神社紀行〜全国編
神社紀行〜武蔵国編
武蔵国延喜式内社
神社御朱印
記紀神話の神様
神社つれづれ
靖國神社を想ふ
かみちゅ!舞台探訪参詣記
武蔵調布の神社歳時記
下総銚子の神社歳時記
 
掲載社一覧
神社所在地図一覧
掲示板
りんく集
 
Google

WWW を検索
サイト内検索

−表紙に戻る−

「鹿島鉄道沿線の神社」<平成18年3月>


常陸・鉾田ノ氷川神社」/「鉾田ノ鉾神社」/「八木蒔ノ八幡神社」/「於岐都説神社」/「耳守神社



私は武蔵埼玉に居住している。
そんな埼玉の神社といえば、氷川神社が有名。
もともと氷川神社は関東平野の元荒川以西・多摩川以北の埼玉東京地区に集中しており、そのほかの地域には殆ど鎮座していない神社でもある。

そんな氷川神社が茨城県に二社存在している。一社は茨城県岩井市。そしてもう一社が鉾田市。

私はローカル鉄道が大好きな人間。鉾田と言えば「鹿島鉄道」。そんなわけで鉾田に行くのであれば、せっかくだから氷川神社にも行っておこうと思った次第。

鹿島鉄道 鹿島鉄道
鹿島鉄道 ちなみに鹿島鉄道はこんな感じ。
鉄道写真系は「ぶろぐ」にて

そんなわけで私のブログでは「かしてつ」が掲載されてたりもするけど、ここは「かしてつ」とはなれて神社を掲載。


「鉾田ノ氷川神社」
(茨城県鉾田市<旧・鉾田町>烟田<かまた>鎮座)

当地は烟田城跡地である。
平安時代末期に大掾氏一族であった鹿島成幹は長子親幹を徳宿に配して徳宿氏を成立。
鎌倉時代初めに徳宿氏二代目秀幹の次男朝秀が烟田村他を譲り受け烟田氏が成立。
その後、鹿島氏配下として烟田氏は約360年間にわたり鹿島郡北部の豪族として君臨。
しかし第18代烟田通幹が天正19年(1591)に佐竹義宣に常陸太田で謀殺(佐竹義宣は霞ヶ浦周辺の大掾氏系の諸豪族を招いて一挙に謀殺した)され、烟田城は佐竹氏に攻められて落城。
烟田城は廃城となり、江戸時代に旗本渡辺氏が領主となると、氷川神社を勧請。
明治22年に新宮尋常小学校の敷地となり、昭和8年に烟田城跡として残っていた土塁や堀を埋めて校舍増築。

現在は小学校改築の諸工事にともない、烟田氏時代の本丸跡は氷川神社裏のわずかな土塁と堀を残すのみ。その氷川神社も小学校の校庭片隅に鎮座している。

鉾田ノ氷川神社
鉾田ノ氷川神社。校庭の片隅に鎮座
鉾田ノ氷川神社
こじんまりとした社殿
鉾田ノ氷川神社
鳥居の向こうは校庭です
鉾田ノ氷川神社
本殿。本殿後方に土塁が残る
鉾田ノ氷川神社
烟田城土塁の向こうに社殿がある
茨城県にも氷川神社がある。
といっても茨城県内には2社しかないのだが。

鹿島鉄道鉾田駅から1.5キロ南西。鹿島臨海鉄道新鉾田駅からは500メートル南西。鎮座地は烟田集落の高台。新宮小学校の敷地内とも言うべき場所に鎮座している。もともとは神社が先のはずではあるのだが。

この日は鹿島鉄道鉾田駅で自転車を借りて、一気に烟田地区まで走行。新宮小学校はすぐにわかったが、神社がわからなかった。小学校の脇に「烟田城跡」の案内看板があり、目をやれば「氷川神社」の文字がある。あれれと思って、土塁をみれば、その向こうに神社社殿があった。
しかし、入口はどこだろう。
どうみても社殿は小学校のなかだったので、開放されていた小学校の校庭に侵入してみれば、鳥居が校庭の片隅にあった。いろいろな神社を訪れている私ではあるが、新鮮なものを感じてしまった。神社と小学校が同居し、校庭では小学生の野球チームが練習などをしていたりする。ときどきそれたボールが神社までころがって、私の足元に来たりする。ちょっと気合をいれてボールを返してあげたりと、なかなか、神社詣でではありえない体験をして、心も晴れやかになる。
埼玉の人間として、行きたかった神社でもある、茨城の氷川神社。
結構、良い気配の神社でありました。


「鉾神社」     
(茨城県鉾田市鉾田鎮座)

祭神;日本武尊命(右座)・大巳貴命(大国主命・主座)・武甕槌命(左座)

由緒由来等は不明。
天正4年(1576)に鉾田城主・田山市正が奉斎したことにはじまるともいう。
余事ではあるが鉾田を預かっていた田山氏は天正14年(1586)に鹿島氏の内紛で戦死し鉾田城を奪われている。天正19年に佐竹義宣が霞ヶ浦周辺の豪族(鹿島・烟田・玉造・行方・手賀・島崎諸氏)を謀殺し鉾田も佐竹氏の支配地になったが、関ヶ原役後に佐竹氏は秋田転封。近世期の鉾田は旗本領であった。

