詣でを重ねて付随した知識が得られるのが、なによりも嬉しく楽しい事でもあるのだ。

14時30分。太田道灌の墓をあとにして、いったんバス通りにもどり伊勢原駅方面にむかうバスに乗り込む。
次いで降りるバス停は「大神宮前」。名前の通りにここには「大神宮」があるのだ。



「伊勢原大神宮」(神奈川県伊勢原市伊勢原鎮座)

朱印

御祭神
内宮 天照大御神
外宮 豊受姫大神

創建は江戸時代初期の元和年間(1615−1624)と伝承。
元和6年(1620)伊勢国の人・山田曾右衛門と鎌倉の人・湯浅清左衛門は大山参詣の途中、千手原という松原に一夜の宿を求めたところ、水音を聞いて開墾可能であることを悟り、当時このあたりを支配していた中原代官成瀬五左衛門の許可を得て開墾に着手したという。
だんだんと粕屋あたりより人が集まり、現在の伊勢原市街の基礎が形成された。
そこで山田曾右衛門は新しい開墾地の鎮守として、故郷である伊勢の神宮を勧請し、奉祭。そうして伊勢原大神宮が創建された。

「公式サイト」http://www.daijingu.net/ より


伊勢原大神宮

境内

中央御神木 左が内宮 右が外宮

手前が内宮 奥が外宮 右側が御神木

14時45分。太田道灌墓付近のバス停(バス停名失念・ちょっと離れていた気もする)から15分ほどバスにのって「大神宮前」で降りる。

伊勢原の大神宮。意外にも歴史は江戸時代から。古墳もあり式内社も多い伊勢原地区は古くから栄えていたように思いつつも、江戸期に新しく開墾された地が最終的には「伊勢原市」という名前の発祥とも云うべき「伊勢原の大神宮」なのだから、歴史のふるさとはあまり関係ないというのも面白いものだ。

事前情報では当社で「式内社・高部屋神社」の御朱印が頂戴できる(高部屋神社を兼務している)と聞いていたので、折角の機会ゆえ「伊勢原大神宮」と「高部屋神社」の御朱印をふたつ頂戴する。

現在の社殿の手前に旧社殿があったようで、大正時代・昭和時代の社殿が境内に写真で掲載されていた。それをみるに大正時代・昭和時代ともに中央の御神木の手前に水平に鎮座していたようで、高台に鎮座したのはつい最近のようだった。
御神木を中央にし、左右に社殿が広がる姿はなかなか雄大だった。

ここから再びバスで接続させる。
15時22分に大神宮前バス停から、東へと進む。粟窪入口とあるバス停で降りると歩いて3分ほどの所に「高部屋神社」が鎮座していた。



「高部屋神社」<旧郷社・延喜式内社>(伊勢原市下糟屋鎮座)

朱印

祭神:神倭伊波礼彦命(神武天皇)
   誉田別命(応神天皇)

創建年代は不詳。
延喜式神名帳に記載される相模13座の1社される。

鎌倉時代以降に八幡信仰の普及に伴い「糟屋八幡」と称された。当社は糟屋庄127ヶ村の総鎮守となり、通称「大住大明神」と呼称されてきた。

慶応元年(1865)に社殿再興。現在の拝殿・幣殿はそのときのものである。本殿は関東大震災で倒壊し、昭和4年に再興。
明治6年村社に列格。大正6年7月郷社となる。

「伊勢原大神宮・公式サイト 兼務神社」http://www.daijingu.net/ 

現在は、伊勢原大神宮が兼務している神社である。


境内地前

高部屋神社

正面

拝殿

本殿

本殿

拝殿向拝

鐘堂

ひさしぶりに一目惚れした神社。
拝殿・本殿、それぞれの造形が美しかった。茅葺きの社殿は慶応元年(1865)と決していうほどには古くはないが、ずっしりとかまえた存在感があった。本殿は昭和4年に再興というが、逆に新しさを感じさせず、バランスが非常に良かった。
ただ無人の神社というのが手入れという意味でちょっと残念な状態でもあったが。

雨に濡れる茅葺きの社殿。訪れるまで知らなかった神社であれど、こういう雰囲気を味わえるのが楽しいから足繁く参拝を繰り返してしまうのかもしれない。やっぱ、茅葺きというだけで評価が高くなってしまいます。

16時01分。「粟窪入口」バス停からさらに東に進むと「愛甲石田駅」に到着。
ここでバスを乗り換えて、「高森4丁目」行きのバスに16時35発で乗車。団地の北側から歩行者専用の道をぬけて、東名高速をくぐってという感じで500メートルほど北上すると「高森神社」の地に到着できる。




「高森神社」<旧郷社・延喜式内社高部屋神社の論社>(神奈川県伊勢原市高森鎮座)

祭神:味須岐高彦根命 (あじすきたかひこねのみこと)

創建年代は不詳。大和葛城にゆかりある賀茂族が当地を開拓した際に祀った事にはじまるのではと推測。
明治初年に「高森神社」に改称。明治社格では旧郷社。延喜式内の論社。

