「武蔵の古社を想う・金鑽神社編」
目次
「児玉」/「金鑽神社」(式内名神大社・武蔵国二の宮)/「鏡石・多宝塔」
「神川から美里へ」/「ミカ神社」(式内小社)
「寄居」/「稲乃比売神社」(式内小社)/「鉢形城趾」
「児玉」
18キップの最後の一枚。鈍行限定とはいえ、乗り放題なのだから遠出をしても良い。しかし東海道・中央道は先日乗ってきたばかりだし、他の土地は食指が動かない。しょうがないから兼ねてから計画だけは立案されていた「児玉」に行こうかと思う。八高線で。
八高線とは八王子−高崎のこと。しかし、路線名称と路線運行は甚だしく違う。川越からの埼京線と連絡し、高麗川から八王子へ接続。路線名は「八川線」の方がよいかもしれない。そして高麗川から高崎まではだいたい一時間に一本。さすがにこれを「高麗高(こまたか)線」とは呼べない。
この近辺、高麗川から飯能周辺は「高麗の里」。埼玉には高麗人や新羅人の入植が多かった土地がある。そんな名残を感じつつも、私は関係ない方向へと北上をする。埼玉における高麗の話は「高麗神社」にで参拝したときにしようかと思う。
児玉。児玉とは養蚕が盛んな土地であり蚕玉からとったとも、砕銀を小玉と呼び銀銅を産出したことからつけられた地名ともいう。
古くは武蔵七党、児玉党の本拠地。そんな児玉駅で降りる。駅前は何もない。本来なら丹荘駅で降りるべきなのかもしれないけれど、埼玉の人間としては「丹荘」という地名よりも「児玉」という地名に思わずひかれてしまった。これが間違いかもしれない。
丹荘に行けば近所まで走るバスがあるらしい(推定)。なぜなら行こうとしている「金鑽神社」は神川町に所属しているから。そんな事はわかっていた。しかし児玉で降りてみたかったのだからしょうがない。駅前のタクシー乗り場はまったく空虚で何もない。こちらからタクシーを呼ぶのもしゃくに障るので、深呼吸でもしてから歩き出す。国道462号に沿っての一本道を。時間は8時10分であった。
9時10分。ようやくにして「御嶽山」らしい山を前方に捉え、9時20分に金鑽神社の鳥居に接する。文字にすると極めて簡潔ではあるが、歩くこと1時間、走行距離は6キロといったところ。私が歩いて「疲れたよぉ」という話を書いてもしょうがないので、さらりと金鑽神社に到着したことにする。
通りの左脇に金鑽神社の社号碑がある。その場所には小さな祠が4社。多分、これが「元森神社」だとは思うが、特定できない。あとで聞いてみることにしよう。
「金鑽神社」
(かなさな神社・式内名神大社・官幣中社・武蔵国二の宮・児玉郡神川村二宮鎮座)
主祭神:天照大神・素盞嗚尊
配祀神:日本武尊
(一説に祭神は金山彦尊ともいう。もとは製鉄の神を祀っていたものか?)