祭礼としては鉾田夏祭りが有名。約400年の歴史を持ち、夏祭大祭は毎年8月26、27、28日の3日間行われており、山車、獅子舞、御輿などが練り歩く。

鉾神社
鉾神社正面
鉾神社
参道
鉾神社
拝殿
鉾神社
本殿

鹿島鉄道鉾田駅の東200メートル。社殿は東面している。鹿島鉄道にはしょっちゅう乗りに来ているし、鉾田駅にもしょっちゅう来ているのだが、鉾神社に来たのははじめてであった。神社にいくという目的で電車に乗るようになってから、いろいろな所に訪問はしているが、そう言う意味では鉾田は久しぶりではあるが、新鮮であった。
駅前の商店街や駅前のコンビニも店を閉めていたりして、なかなか鹿島鉄道を取り巻く状況はかんばしくはないのだが、それでも私はこの路線が走っている限り足繁く鹿島鉄道に通うことになるだろう。
鉾神社はイメージしていたよりも大きな神社であった。境内は奇麗に整えられており。拝殿も存在感がある。本殿は、どこか賑やかな拝殿に比べて、落ち着きの薄朱色で「鉾」というイメージ的ないかつさもなく、ほほえましい神社であった。


八木蒔ノ八幡神社
(茨城県行方市<旧・玉造町八木蒔>鎮座)

祭神:誉田別命(応神天皇)

源頼朝が鹿島神宮に寄進した橘郷内に鎮座する神社。頼朝が八木蒔・倉数・羽生・沖洲の鎮祭と定め、明治六年新治県の前記四か村の村社となる。
現在の八木蒔地区の鎮守。
本殿は南向き。三間社流造の本殿は、間口2.5間、奥行き3.5間、75坪。
延宝二年(1674)の建立という。

八木蒔ノ八幡神社
八木蒔ノ八幡神社
八木蒔ノ八幡神社
拝殿
八木蒔ノ八幡神社
本殿
八木蒔ノ八幡神社
境内

鹿島鉄道八木蒔駅の北側約500メートルの地に鎮座している。参道はかなり長く、そして一直線。鬱蒼としげる樹木の先にわずかに光が見え、そこに社殿がある。遠目で見ると拝殿の屋根と本殿の屋根がかさなり、その姿が美しかった。雨が降ったわけでもないけれども、境内は湿り気があり、なにやらそれが自然が潤っているかのような居心地の良さを感じる。
ローカル線に乗りに来て、一時間に一本の電車を撮影して、そして合間を見て神社を参拝するという、慌ただしいような、それでいて呑気な時間の過ごし方。最近は、鉄道趣味と神社参拝のバランスも絶妙な感覚で、私は満足していたりする。
のんびりと、ゆっくりと。そんな空気を楽しむ。


於岐都説神社(於岐都設神社)
(茨城県行方市玉造町沖洲鎮座)

祭神:不明
由緒:不明

延喜式外(三代実録)の官社という(境内石碑より)。
もっとも一般的には「息栖神社」が於岐都説神であろうとされている。いずれにせよ霞ヶ浦に面した地に鎮座する当社は息栖神社と縁が深いであろうと推測できる。

於岐都説神社
於岐都説神社
於岐都説神社
於岐都説神社
於岐都説神社
於岐都説神社

三昧塚古墳
すぐ近くの三昧塚古墳は「沖洲古墳群」の中心であり
霞ヶ浦沿岸地域で群を抜く規模。
そうかんがえると「於岐都説神社」もかなりの古社かもしれない

鹿島鉄道桃浦駅より北西に約800M。小川高校下駅からは約1キロ南東。霞ヶ浦北浦の最北部に鎮座している。
鹿島鉄道にのっていると毎回気になるのでいってみたら・・・式外社と書いてある石碑があってかなりびびったのが正直なところ。行ったことはないけど「息栖神社」が式外社・於岐都説神ろされており、当社はそれに連なる神社なのかな?と空想しつつ、交通量のある道路と、のんびりぼうようと広がる霞ヶ浦、しずかに運命を見定める鹿島鉄道をながめながらの参拝。


耳守神社(耳の神さま)
(茨城県小美玉市玉里鎮座)

常陸大豫氏第三代の大豫繁盛(平国香の直孫)の五男・飯塚五郎左衛門兼忠の娘であった千代姫が幼少より耳が聞こえず困惑した両親が熊野権現に耳が治るように祈願し、その祈願が満願を迎えた朝に千代姫の耳が聞こえるようになったという。
千代姫が33歳の厄年になった際、不治の病にかかり、最後に千代姫は両親に「我なき後に社を建立すれば耳の病を守護せん」と遺言。両親が千代姫愛用の鏡を御神体として当地に「耳守」の社を建立したことにはじまる。
1590年(天正18)に佐竹氏の軍勢に攻められ大豫氏は滅亡。同族飯塚氏も滅び、耳守の祭祀が途絶えてしまった。その後、地元民の手によって祭祀が営まれて現在に至る。

耳守神社 耳守神社
耳守神社 耳守神社

鹿島鉄道四箇村駅から徒歩10分ほど。約800メートルほどを北側に道なりにあるくと到着する。新高浜駅から歩いてもさほどに距離はかわらない。
ちょっとした丘の中に鎮座。非常に静かな神社は、その御神徳ゆえか、耳に心地よいのかもしれない環境。耳の神さま、というのは珍しいのだろう。マイナーな神社であれど、各地から参拝者が訪れている気配があった。


参考
角川日本地名辞典・茨城県
各神社由緒案内等


−表紙に戻る−