「関東鉄道常総線沿線の神社」<平成18年1月参拝 3月掲載>
「一言主神社」/「大宝八幡神社」/「宗任神社」
1月のある日。関東地方に雪が降った。
せっかくだから雪の写真が撮りたくなった私は、関東鉄道常総線におもむく。
あいかわらず鉄道趣味をしながらの神社詣で。
関東鉄道の写真はこちらにて
「一言主神社」
(茨城県水海道市大塚戸町鎮座・三竹山一事主神社・朱印)
祭神:一言主神(=事代主神)
大同4年(809)11月、今の社殿のある辺りにあやしい光が現れ、雪の中から忽然とタケノコが現れ、一本が3つに枝分かれした「三岐の竹」となった。
冬の時期に余りにも不思議なことが起きたため、村人達はにわかにお祓いをして湯立て神事を行い占うと「我は大和国葛城山に居る一言主大神なり。今、東国の万民の災禍を救わんが為に来れるなり。即ちこの三岐の竹を以て永く契とせよ」と託宣せられたという。
村人はこれに驚き、社殿を建立して一言主神を祀ったことが創建という。
現在の本殿は長禄3年(1459)に、崇敬の篤かった平将門の後裔たる守谷城主相馬胤広の再建。元禄13年(1700年)に大修理が行われたと記録されている。
拝殿は慶応3年(1867)竣工。かつては楼門も備えていたが天文19年(1590)に兵乱によって焼失。
一言主神社 |
正面 |
雪積もる鳥居 |
参道 |
拝殿 |
拝殿 |
本殿と御神木 |
霊竹殿には伝承に基づく「三岐の竹」が祀られている |
関東鉄道常総線・水海道駅。この駅から北側と南側で、鉄道の輸送本数が大きく変わる、いわば沿線の中心駅でもある。
そんな水海道駅から約10キロ西側に鎮座。鬼怒川と利根川に挟まれた台地に鎮座している。
なんとなく水海道に来て、幾枚か鉄道の写真を撮って、そういえば一言主神社があったなあ、でいくことにした。
もっとも駅からの交通手段はない。レンタサイクルがあるが、雪道では無謀だろう。でも行きたくなった。しょうがないからタクシーに乗り込んでみる。
往復で約5000円かかりましたが。
それでも神社におもむく、この熱意はなんでしょうか?
雪道をすすめば、そこに神社がある。雪かきもされているが、まだまだ積もりたてな午前10時の参拝。
木々に積もった雪が溶けて、雨のように降りかかってくるが、あまり気にならない。カメラが濡れるのは心配だったが。
伝承では雪の日にタケノコが生えたことからはじまるらしい。そんなわけで、奇しくも雪の日に訪れた私はなんとなく嬉しくなる。
雪に彩られた神社は神々しく、そして空気が非常に奇麗であった。
さて、帰るというのに、かえる手段がないので、タクシーで水海道駅まで戻るわけだが、呼び寄せたタクシーが往復で同じ運転手だったりもする。まあ、雪の日に参拝する人は珍しいけど、時々「一言主神社」にタクシーでお客を運んでいるらしく、運転手さんは「あの神社になにかあるのですか?」と不思議そうでもある。まあ私はただの神社好きだが、真面目に信仰を抱いている人もいるわけで、そこはそれぞれ。私は埼玉からわざわざ雪の日に茨城の神社に訪れた奇特な人というわけである。鉄道を撮りに来たことを秘密にしたら・・・。
「大宝八幡宮」(大寶八幡宮・下妻宮・大宝八幡神社・旧県社・国重要文化財の本殿・国史跡の大宝城(下妻城)跡・関東最古の八幡宮ともいう)
(茨城県下妻市大宝鎮座・朱印)
祭神:
誉田別命(応神天皇)・足仲彦命(仲哀天皇)・気長足姫命(神功皇后)
創建は大宝元年(701)に藤原時忠が常陸国に下向した際に宇佐八幡を勧請して創建したとされている。神域が大宝城の地内でもあることから中世期に下妻氏等が城鎮守として八幡神を奉斎。
文治5年(1189)、奥州征伐平定に際して、源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮若宮を勧請し摂社若宮八幡宮を創建。
天正3年(1575)に本殿は焼失し、天正5年(1577)に下妻城主であった多賀谷尊経が再建。現存する本殿は当時のものであり国重要文化財に指定されている。
境内周辺は大宝城跡として国指定史跡となっている。
平安期から南北朝期にあった城である大宝城は、湿地帯のなかの高台に増築された要害の地であった。
