神社紀行〜全国編
神社紀行〜武蔵国編
武蔵国延喜式内社
神社御朱印
記紀神話の神様
神社つれづれ
靖國神社を想ふ
かみちゅ!舞台探訪参詣記
武蔵調布の神社歳時記
下総銚子の神社歳時記
 
掲載社一覧
神社所在地図一覧
掲示板
りんく集
 
Google

WWW を検索
サイト内検索

−表紙に戻る−



「橿原神宮」(官幣大社)

主祭神:
神武天皇
媛蹈鞴五十鈴媛皇后(ひめたたらいすずひめ)

由緒
神武天皇は天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)より四代目に当たり、第一代の天皇の位にお就きになられました。古くは神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)と申し上げます。皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命は大物主命(おおものぬしのみこと)の御娘に当たる方です。

神武天皇は、天壌無窮の神勅を承け、天業をおし広めんとして、九州日向国の高千穂の宮から東遷の壮途に就かれました。そして国内を統一せられ、畝傍山の東南・橿原の地に皇居を営んで、即位の礼を行わせられました。明治の時代になり、天皇の御聖徳を景仰して、この橿原宮跡に神宮創建の誓願が民間有志から起こりました。明治天皇には、これを深く嘉せられ、御聖慮により元京都御所の賢所と神嘉殿を本殿と拝殿として下賜され、明治二十三年四月二日官幣大社・橿原神宮として御鎮座になりました。

神武天皇の御聖業は、天照大神の御神勅に基づいて天業をおし広めんとする思し召しに出たものです。神武天皇は豊葦原の瑞穂の国の中心として帝都をお定めになり、民のために正しい政治を行い、これによって四方八方はるか遠くの国々までも天皇の御威光を及ぼし「八紘を覆い掩い宇とせむ」との理想を実現されるためです。

以上は橿原神宮庁発行の略記抜粋。

本殿は安政二年建造の元京都御所賢所、神楽殿も創建時下賜でともに国重文。文華殿は織田家旧柳本藩邸の大書院・玄関等を移築したもので国重文。


「裏参道の鳥居」

「外拝殿と畝傍山」

「南神門」

「内拝殿」

「鎮魂碑」

「瑞鶴鎮魂碑」

まずはともあれ拝殿に向かう。実は神宮内ではまだ一枚も写真を撮っていなかった。まずは神様を拝してからでなくては失礼であろう。どうも境内は巫女さん、神主さんがあふれているようでやけに目にする。さすがにここまでくれば参拝客も平日の靖國神社ほどにはいるようでまずは安心。
鳥居をくぐると右手に南神門が見えてくる。門の横には「神武建国二千六百六十一年」と書かれた札が出ており、思わずにやつく。そういえば皇紀二千六百六十一年の紀元節は靖國神社に参拝したなあ、と思わず思い出す。門をすぎると、目の前は悠久の広場が広がり、さらに左手には拝殿・本殿、さらには畝傍山がすぐ目の前にあらわれる。
気持があらわれるかのようにすっきりとし、駆け出したくなってくる。しかし、私はことさらにぎくしゃくとする。外拝殿横でお守りを買う。そこの巫女さんは私の一連の行動を見ていた人でもあるが、信心深い人とみたか、それとも愛国的な趣味者とみたかは謎ではある。しばし拝殿にて時を過ごす。

ひとまず、橿原神宮の中心部から離れる。来た方とは逆の北神門から出る。道は知らないが、私の直感があるものを捜して歩き始める。こちらは裏口みたいなもので、表とは違いより一層うっすらと木々が茂っている。これも紀元二千六百年記念事業で植えられたものかなと想いながら、歩く。ふと右端に私が求めていた答を導く矢印が立っている。迷わず、そちらに進む。目の前がぱっと淡い緑色になる。さわやかな庭園が広がり、一瞬「ここか?」と疑ってしまう。しかし右端に違和感を感じる。正面に立ち、魂が揺さぶられる。日本人として同じ血をうけた私の魂が…。中央に「日章旗」両隣には「第十三期海軍甲種飛行予科練習生殉国之碑」と「航空母艦瑞鶴之碑」そして「若月・初月・秋月・第六〇一海軍航空隊、瑞鶴とゆかり深き諸霊の鎮魂之碑」などが立ち並ぶ一角であった。鎮魂の一角の後ろの方の芝生のではご老体がわいわいがやがやと騒いでる。ご老体ゆえに私は遠慮したかったが、まあ大丈夫だろう。まず一拝して敷地に入る。正面の日章旗に一拝。そして各石碑に一拝して回る。私のあいまいな記憶と推測では、瑞鶴の御神体はきっと橿原神宮から戴いているのだろう。勉強不足ですね。これは。海軍史専攻としてはずかしいです。

とにもかくにも英霊の御霊に陳謝し、一拝して立ち去る。私の姿がご老体にいかように映っただろうかは、想像するしかない。

悠久の時間を過ごし、心が豊かになった気がする。心残りは大いにある。橿原は魅力あり、歴史あり、そして遺跡がある街である。史学専攻としては、みてもみてもみたりるものではない。後日、朝からレンタサイクルで、橿原を散策しまくってやると心に誓い立ち去ることとする。三度頭を下げながら…。

<もともとの文章を修正してあります・・・>

−表紙に戻る−