下総の神社探訪 平成17年8月参拝/平成21年2月記
『小御門神社』(別格官弊社)
『香取神宮』(官幣大社)
『側高神社』(県社・香取神宮境外第一摂社) / 『香取神宮 津宮』 / 『大戸神社』(県社・香取神宮境外第一末社)
『佐原ノ八坂神社』 / 『佐原ノ諏訪神社』(郷社)
付記:『鹿島神宮』(官幣大社)
当サイトでは平成13年に一度、鹿島香取には詣でていた。
このときはあれから4年。そうして今書いているときは8年の歳月がたとうとしていた。
4年前の参拝データをようやく重い腰をあげて記載していく。
8年前のデータはいまでは不親切すぎて、そして私も若すぎて扱いが難しい。
今回は再訪神社も含めて記事と写真の刷新を図る事とする。
始発電車に揺られて、7時45分。成田線滑河駅に到着。目的の神社はそこから南に2.5キロもあった。
『小御門神社』(別格官弊社)<千葉県成田市名古屋鎮座(千葉県香取郡下総町名古屋)>
こみかど神社
御祭神:贈太政大臣 藤原師賢(もろかた)公 (花山院・内大臣藤原師信の子)
後醍醐天皇の側近。元弘元年(1331)に弾正尹を兼ね大納言に任ぜられる。後醍醐天皇が鎌倉幕府北条高時を討ち滅ぼそうとはかったさいに、花山院藤原師賢は後醍醐天皇の御衣を賜り天皇を擬して比叡山の衆徒と挙兵。後醍醐天皇の身代わりとして比叡山山上に仮皇居を打ち立て鎌倉軍を坂本で撃破するも、比叡山衆徒に後醍醐天皇ではない身代わりである事がばれ内部分裂、軍勢は離散してしまい、師賢公は後醍醐天皇と合流。後醍醐天皇は笠置山で挙兵するもあえなく敗退。師賢公は再起をはかって京都潜伏中に捕らえられ、元弘2年(1332)に下総国に配流。流さてほどなく32歳で薨去。
翌年、元弘3年(1333)に隠岐島に流されていた後醍醐天皇が凱旋し、鎌倉幕府は崩壊。流配地でなくなった師賢公を痛く悲しみ、太政大臣を贈り文貞公の諡号を与えられた。
明治10年(1877)地元民が師賢公の墓所のあった当地に社殿建築をはかり、明治15年に「小御門神社」として竣功。別格官弊社となる。
小御門神社公式サイト http://www.asahi-net.or.jp/~jg8m-yty/
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左:成田線 滑河駅にて |
一の鳥居 |
境内入り口 |
境内 |
境内 |
拝殿 |
本殿 |
滑河駅の南2.5キロ。途中、ゴルフ場をぬけて、アップダウンのある道を延々と歩く。真夏の8月14日の朝8時になんの因果かわからないが、日差しと戦いながら神社を目指す。
8時15分。
そうして30分ほどあるいたら、ようやくに神社に到達。すでに私は力尽きていた。
神社境内はすがすがしい光につつまれ開放感がある。とてもよく整えられていて気持ちよい。ところが私の観察力に余裕がなく、本殿の後ろにあるという墓塚をみそこねていたようだ。まったくもって悔しい次第。
そうしてまた30分かけて駅まで戻って、9時過ぎ。
真夏にこの手の駅から距離のある神社にあまり行くものではないなあ、と痛感しつつ往復1時間の道のりを終える。
次は佐原駅に向かう事にしよう。
『香取神宮』 (延喜式内名神大社・官幣大社・下総一の宮・勅祭社・国重文)<香取市香取鎮座>
<前回掲載ページはこちら>
祭神:経津主神(ふつぬしのみこと) またの名を伊波比主命(いはひぬしのみこと・斎主)ともいう
相殿:比売神・武甕槌大神(鹿島神)・天児屋根命(春日大社同祭神)
経津主大神は天照大神の御神勅を奉じて鹿島の武甕槌大神とともに国家建設の基を開かれ国土開拓の大業を果たされた建国の大功神。
御神徳は国家鎮護・国運開発の神、民業指導の神、武徳の祖神として広く仰がれている。
利根川の河口付近に北の鹿島、南の香取でもって水郷地帯に鎮座し、東国古代史の中心をになった神社。
御創祀は神武天皇18年と伝えられられる古社。延喜式内では名神大社。下総国一の宮にして東国随一の大社。
