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「高麗神社の風景」
<平成15年3月参拝・5月記>

目次
高麗神社」/「野々宮神社



高麗神社   <朱印
(県社・埼玉県日高市新堀鎮座)

祭神:高麗王若光・猿田彦命・武内宿禰

 当時の高麗は、のちに新羅滅亡後の朝鮮半島を統一した高句麗とは別のもの。
 高麗はもともと満洲高原の騎馬民族とされ、中国満洲地方・朝鮮半島・遼東地方の大半を支配し、中国文化を取り入れた強大な先進国であった。
 589年に中華大陸に統一王朝「隋」が誕生。隋は国内兵力の大半を動員して高麗侵攻するも逆に敗北。隋は著しく国力を衰退させてしまう。かわって大唐帝国が出現し、高麗を侵攻。
 唐は高麗攻撃中に新羅と同盟し、百済は日に救援を求めて来るも白村江で唐・新羅水軍に敗北し、百済は663年に滅亡。高麗も、ついに建国約700年後の668年に唐・新羅連合軍によって滅ぼされた。

 高麗滅亡の時に難を逃れて多くの王族や移民が我が国に亡命して各地に分散していたが、一地域に集めて安住せしめるのが、投化民を遇する途と考え、新たに高麗郡が武蔵国に新設された。
 元正天皇の霊亀元年(716)に駿河甲斐相模上総下総常陸下野、7ヶ国の高麗人1799人を武蔵国に移して高麗郡を新設したという記録がある。これにより当時の東国に高麗人が散在していたのがわかる。

 高麗郡が新設されたとき、その首長を命ぜられ郡をおさめたのが、高麗王若光であった。彼は高麗が国家として成立していたときに使者としてやってきていたが、日本にとどまっている間に国は滅亡。高麗王族でありながら、高麗王若光は日本国でも文武天皇大宝3年(703)のころに従五位下に任官され、さらには王姓を賜っており、郡司就任以前に高麗王族として特に優遇されていた。
 しかし、高麗遺民らにとっては武蔵国は中央からはなれた辺境の地であり、移住当初の困苦は深刻なものであった。高麗王若光らは今の高麗神社の付近に居を構えて荒野を開拓していき、武蔵野の開発に尽くし再び故国の土を踏むこともなく、この地で没した。
 高麗王若光は日頃から崇敬していた猿田彦命を祭祀し一社を建立。そこに武内宿禰を合祀して白髮明神として崇敬していた。天平2年に高麗王若光がなくなると高麗郡民が若光の徳を偲んで霊を祀り高麗明神として崇敬し、のちに白髮明神に合祀して高麗大明神として祀ったのが高麗神社の創祀である。祭神である高麗若光の子孫は代々当社の宮司をつとめ、現に59代に及んでいる。
 天平勝宝3年(751)には高麗の僧勝楽が寂し、その弟子の聖雲が師の遺骨を納めた聖天院勝楽寺を創建。1200年以上も昔に創建された高麗神社と隣接する勝楽寺の由来は明確であり、珍しい例ともされる。
勝楽寺の山門脇には高麗若光の墓がある。墓は、砂岩を重ねた多重塔であり、朝鮮様式を伝えている。

 武蔵国には白鬚神社と呼称される神社が約55社存在している。これらは、この高麗神社の分社であるとされ、当社は高麗総社とも呼ばれている。若光が晩年、見事な白鬚を蓄えていたことから白鬚さまと尊ばれていたことから、のちに当社を白鬚明神と呼称したともいう。後年、高麗人の子孫が各地に分散し、高麗郡の例にならって、王の遺徳を偲び敬慕し、その霊を分祀したものとされる。全国的には高麗王若光が崇敬していた猿田彦命のことを白髮明神と呼称するが、埼玉県内では一部の白髮神社は高麗神社に連なっているので注意が必要ではある。後年、高麗人の子孫が各地に分散し、高麗郡の例にならって、王の遺徳を偲び敬慕し、その霊を分祀したものとされる。
 
 また当社は、開運の神としても崇敬をあつめている。なかでも近代の政治家のなかでも若槻礼次郎、浜口雄幸、斎藤実、鳩山一郎などは当社に参拝後に総理大臣に就任していることから出世明神とも呼称されている。

高麗神社
高麗神社は神奈備型の山を抱く
高麗神社
正面参道
高麗神社
狛犬は高麗犬
高麗神社
神門
高麗神社
高麗神社扁額。高句麗と記載
高麗神社
社殿
高麗神社 左:国指定重要文化財である高麗家住宅
高麗式建築なわけではなく、
江戸時代初期(慶長年間)の民家建築を伝えている。
高麗家は若光の子孫でもあり、代々の神職家でもある。