御室山を神奈備(神体山)として祀る社。このため当社は拝殿のみを設けている。景行天皇の41年、日本武尊が東征凱旋の時、おばの倭姫命(やまとひめ命)から賜った火打ち石を御霊代(みたましろ)として御室山に鎮座し、天照大神・素盞嗚尊を祀ったのが創立とされている。本殿はなく拝殿だけという官・国幣社は信濃の諏訪大社と大和の大神神社(オオミワ神社)とこの金鑽神社の3社だけの珍しいものである。
「カナサナ」というのは金砂の義であり、製鉄にちなむ地名である。近くからは鉄銅が採鉱されたことから、これを産する山を神として祀っている。付近には金屋という採掘・製鉄集団に関係している集落があり、この祭祀集団(おそらくは渡来氏族)によって祭祀されていたと思われる。
当神社は明神大社という高い格にあるが、それは付近に多くの古墳が見られ、早くから渡来系氏族によって開発が進められ(現在の児玉郡一円、奈良平安期の遺跡多し)、この地域が文化の中心地であったことを物語っている。また平安後期以降は武蔵七党の児玉党一族の崇敬を受けて強い影響力を持っていた。
武蔵国内で氷川神社とならぶ明神大社として、他の式内社よりも格が上であり、後世武蔵国二の宮と呼ばれたことからこの神社もしくは祭祀集団の力の強さが現れている。なお旧鎮座地は現在地より北東400メートルの地にある摂社元森神社の境内地という。
境内には国指定重文「多宝塔」(1534年、近隣豪族であった安保全隆建立)がある。この安保氏は御室山背後にある御嶽山(343メートル)山中に「御獄城」を築いており戦国期には武蔵上野の要として重要視されていた。そのために天文二十一年(1552)には北条氏康に攻められ、山麓の金鑽山堂宇(金鑽寺)は焼き払われたという。
また奥州征討期に源義家が当社で戦勝祈願を行ったとされており、いくつかの伝説も残されている。
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左上:御嶽山(左・343メートル)と御神山の御室嶽(右)
この御獄山を登ってしまったとか(苦笑)
上:入口の大鳥居
手前が国道462号
左:正面に見えるのが神楽殿
雨に濡れていい感じ
左下:拝殿(後方に鎮座する御室嶽を拝む)
寺院みたいな面影
下:拝殿後方の祝詞屋
本殿はなく「山」が御神体 |
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金鑽神社北東400メートルに鎮座する元森神社
金鑽神社旧社地とされている(国道沿い) |
やしろのなかの右側のやしろが元森神社。
わからなかったので神職さんに伺ってみた(笑)。 |
やはりこの瞬間がドキドキする。はるばると1時間も歩いてただ参拝する為だけにやってきた。この境内に足を踏み入れる瞬間、崇高な目的が達せられたようで、なんともいえずうれしくなってくる。
武蔵二の宮・式内名神大社にして官幣中社という格の高さを実感し、そして体感する。官幣中社という格の神社としては一番東国に位置している。関東では鎌倉宮と金鑽神社だけ。珍しくもあった。
馬鹿に疲れている。それはそうだろう。6キロ以上も歩いているのだから。でも馬鹿におもしろい。そして無意味に興奮している。
拝殿は拝殿らしくなかった。なんとなく寺院のようなおもむきを感じさせてくれるのは、参道の前に「金鑽大師」というお寺があって、この金鑽神社自体も修験を中心とした「仏教色」が強かったという過去があるからだろうか。そうはいうものの、拝殿の後ろにある「祝詞屋」をみると「神社」らしさを感じるから不思議なものでもある。
「鏡石・多宝塔」
拝殿の脇から、金鑽神社御神山の御室嶽の南に連なる御嶽山の登山道が延びている。かつてはこの御嶽山に中世期には御嶽城、近世期には法楽寺があり、大いに栄えたというが、明治維新の神仏分離により法楽寺は廃寺。いまでも山中には修験の面影をいろいろと垣間見ることが出来る。
この先に国指定天然記念物の「御獄の鏡石」というものがある。神社には関係ないけど行ってみようと思う。
軽い気持ちで歩き出したのが間違いであった約500メートルというからすぐに到着するかと思っていたが、そんなに甘くないのが山道。これまでの直線6キロの疲労も蓄積され、さらには藪蚊が襲ってきて、足元は雨上がりでところどころ滑りやすい。