朝廷のみならず東国武士の崇敬篤く、江戸時代には武技を磨く武道家・兵法家の崇敬が特に篤かった。
明治4年(1871)官幣大社に列格。その後、勅祭社になった。
現在の御社殿は徳川五代将軍綱吉による元禄13年(1700)の御造営であり国指定重要文化財。
<香取神宮・要石>
古伝によればその昔、鹿島香取の二柱の大神は天照大神の大命を受け、葦原中国を平定し、香取ヶ浦付近に至った。
しかし、この地方はなおただよえる国であり、地震が頻発し、人々はいたく恐れていた。これは地中に大きな鯰魚(なまず)が住みつき、荒さわいでいると言われていた。大神たちは地中に深く石棒をさし込み、鯰魚の頭尾を押さえ地震を鎮めたといわれている。
香取神宮要石は凸形、鹿島神宮は凹形で地上に一部だけあらわし、深さ幾十尺とされており、一説には両社の要石は地中でつながっているともいわれている。
貞享元年(1664年)3月、徳川光圀公が香取神宮に参拝の折り、要石を掘らせたが根元を見ることができなかったという。
公式サイト http://www.katori-jingu.or.jp/
香取神宮大鳥居 |
境内入り口 |
楼門 |
拝殿 |
拝殿 |
本殿 |
奥社周辺 |
奥社入り口 |
奥社 |
香取神宮要石 |
9時30分。
佐原駅は2回目目。レンタサイクルを借りるのも2回目。かってしった場所故に、だいぶ気が楽であった。今回は佐原市内の観光はせずに、ピンポイントで行きたい神社に向かう事にする。
駅から香取神宮までレンタサイクル。最寄り駅は香取駅であれど、香取駅からは歩いて山を越えなくてはいけないので、佐原駅から自転車を借りた方がよっぽど楽ちん。
10時過ぎに香取神宮に到着。
鎮座地は香取駅より南に約1キロ。佐原駅からだと東に約3キロ。道は一直線だから自転車でも走りやすい。
前回参拝したときは、実は修復工事中で拝殿は緑の幕におおわれていてた。今回は見事な拝殿と本殿を目の前にすることができ、ようやく香取に来たという実感を得る。
境内をめぐり、そして奥社にもめぐって、要石を目にして、そうして香取を満喫する。香取の敷地内でも、奥社奥宮のある空間が一番の神聖さを感じてしまう。
『側高神社』(香取神宮第一摂社・無格社)<香取市大倉鎮座>
御祭神:側高大神
創建年代は不詳。由緒由来も不詳。祭神は古来より秘匿されており明らかではないという。香取神宮よりも古い地神であったともされる。
「脇鷹」「側鷹」「曽波鷹」神社とも記載される。
側高神社本殿は一間社流造。安土桃山時代の建築様式がよく残っており慶長年間と推定。県指定文化財。
この地は、香取郡と海上郡の境界の地でもあり、香取神宮第一摂社が鎮座する要の地となっている。
11時過ぎに香取神宮をあとにして自転車で北上。だいぶ迷いながら30分ほど自転車を走らせてようやくに到着。距離としては香取神宮の北東2400メートルの地に鎮座。アップダウンがあり、そうして私が道を取り違えた事もあって大きく迷ってしまった。
迷っていたのは参拝を終えてレポを書いているときも所在がチンプンカンプンになってしまい、結果として香取市丁子の香取神宮の北東500メートルに鎮座している側高神社と混合してしまったようでした。
(2010/2/4に掲示板よりご指摘をいただき文中を修正いたしました)
石段の上に一体だけある狛犬がかわいらしい。気配としてはだいぶ古い雰囲気を醸し出していた。
祭神が側高大神というだけで、謎がおおい神社。香取の神が鎮まる前の地主神という説もさもありなん。
20分ほどのんびりと境内を散策してそうしてまた自転車にまたがる。次の目的地は「津宮」
『香取神宮 津宮』(津宮鳥居河岸・香取神宮一の鳥居)
利根川に面した地に鎮座。香取神宮一の鳥居という。かつて水運盛んなころの香取神宮への表参道入り口。12年に一度の香取神宮式年神幸祭では、津宮河岸から神輿が御座舟に乗せられる。
香取神宮津宮 |
津宮常夜灯 |
