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「京都古社散歩〜東福寺から四条河原まで」
<平成18年4月参拝>


目次
瀧尾神社」/「剣神社」/「今熊野神社」/「松明殿稲荷神社」/「文子天満宮」/「市比賣神社」/「京都大神宮」/「火除天満宮」/「錦天満宮



ときどき京都に用事がある。天気は雨模様。でもせっかく京都に来たのだから、時間がある間に散歩をする。
そんなわけで、9時過ぎからお昼まで散歩をする。
JR東福寺駅から北上しようかと思っていた。


瀧尾神社(村社)
<京都市東山区本町鎮座>

主祭神:大国主命

創建年代は不詳。天正14年(1586)10月に、豊臣秀吉の方広寺大仏殿建立に伴い現在地に遷座したという。当社は湧泉寺の持社ともいう。
現在の社殿は天保10年(1839)から翌年にかけて造営されたものという。
本殿は「北山貴船奧院御社」旧殿を移築改築したもの。京都市指定有形文化財。

京都
境内
京都
正面
京都
社殿
京都
本殿
京都 左:境内の三嶋神社
本宮は東山区東大路通東入上馬町
当社はその祈願所。
安産・子授けの信仰が篤い

その後方が瀧尾神社社殿
京都
拝殿天井の竜彫刻
京都
竜彫刻

天気は雨模様。そんなことはわかっていた。
京都寺町に13時ごろから用事がある私は、朝9時過ぎに東福寺駅を降り立つ。東福寺に行くわけでもなく北上を開始すれば100メートルほどで「瀧尾神社」という神社があった。
雨が降っている。
境内は駐車場を兼ねている。なんか京都らしい神社の雰囲気。言葉にしにくいけど、東国ではなかなかこの雰囲気が味わえないのだ。
境内でぼーっとしていると、人がやってきて「拝殿の上には竜の彫刻があるんですよ。よかったら、上がって御覧になってはいかがです?」とおおせられるので、覗いてみる。
意外にも立派な竜がそこには彫られていて、しばしば竜と対面をする。



剣神社(つるぎ神社・村社)
<京都市東山区新熊野剣宮町鎮座>

祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命・邇邇藝命(ニニギ命)・白山姫命

創建年代は不詳。平安遷都の際に、王城鎮護として都の巽の地に剣を埋め、そこに神殿を建立したことにはじまるともいう。
疳封じの霊験あらかたであり、子供の守護神として篤く崇敬されている。当社では「トビウオ」の祈願絵馬が奉納されており珍しいものがある。

京都
正面
京都
境内地
京都
社殿
京都
創建以来の御神石という。「撫石」
京都
境内社
京都
本殿裏 トビウオの絵馬

瀧尾神社から東に200メートルほど歩けば東大路通りに出る。そのまま北上すれば「新熊野神社」。でもさきに剣神社に行こうと思ったので、さらに200メートルほどを東に歩く。ゆるやかな坂道でもある。そのまま真っ直ぐに歩けば「鳥戸野陵」でもあった。
そんなわけでもないとは思うが、ますます雨が強くなってきた。
剣神社はその「剣」という鋭い名称とはうらはらに、穏やかでこじんまりとした神社であった。



新熊野神社(村社・ナギ(木ヘンに那=椥とも書く)の宮)
<京都市東山区今熊野椥ノ森町鎮座>

主祭神:伊邪那美尊
配祀神:後白河上皇

新熊野神社は、後白河上皇よって永暦元年(1160年)に熊野三山をこの地にあった仙洞御所法住寺殿の内に、新日吉社とともに勧請して当社を創立されたことにはじまる。
後白河上皇は紀州の熊野権現を篤く信仰。しばしば御幸されており、熊野御幸として名高い。
また当社は古来「ナギの宮」とも呼称された椥(ナギ)の名所。鎮座地も「椥ノ森」と称している。
皇室の崇敬が篤く社殿は隆盛を極めていたが、応仁の乱で荒廃。寛文13年(1673)に現在の本殿が再建している。この本殿は、熊野本宮証誠殿と同じ構造型式であり、なおかつ熊野本宮証誠殿よりも古いことから熊野造りの古制を良く伝えている全国的にも珍しい社殿。京都市指定有形文化財。

京都
社頭の大楠
京都
正面
京都
拝殿
京都
結び社・速玉社・中四社
京都
本殿
京都
下4社
京都 左:紀州熊野三山の御土

後白河上皇は平清盛に命じて紀州熊野の土砂材木等で
社域を造成、社殿を造営して熊野の地を再現させた。

この御土は熊野三山より往時を偲び、
新熊野に奉納されたものという

下:新熊野の大楠
後白河上皇お手植えと伝わる大楠。
熊野の神々が御降臨になる「影向の大楠」ともいい
「大楠大権現」として崇敬されてきた。
京都市天然記念物
高さ約19メートル、周囲約6メートル
京都
大楠・楠龍辨財天
京都
大楠

新熊野。「いまくまの」とよむ。よく聞く名前であったが、足を運ぶのは初めてであった。
徐々に雨も弱くなってきたようで、幸いでもある。
社頭の大楠が見事であった。その雨に濡れていた姿は、みずみずしく、木々の活力が溢れ出ているそんな神々しい気配に境内が包まれていた。
熊野詣では一度だけしたことがある。
いまの「新熊野」に熊野らしさを感じることが出来るかどうかはわからないが、その熊野信仰にあわせた「熊野らしさ」には好感が抱けた。
思った以上に私は長居をしてしまったようだ。
時間は午前十時。まだまだ時間はあるのだ。