そうこうして脇目もふらずに、呆然と歩く。ふと目の先に先が見えてきたので、これかなと思うも、私には崖にしかみえない。「どこが鏡だ。ばかやろう。」と思いつつも崖の土肌を眺めつつ、さらにのぼると、その崖の上が鏡石であった。上手い具合に濡れている面はたしかに鏡の様に照り輝いていた。多少はインチキのような鏡だけれども、そうでも思わないとやってられない。
鏡石は学術的には約1億年前に八王子構造線が出来たときの岩断層活動のすべり面であるという。岩の高さは4メートル、幅は約9メートル、北向き30度の傾斜。地質学的に貴重なものであるという。
伝説として中世の山城である御獄城(鏡石のある山に所在)がこの石によって目標とされてしまうことから、それを嫌い松明でいぶして赤褐色になったとか、群馬の高崎城が落城した際に、火炎を鏡の様に映しだしたともいわれており、いつのころからか「鏡石」と呼称されるようになったという。
鏡石の先にまだ道が続いている。ここまで来たからにはとりあえず頂上(343メートル)でも目指してみる。どうやら完全な登山となったらしく、道がかなり怪しくけもの道とかしていたりする。
しばらく進むと開けた空間がある。ベンチがあるのでありがたく休息することにする。この場所は弁慶穴という場所らしいが、なにがどうして弁慶なのかまではわからない。ただ石仏が無数に鎮座しており、修験の空気を感じさせてくれる。
この先は道が二手に分かれる。一手は下り道となって山をグルッとめぐる道。考えるだけで疲れそうな山の周回はさすがに遠慮したい。もう一手はとても道とは言い難く、木々の間のけもの道を峰伝いに山頂まで登る道。素直にここで引き返せばいいものを、わざわざ無用の意地をだして山頂にむけて登山などを開始してしまう。進んでしまうとひくわけにも行かず、やみくもに前進。雨の後で、道は怪しく滑り、草木は重みで頭を下げているので、道がふさがれる。
私は神社に来たはずなのに、6キロも歩いたあげくに登山までしている。そんな苦労をして山頂まできても、空は暗雲が立ちこめ、私はここに中世の山城があったのかあ、と思うだけで、隣の御神山を眺め、結局は下山するだけである。
そこでひとつ学習する。登るよりも降りるほうが大変だということを。戻り道は同じなのにますますもって滑りそうで、もう何をしているのか怪しさがあふれていて、それでいて金鑽神社を参拝していたのも私一人ならば、こんな山に入り込んだのも私一人だけ。ここで遭難したら当分気が付かないな。朝の5時まで行く場所を決めていなかったのだから、今日ここに来たのも誰も知らないし、とか思ってみたりする。そんな私もなにやらおかしかった。
金鑽神社の手前に鎮座している「大光普照寺」。
こちらも古寺である、という。 |
国指定特別天然記念物
「御嶽の鏡石」 |
国指定重要文化財「金鑽神社多宝塔」正面 |
多宝塔横、雨に濡れて、いい感じに風情が出てます。 |
山から下山して社務所で「御朱印」を貰う。そうして「金鑽神社」での用事というか、意義を果たし終える。
この金鑽神社にはもうひとつ有名なものとして国指定重要文化財「多宝塔」がある。天文3年(1534)に近隣豪族の阿保全隆が寄進したものであり、神宮寺のなごりではあるとは思うが大変貴重なものという。
参道から急な斜面で見上げるように塔が鎮座している。神社と関係あろうがなかろうが、こういう歴史的面影を感じる建築物に出会えるのがうれしい。これが歴史的でも1億年前の自然物だとなにも愛着を感じないものだけれども、500年前の人造物は、大いに歴史を物語ってくれる。
「神川から美里へ」
金鑽神社は神川町二宮に鎮座している。児玉から来るのは邪道かもしれない。同じ神川町の丹荘駅から行くべきだったのかもしれない。そうは思うも相手は「八高線」。駅なんかどうでも良く、問題は電車が殆ど来ないところにある。
実はこんな苦労をしなくても、昔は電車が走っていた。「丹荘駅」から金鑽神社の裏の「西武化学前」まで「上武鉄道」という鉄道があった。それが今もあれば幸いだが、不幸にも1973年に旅客輸送を廃止し、さらには1986年に全線が廃止になっている。かつては鉱石などを輸送していた貨物路線として、今は名前を残すのみ。金鑽神社周辺が鉱石豊かな土地であった、というのがわかるだけである。もっとも今は大型トラックが金鑽神社周辺の国道を無尽に走り回っているだけではあるが。