香取神宮の真北2キロの地に鎮座。側高神社からは約2600メートル。
利根川を挑む場所。自転車を近くに止めて、川縁を散策。利根川と鳥居と土手と灯籠。ぼーっとするもすぐに飽きがきてしまう。ひとやすみしたらまた自転車にまたがろう。
時間は12時15分であった。
時系列的には、このあと佐原の八坂神社・諏訪神社をもうでて、いったん鹿島線にのって鹿島神宮へ。もどってきて佐原の隣駅の大戸駅から大戸神社に赴いている。
記事上は香取の関連社なので、先に大戸神社を記載。
『大戸神社』 (県社・香取神宮第一末社)<千葉県香取市大戸鎮座>
天手力男命(あまのたぢからおのみこと)
第12代景行天皇のころ、日本武尊東征時に勧請という。孝徳天皇の白雉元年(650)に現在地に遷座。
江戸期には香取神宮朱印地1000石の内100石を分配され、現在の社殿は宝永4年(1707)に徳川綱吉の手によって改築されたもの。
その後、大正5年(1916)、昭和36年(1961)、平成15年(2003)に修復がおこなわれている。
明治6年に県社列格。
香取神宮の第一末社。明治期は摂社の扱いであったという。
公式サイト http://homepage3.nifty.com/ootojinjya/
大戸駅の南約500メートルの地に鎮座。社殿は南面しているので、駅から赴くと最初に本殿が目につく。
訪れた時間は16時ごろ。夏の日ではあれど、そろそろ夕方のころあい。日差しに反射する朱の本殿が美しかった。境内は細長く、そんなに広いわけではないが、社叢豊かで木々がまっすぐに伸びていて気持ちよい境内。本殿後方には御神木もあり、樹木豊か。
香取神宮の関連社であれど明治社格では県社であり、独立した気概があったのだろうか。興味深い関係でもあった。
『佐原ノ八坂神社』 (千葉県香取市佐原イ鎮座)
祭神:戔鳴命(すさのおのみこと)
創建年代は不詳。佐原地方に疫病が大流行したときに霊験のある牛頭天王を勧請したことにはじまるという。
毎年、7月10日以降の金・土・日に、八坂の夏の山車祭が行われる。「佐原の大祭夏祭り」(八坂神社祇園祭)
佐原駅南東約500メートルの地に鎮座。「佐原の夏祭り」の中心をなす神社。境内には「水郷佐原山車会館」もあり、祭と常に一体感がある様相。このときの私は時間だか気持ちだかに余裕がなかったのだろうか。山車会館も見ずに写真もとらずに次へと移動している。今おまえば残念な事でもあった。
『佐原ノ諏訪神社』 (郷社・千葉県香取市佐原イ鎮座)
御祭神:建御名方命(たけのみなかたのみこと・諏訪大神)
もとは天慶の乱(天慶2年・939年)に大神惟希が伊予国の藤原純友を討った功績により下総国大須賀領主に任ぜられ、領国鎮護の神として信濃国より勧請。
天正年間に領内農民が佐原を開発するにあたり奉遷。また佐原の開発に携わった伊能家が氏神として伊能村(大栄町)より勧請ともされる。
現在の社殿は嘉永6年(1856)の造営。
毎年、10月の第2金曜・土曜・日曜に秋の山車祭が行われている。佐原の大祭秋祭り(諏訪神社秋祭り)
諏訪神社大鳥居 |
入り口 |
まっすぐに伸び理石段 |
石段の上には社殿がある |
拝殿 |
本殿 |
佐原駅から南にまっすぐ500メートルすすむと丘がある。その頂に諏訪神社が鎮座している。旧郷社。佐原の鎮守としての趣がある。神社隣の公園には伊能忠敬の像もあり、伊能家とのつながりも感じ取る事が来出る。佐原の秋祭りの中心となる神社。夏祭りは東の八坂祇園の山車、秋祭りは西の諏訪神社の山車がそれぞれ勇壮な姿でもって市内を引き回される。そんな小江戸を象徴する佐原の祭の中心神社。鬱蒼とした境内の中、りんとしてまっすぐに伸びる木々がすがすがしい。
付記
『鹿島神宮』(延喜式内名神大社・常陸国一の宮・官幣大社・勅祭社・国重文)<鹿島市宮中鎮座>
<前回掲載記事はこちら>
御祭神:武甕槌大神
香取神宮と並ぶ東国の大社。
延喜式の名神大社。常陸国一の宮。古来以来の「神宮」号で呼称されている古社。