下妻政泰(下妻氏第4代)は興国2年(1341)に護良親王の子であった興良親王を奉じて小田城(南朝方の小田治久が北朝に降伏したため)よりここに移ってきた春日中将顕国らを城に迎えいれる。北方2.5キロの関城に拠る関宗祐・宗政父子や北畠親房と呼応して、東国の南朝方中心地として大宝城−関城は機能し、双方の城は舟で行き来できたという。
しかし、北朝方の高師冬の大軍が押し寄せ、大宝城−関城は大軍を相手に2年余りの激しい攻防戦を演じるが、食料不足・城内不和となり大宝城は興国4年(康永2年・1343)11月12日落城。下妻政泰は自刃。春日中将顕国はなんとか脱出する。一方で関城は北畠親房を逃がし、11月11日に落城しており関宗祐父子は戦死。
その後、大宝城落城翌年の興国5年3月に散兵を集めた春日中将顕国は大宝城を奇襲し奪え返すも、北朝の反撃にあい顕国は捕縛されて斬殺、京都に首が晒されたという。
そののちの大宝城は復活されず、大宝八幡宮の境内として今に残る。
大宝城の下妻氏が滅亡したのちは、この辺りは多賀谷氏の支配となり、桃山期には多賀谷尊経が本殿を再建している。
明治39年に県社列格。
なお当社から、東京深川の富岡八幡宮等が勧請されている。
大宝八幡宮・正面 |
参道 |
神門 |
参道 |
拝殿 |
本殿(国重文) |
本殿 |
本殿裏の下妻政泰公の碑 |
祖霊殿(旧・大宝寺護摩堂) |
頼朝勧請の若宮八幡神社は本殿の左脇 |
関東鉄道常総線・大宝駅。駅前100メートル北東に鎮座している。線路ぎわの高台。この高台に大宝城があったわけであり、2.5キロ北側に関城があったわけである。この間はかつては沼であったが、いまは見事な水田地帯。奇しくも鉄道を撮るにも最適なポイントであったりもする。
そんなわけで鉄道写真を撮るためでもあるが、それよりも神社におもむくために降りた感が非常に強い。大宝城にいったならば、関城にもいきたくなるわけだが、まあそれは近い将来の話と言うこと。
かなり規模の大きな神社。ローカル線の沿線にこれほどの規模の神社があることに正直に驚きを感じる。もっとも雪の日だから参拝客はこの日は、そんなにいるわけではないが、普段は賑わっていそうな気配。
城跡でもあり、そして南朝ゆかりの神社でもあり、私はかなりワクワクしていた。やはり南朝ゆかりの神社を訪れるのが好きだ。
樹木が鬱蒼と繁り、雪が白さを照らし、そして晴れ渡った空が青い。
居心地の良い神社で、長居をしたくなったが、鉄道を撮らねばいけない時間が迫ってくる。このあたりは一時間に1本のローカル区間だから撮る人間は大変なのだ。
また来たい、今度はゆっくりとしたいなぁ、とおもわせる良い神社であった。
「宗任神社」(むねとう神社・宗道<そうどう>神社)
(茨城県茨城県結城郡千代川村本宗道鎮座)
祭神:阿部宗任・阿部貞任
当社は、陸奥の前九年の役(1051−61)で源頼義の軍勢に敗れた阿部宗任らを祀った神社。
天仁2年(1109)、阿部氏の旧臣であった松本七郎秀則・息八郎秀元父子が亡君宗任公の神託により旧臣二十余名と共に宗任公着用の青龍の甲胄・遺物を奉じて奥羽の鳥海山の麓から当地(旧黒の里)に来往して鎮祭。
当地に鎮座するにあたって宗任公の霊は、「天の道、人の道を行くを宗とする意味で宗道と地名を改めれば、人はすこやかに、地は栄えるようになるであろう」と告げたとされ、以来この地は宗道となった。
鎌倉時代は、豊田三十三郷・幸嶋十二郷の総社。周辺豪族である小田氏治・豊田将基らが崇敬。
江戸時代は三代将軍家光公より代々の崇敬があり、朱印地五石を与えられる。本殿拝殿は寛永年間に家光公より寄進されている。
明治6年4月1日村社に列格。同12年村内大火のため類焼。同17年再建造営。
関東鉄道常総線・宗道駅。宗任神社という神社があるのでいってみた。宗任といえば阿部氏を思い出すが、もちろん阿部宗任は奥州の豪族。どうして下総国結城郡に、宗任という名の神社があるのか気になったので、行きたくなった次第。
宗道駅から500メートルほど北に歩けば、そこに神社が鎮座していた。阿部宗任をまつる神社であれど、黙って参拝していれば、そのようなことは気にならない。普通に地域鎮守様。ただその神社の歴史がちょっとだけ独特で、そこに意外性があるだけのこと。
なかなかに興味深い体験ができたと思う。
参考
角川日本地名辞典・茨城県
各神社由緒案内等
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