あとはまたまた歩いて戻るだけ。丹荘駅の周辺は式内論社が多く、本来なら行かなくていけないところだけれども、多すぎるのでまた後日。今はイスに座って電車を待つだけ。10時20分過ぎに金鑽神社を出発して11時30分ぐらいに駅にへたりこむ。あいかわらず1時間を歩いた苦労が文章には垣間見られないところがおもしろくないが、さらりと歩いたことにする。
JR児玉駅
国鉄時代の古風な造りをしています。 |
JR松久駅
こちらは不思議な無人小屋。面積の左半分がトイレです。 |
八高線に乗る。12時06分に出発して松久駅12時17分着。松久駅は不思議であった。駅と言うよりもたちの悪いモニュメント。綺麗で新品なのは結構だが、無意味な形をしていた。
ここからまた歩く。6キロの金鑽神社往復の後は、ミカ神社まで2キロの往復。途中で道が怪しくなったので人に尋ねると「ミカ神社! あそこまで歩いていくの??」と不思議がられた。すでに歩きまくっているので2キロ往復ぐらいは軽いもの、たんぼのまんなかのあぜ道を歩くような地元ならではの「近道」を教わる。
前方に「らしい」気配を感じる。独特の社叢ともいうべき感覚。最近の傾向として、神社の気配を読みとることが出来たのが自分でも驚き。こうして、あそこにあるはずだ、と気配を感じることが出来る。
「ミカ神社」
(式内小社・県社・児玉郡美里町広木鎮座)(ミカと漢字で書くとこんな風)
祭神:櫛御気野命(クシミケヌ命)・櫛ミカ玉命(クシミカタマ命)
創立年代は不詳ではあるが延喜式に記載されている古社。。同所は武蔵七党猪俣党の発祥地とされる。社名の「ミカ」とは酒をかもすのに用いた大型の甕のことで、当社に御神宝とされていた土師器が4個保存されている。
現在の社殿は宝暦13年(1763)に再建したものという。
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左上:ミカ神社社叢
神社の気配を感じさせてくれる森
上:ミカ神社社号標
国道140号線(秩父往還)に面しています
左:鳥居
これでもかというぐらいに車止め
左下:拝殿
鳥居の先、左側に鎮座
下:本殿
修復工事中かな |
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境内は普通の村の鎮守様程度。そんなには広くない。付近には摩訶池という神池や大小177基に及ぶ古墳、縄文期から平安期の住居や集落の跡、祭祀遺跡等があり古くから拓けていた事がわかる。これは武蔵北西部が東国の中心地であった上毛野国(上野国)の南部に位置し、その文化的影響下にあったことからと思われる。現にこの地域は「延喜式内社」とされる古社が点在しており、参拝する方からしてみれば大変だったりもする。
池があり、たんぼが広がる。池の南方に「神社」が鎮座し、周辺は古墳が点在。歴史的味わいが地味ながらに濃厚に残されている。こんな土地が大好きなのだけれども、帰りの電車の時間も心配だし、徒歩という機動力のなさも身にしみている。今はただ、この上代の気配を感じさせる風土を噛みしめながら、次へと歩むだけである。
目的は「式内社巡り」。その目的は果たした。あとは、また再訪を帰せばよいのではないか。中央的でない地方の風土、武蔵と上野の風土が色濃く混じり合った児玉郡を立ち去ることとする。
児玉郡。意外とみどころがあり、駆け足が惜しい。今度は車でゆっくりと散策したくなる、そんな土地であった。
「寄居」
私の中ではすっかり同じみな寄居まで戻ってくる。松久駅を14時08分に出発して八高線で14時17分に到着。このまま乗れば家に帰れる「東武東上線」が停車しているが、ここでまだひとつだけ目的が残っている。
以前寄居に言及していたりする。面倒なのでそのまま引用。(武蔵の古社を想う・埼玉県西部編)
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もともとは荒川を挟んだ「鉢形城」とともに発展してきた町である。「鉢形城」は北武蔵地方最大級の平山城で秩父方面と上州との交通の要衝をしめる城。平将門や畠山重忠が砦として利用し、山内上杉家が城として整備。戦国期に小田原北条氏の北条氏邦が本格的な城、北関東の要衝として拠点を築いたが、秀吉の小田原北条氏攻めにより三ヶ月の攻防の末、降伏し以後廃城となった。現在は、水堀や空堀や土塁が残っているのみという。最初は「鉢形城趾」に行こうかと思ったが、今書いた通り、堀や塁しかなく、私としてもそれを見物するほどには暇ではない。