参考「神奈川県神社庁・サイト


******************
平成21年2月3日午前3時30分頃、不審火によって「社殿」「末社八坂神社」「授与所」等が全焼。
幸いにも「御神璽」は損傷あるもののかろうじて無事な状態で、現在は仮殿にて祭祀が行われている。

******************
たまたまめぐりあわせた宮司さんの息子さんにお話をお伺いしてみると、その火災で「御朱印」も焼けてしまって、いまはまだ用意が出来ていないとのことでした。現在仮殿の社殿は2年後を目安に再建したいとの話もあがりました。


高森神社正面

社号標裏に「高部屋神社」

仮殿

仮殿

類焼を免れた「鐘堂」

「手水屋」と「御神木」はなんとか残りました。

16時50分。神社に到着。
・・・足が止まって、おもわずあたりを見渡してしまった。完全に立ちつくしてしまった。間違えたわけでもなかった。
不審火によって平成21年2月3日に全焼してしまったという。ここに来る前、このことを私はまったく知らなかった。

ここにあった神社が、いまは仮殿となっていた。これはさすがにショックだった。鐘堂のわきにあった「焼失を伝える看板」が胸にこたえた。

たまたま人が来た。結果としては17時で片づけに来た神職さんだった。話を伺うと上記の通りに「現在仮殿の社殿は2年後を目安に再建したい」とのこと。頑張ってとしかいえない参拝者であれど、落ち着いたらきちんと参拝し直しに来たい、そう思わざるをえない状態であった。




こうして17時がすぎて、今回の参拝は終了。ひさしぶりに本腰をいれて巡礼した気分。
最近はこういう感じでの参拝をしていなかったので、リハビリも兼ねてという事で。




伊勢原駅中心の式内社をバスで参拝する人向けのデータ 平成21年6月現在

----------------------------------------
【伊勢原駅バス停】4番のりば
伊10 12 系統
大山ケーブル行
毎時 05 25 45
【大山ケーブルバス停】下車
『大山阿夫利神社』
【大山ケーブルバス停】乗車
伊10 17
伊勢原駅北口行
毎時 02 22 42
【明神前バス停】下車
『子易比々多神社』
【明神前バス停】乗車
伊10 12 17系統
毎時 10 30 50
----------------------------------------
三の宮方面に行くバスが少ないので
【石倉橋】バス停から南に約1.5キロ歩きで
三の宮へという選択肢
運良く【石倉橋】で時間があわせられれば下の筋で
大山の所要時間によって変動
----------------------------------------
【石倉橋】
伊41系統 伊勢原車庫行
11:05
13:05
15:05
17:25
【三の宮バス停】下車
『三ノ宮比々多神社』
【三の宮バス停】乗車
伊41系統
伊勢原車庫発石倉橋経由伊勢原駅北口行
8:03
9:43
12:03
14:03
15:43
16:43
19:03
バスに乗れない場合は【石倉橋】まで歩いて戻る
【石倉橋バス停】
伊10 12 13 17系統
伊勢崎駅北口行(
10:12 32 52
11:12 32 52
12:12 32 52
13:12 32 52
14:12 32 52
15:12 32 50
【大神宮前バス停】で下車
-----------------------------------------
『伊勢原大神宮』(高部屋神社兼務社)
大神宮前乗車 → 粟窪入口下車
伊74 → 愛甲石田行(東海大学病院経由) 
10:32
11:12 52
12:32
13:12 52
14:32
15:22 52
16:32
17:12 52
18:32
【粟窪入口バス停】
『高部屋神社』
粟窪入口乗車 → 愛甲石田駅下車
伊74 → 愛甲石田行
10:01 41
11:21
12:01 41
13:21
14:01 41
15:31
16:01 41
17:21
18:01 41
【愛甲石田駅バス停】1番のりば
愛02 → 高森4丁目行
10:05 35
11:00 30
12:00 30
13:00 30
14:00 30
15:00 30
16:00 35
17:05 20 40 55
18:30
19:00
『高森神社』
【高森4丁目バス停】
愛02 → 愛甲石田駅行
10:12 42
11:07 37
12:07 37
13:07 37
14:07 37
15:07 37
16:07 42
17:12 27 47
18:02 37
19:07 42

----------------------------------------
メモ
----------------------------------------
三の宮比々多神社方面にいくバス少なし
----------------------------------------
【伊勢原駅バス停】1番のりば
伊16系統
栗原行
7:30
8:30
13:30
14:30
16:30
17:30
【比々多神社バス停】発
伊16系統
伊勢原北口行
7:02
8:02
9:02
10:02
13:02
14:02
17:02
18:02
----------------------------------------
【伊勢原駅バス停】4番のりば
伊41系統
石倉橋経由伊勢原車庫行
10:55
12:55
14:55
【三の宮バス停】発
伊41系統
伊勢原車庫発石倉橋経由伊勢原駅北口行
8:03
9:43
12:03
14:03
15:43
16:43
19:03
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メモ
本厚木 小野神社:【小野宮前バス停】



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