創祀は神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が使いを使わし勅祭されたことに始まるという。
武甕槌大神は、香取の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)とともに天孫光臨に先だって葦原中国(あしわらのなかつくに)を平定した神として知られる。その後、香取神宮と共に軍神として名高く、大和朝廷の東国平定に大きな役割を果たしたという。また「大鏡」では中臣鎌足の出身は鹿島の地であるといわれている。
やがて奈良に春日大社が創祀されると、第一殿に鹿島大神が迎えられた。
なんでも鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)のところへ、天照大御神(あまてらすおおみかみ)のご命令を伝えに来られたのが天迦久神(あまのかぐのかみ)という神で、鹿の神霊とされていることから、鹿島神宮のお使いは鹿となっているという。神護景雲元年(767年)に藤原氏は氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日神社を創建。その時、御分霊を鹿の背に乗せ、多くの鹿を連れ一年がかりで奈良まで行ったという。
武人の神、建国功労の神として奉るほか、武道の祖神、決断力の神、航海の神、また関東開拓により農漁業商工殖産の守護神、外常陸常の古例により縁結び安産の神、更には「鹿島立ち」の言葉が示すように交通安全、旅行安泰の御神徳などが古代から受け継がれているという。
元和五年(1619)徳川秀忠の再建という本殿は国重要文化財。神社建築では珍しい北面社殿は東北北方開発の歴史と深いかかわりがあることがうかがえる。
奥社は慶長10年(1605)徳川家康の造営となる旧本殿で国重要文化財。(本殿社殿・奥社ともにいずれも旧国宝)
楼門は水戸初代徳川頼房が寛永11年(1634)に造営したもので、日本三大楼門の一つという。(国重文)
(日本三大楼門=阿蘇神社・筥崎宮・鹿島神宮)
奥には「要石」がある。神生の昔、香島(鹿島)の大神が座とされた万葉集にいう石の御座(みまし)とも、あるいは古代における大神奉斎の座位として磐座(いわくら)とも伝えられる霊石である。この石、地を掘るに従って大きさを加え、その極まる所をしらずといわれ、水戸黄門仁徳録には七日七夜掘っても掘っても掘りきれぬと書かれ、地震押えの伝説ともなっている。信仰上からは伊勢神宮本殿の心の御柱的存在である。
鹿島神宮の分社は茨城県内に約50社、関東に900社と推定され、扇状に東北に向かって集中しているのは蝦夷平定にあたって鹿島の神威が隆盛だった事を示しているといえる。
公式 http://www.bokuden.or.jp/~kashimaj/
鹿島神宮正面 |
楼門 国重文 |
楼門 国重文 |
拝殿 国重文 |
拝殿 |
本殿 国重文 と 御神木 |
仮殿 |
参道 |
奥社 国重文 |
奥社 国重文 かつての鹿島神宮本殿 |
要石が鎮まる地 |
要石 |
御手洗(みたらし)池 |
神鹿園 |
香取神宮をまわると、やっぱり対になる鹿島神宮にも行きたくなる。
そんなわけで、佐原から鹿島線にのりこんで鹿島神宮に向かう。
佐原駅から45分後に鹿島神宮に到着。13時45分であった。
重厚な楼門、北面する本殿社殿、後方の御神木。北面社殿と対座する南面の仮殿、。そしてその奥にずんっとのびる参道は奥社に向かっており、さらには要石と御手洗池。鹿島神宮の境内はいつ来ても心落ち着く気配。たまに来たくなる神社なのだ。
特に奥社と要石の周辺の雰囲気は秀逸。ゆっくりと時間をかけて散策したいものである。
そうして鹿島神宮をもうでてから、佐原の隣の大戸駅で下車して大戸神社に赴いたのは上に書いたとおり。
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