現在、寄居町のある地域は「大里郡」と呼ばれている。しかし明治以前の寄居町の地域は「武蔵国男衾郡」と呼ばれていた。東武東上線にはこの「男衾」の名を冠する駅がある。ゆえにその駅に行ってみようと思う。もっともこの「男衾(おぶすま)郡」には延喜式神明帳に所載されている神社が三社あり、そのうちの二社が東武東上線「男衾駅」から歩いていける距離にあるという理由ではある。
ひとつは鉢形城の近くにある「稲乃比売神社」。そして残りがこれから行こうと思っている「男衾駅」周辺にある「出雲乃伊波比神社」「小被神社」という二社。田舎の誰も知らない様な神社に大まじめに行こうとしているのがなにやらおかしかった。
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そんなわけで、以前男衾郡の「出雲乃伊波比神社」「小被神社」は参拝した。あのころは無知でいまいち記憶に残っていないが、参拝したことになっている。そこで男衾郡の残された一社「稲乃比売神社」とついでに「鉢形城趾」を散策してみようかなと思う。そう考えるあたりがどうもよほど暇なのかもしれないが、あのころとは違い「崇高な目的」(武蔵国式内社参拝)を掲げてしまったので致し方がない。
「稲乃比売神社」
(式内小社・埼玉県大里郡寄居町鉢形鎮座)
祭神:稲乃比売命・素盞嗚命・稲田姫命・大己貴命・少彦名命
古くは氷川神社と称していたという。天正18年に鉢形城が落城した際(秀吉の小田原攻め)、兵火にかかって社殿および小記録を焼失してしまったという。それ以外の詳細は不明。
寄居駅から2キロほど歩いたところに鎮座。位置的には寄居駅と折原駅を結ぶ道路の中間あたり。ちょっと嶽わかりにくい所に鎮座。地図がないと到達は難しいだろう。もっとも到達が難しいのはどこの神社も同じで、私は埼玉の詳細な地図を持って参拝をしている。
神社には説明板もなければ、手水舎のようなものもない。あるのは「稲乃比売神社」と彫られた社号標と鳥居と覆殿のみ。同じ男衾郡の「小被神社」と同じような雰囲気ではあるが、こちらの方がなお痛痛しい。どうにも、接したとたんに疲れてしまう。ただ覆殿は格子状で、なかの本殿が覗けたことが、唯一の救いではあった。
あとは鉢形城まで戻って、そこで終わりにしようかと思う。
「鉢形城趾」
もう上記であらかたの鉢形城の由来は記してしまってもいる。鉢形城は、北条氏邦の歴史的イメージが強い。特に私なんかは「北条氏」が好きだったりするので、なおさらのことである。
鉢形城は荒川に臨んだ絶崖の地に位置し、天然の要害をなしていた平山城。文明8年(1476)に長尾景春が城として築城し、以来、関東管領上杉氏の持城として栄えた。
室町末期に上杉氏の家老職にあった藤田康邦が北条氏康の三男である氏邦を養子として受け入れ。以来、北条氏邦が城主として北武蔵かた上野を管轄し、小田原北条氏と密接な関係となった。
天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原北条氏攻めにより、前田利家・上杉景勝・本多忠勝・真田昌幸らそうそうたる武将を迎えて、北条氏邦は鉢形城で応戦。約三ヶ月の攻防の末、降伏し以後廃城となった。
現在は城址公園として整備される一方で、埼玉県農林総合研究センターの林業見本林として樹木の植栽等が行われている。
べつに鉢形城に特別なことがあるわけでない。城址公園ではあれど、そこには誰もいない。城跡にある休憩所で、荷物を置いて休む。眼下に広がる荒川では渓流釣りでもしているのだろう。幾人もの人が川の中で竿をふっている。そんな長閑な光景を眺めつつ、心地よい風を疲れ切った身体で受ける。
あとは八高線で高麗川−川越を経由して帰るだけ。寄居から東武線を使わずに川越までは、なんとかがんばろうと思う。
私はもう疲れた。それは25キロも歩けば誰だって疲れる。特別に体を鍛えているわけではなく、日常の延長のままに普通に歩いただけなのだから。
筆も鈍い。書くべきものばかりをためて、伊勢編も投げ捨てているのだから、気が重い。
それだけのこと。こうしてすこしづつ、武蔵国の延喜式内社を参拝していくだけ。
参考文献
角川日本地名大辞典・埼玉県
各、説明看板など。
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