 JR高麗駅から二キロ20分ほど西に歩いたところに鎮座。歩くのも飽きるので、途中のスーパーでたいやきなんぞを大量購入して頬ばりながら、紙袋を抱えつつ歩く。たいやきが安かったのだ。そして、食べたくなったのだ。

 高麗川を渡ると、そこは日本的でもあり、そして朝鮮的でもある風景がひろがる。
 駐車場には。「地上男将軍」「地下女将軍」とよばれる将軍標が林立している。そして高麗神社社号標は朝鮮総督・南次郎陸軍大将の昭和14年10月建立。なんというか良い意味でも悪い意味でも朝鮮色がでていた。

 別に朝鮮人神に参拝しようと思っていたわけではないが、ただ埼玉県内の有名神社に行きたかったのだ。で、この高麗神社は県社なので、私としても行かなくてはいけない義務というものを感じていた。
 そんなイメージは関係なく、境内はとても静かで参道もおだやかさに溢れている。神門の扁額は高句麗の句が遠慮ぎみに記載されていて、でも拝殿は普通に神社。べつに朝鮮臭に秀でているわけではない。
 第一、私の住んでいる地域が埼玉県内でも渡来人が多い新座郡なわけで、その隣が高麗郡。いづれにせよ入間郡に新設された特殊な郡という歴史を持っているので、邪険にはできない。

 重要文化財の民家は当社の代々神職である高麗家の江戸初期頃の民家。格子越しに中をのぞきみることはできる。
 山を背景に川がいろどる風土に鎮座している当社は日本的であり、それがかつ渡来人的な気配をかんじる。私が思う日本的な、というのも元は渡来的なものであることは間違いなさそうなので。

 高麗神社から山に沿って歩くと「聖天院勝楽寺」という寺がある。天平勝宝三年(751)に高麗王若光の菩提を弔うために鎮座した寺院。開山時は法相宗であったが、1345年に真言宗に改めている。
 つまり高麗王若光を祀る神社と寺院がほぼ同時に創建し、そして両社共に現存しているという、珍しさがあった。

勝楽寺
高麗山聖天院勝楽寺
勝楽寺
山門
勝楽寺
高麗王廟
勝楽寺はみごとなまでに山を威圧していた。
これもまた朝鮮的風景・・・かもしれない。

高麗王の墓に絵馬やそのほかいろいろなものがあった。
なかには、某少女の写真。
拉致とは関係ないだろうに・・・。

 寺院は真面目に参拝していない。
 高麗神社や勝楽寺の境内の絵馬に不思議なものが多かった。高麗ゆえに、そして朝鮮ゆえに独特の文面が記載されている。別に私は絵馬を観察するような悪趣味は持っていない、でも目に留まってしまったものはしょうがない。絵馬には拉致関係や金正日将軍関係の文面。ただ、ここでその文面を再現したくはないような、そんな過激な言葉が踊っていた・・・。高麗王若光という神様に何を祈願しているのだが。


野々宮神社    
(神社・村社・埼玉県日高市野々宮鎮座)

祭神:天照大神・瓊瓊杵尊・猿田彦命・倭姫命

 創立年代は不詳。文献上は大宝3年(703)に社殿修復の記録があるため、かなりの古社であるとされる。
 野々宮神社という呼称の神社は関東地方には珍しく狭山市と当社の二社以外には近隣には鎮座していない。
 高麗川のほとりに鎮座していることから、潔斎の宮として山城の野宮神社を分祀したものとされている。
 例大祭で奉納される獅子舞は日高市の民俗文化財に指定。
 境内には天保二年に造られたという相撲場(日高市指定民俗文化財)もある。

野々宮神社
参道
野々宮神社
拝殿と相撲場

 高麗神社から高麗川を挟んで1キロほど東南に戻ったところに鎮座している。
 別に行こうと思って参拝した神社ではない。たまたま地図を眺めて高麗神社の近所にあったから足をのばしてみただけ。でも細長い参道の先に現れたかわいらしい拝殿と、その前に自然と同化している境目もあやふやな土俵を眺めているとなにやらうれしくなってくる。こういう人目に注目されない村の鎮守というのが、私は意外とすきだったりする。



<参考文献>
各神社境内の解説看板・御由緒書き。

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