松明殿稲荷神社(たいまつでん稲荷神社・伏見稲荷大社の境外末社)
<七条通加茂川西入稲荷町鎮座>

祭神:大己貴命・伊弉諾命・伊弉冉命・猿田彦命・倉稲魂命

伏見稲荷大社境外末社。別名を田中社。
社殿内には天智天皇木像と大友皇子木像が安置されているという。

天暦2年(948)に勅により燎祭が行われ、その時に「炬(松)明殿(たいまつでん)」の号を賜ったことに由來するという。
はじめは黒門通塩小路下るに鎮座していたが、宝永8年(1711)に現在地に遷座したとされる。
境内西側には江戸時代中期の木食正禅養阿の手洗石及び井戸がある。

京都 京都
京都 松明殿稲荷神社

左:木食正禅養阿の手洗石及び井戸

鎮座地は鴨川の川端・。七条大橋。
せっかく新熊野いたのだから、新日吉に歩いてもよかったのだが、最終目的地が「寺町」ということもあり、あまり遠回りはしたくなかったので鴨川沿いに歩く方向を修正。
橋の脇に小さな神社が鎮座していた。どうやら伏見稲荷の境外社らしい。
境内は極めて狹い。雨が降っていたこともあって、なにやら空気も水っぽい。そして「稲荷」らしさはあまり感じなかった。そんな神社。



文子天満宮(あやこ天満宮・村社・洛陽天満宮25社のひとつ)
<京都市下京区間之町通花屋町下る天神町鎮座>

祭神:菅原道真公
相殿:多治比文子(たじひのふみこ)

天神信仰発祥の神社。
太宰府に左遷された菅原道真公が延喜3年(903)に没し、その死後に道真の乳母であった多治比文子が「われを右近の馬場(=現在の北野天満宮の地)に祀れ」と道真の託宣をうけたとされる。
しかし文子には社殿を建立する財力が無く、自宅に小祠をたてて道真を祀ったのが当社の起源とされている。のちの天暦元年に文子は道真公の御霊を北野の地に移したことから、ゆえに当社は「北野天満宮」の前身ともいわれている。
明治社格では村社。大正7年に現在の社殿を造営。

京都
正面







京都
文子託宣像

境内社:左
「老松社」(島田忠臣・・・菅公家臣 菅公夫人の父とも)
「福部社」(十川能福・・・菅公舍人)
「火之御子社」(火雷命)

境内社:右
「白太夫社」(度会春彦・・・菅公守役 外宮神官)
京都
社殿
京都
社殿

鴨川沿いに北上するもの味気ないので、高瀬川にそって北上。七条通りから高瀬川にそって300メートルほど歩いて、渉成園方面の西に250メートルほど歩くと「文子天満宮」という神社がある。
北野天満宮を調べていた時に知った神社。
天満信仰・北野天満の発祥ともなった神社といえる古社。境内はさほどに広くはない。あたりは京らしい佇まいで、静感。そんななかに女性らしい気配で「天満宮」が鎮座している。

先客が1人いた。女性のお方。なにやら同じ気配を感じた私。この女性が次に行く場所は私と同じような気がした。そんな気がしたので、足早にあるいて次を目指す。



市比賣神社(いちひめ神社・女人守護・市場守護)
<六条通河原町西入本塩竈町鎮座・朱印


祭神:神大市比賣
    多紀理比賣・市杵島比賣・多岐津比賣(宗像三神)
    下光比賣

創建は桓武天皇の延暦14年(795)。平安京制定の翌年に、京都東西市場の守護神として左大臣藤原冬嗣によって七条堀川の地に鎮座したことにはじまる。
天正17年(1591)に豊臣秀吉によって現在の地に遷座。
皇族誕生の際には境内の「天之真名井」の水を産湯に用い、皇族公卿から万民に至るまで、その崇敬が篤かった。また生後50日目100日目に当社におもむき「五十顆之餅(いかのもち)」を御子にふくませ、無事の成長を祈る「五十日百日之祝儀」の通過儀礼も行われている。近年では愛子内親王殿下にも「御餅」が献上されている。現在の「お食初め」発祥の神社。

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正面
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参道
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境内社殿
京都
「天之真名井」

文子天満宮から市比売神社におもむく。文子天満宮の約400メートル北東。五条大橋からは100メートル南の地に鎮座。
男の私はちょっとだけ近寄りにくかった。
女性の守護神らしく、なにやら私が行くのが申し訳ないような気がする。
ビルがある。ビルの下をくぐると、空間が中庭のようになっていて、そこに小さめな神社社殿があった。空間を巧みに利用した神社。こういう神社は嫌いではない。
巫女さんがいたので朱印を頂戴する。
そうしていたら先ほど文子天満宮にいた女性がやってきた。やっぱりおなじコースだったらしい。

このまま私は鴨川沿いにそって北上する。ただゆっくりと歩く。
雨もあがったようで、歩きやすくなった川沿い。
のんびり散歩して四条烏丸・寺町におもむくことにしよう。

ちょっと時間が出来た。寺町の神社も載せておこう。



「京都大神宮」
前回掲載ページ有り
<下京区寺町通鎮座>

祭神:天照皇大神、豊受大神、他八柱の大神

明治6年7月に伊勢神宮より内宮、外宮を奉迎。社殿は元一条家の書院を移築した。当初神風講社として発展。戦後、京都大神宮としてあらたな発展をする。

京都
正面
京都
社殿

訪れたのは二回目。この寺町通りにはときどき用事があるのだ。通りは雑多であり、人の往来が激しい。ちょっとひと息つきたい時に足を運ぶと心が落ち着くのだ。




「火除天満宮」前回掲載ページ有り
<下京区寺町通鎮座>

祭神:菅原道真公

由緒
天正7(1579)、一人の老神官が九州筑紫国(福岡県)大宰府から菅原道真公の尊像を背負い入洛し、六条に菅原公を祀ったことにはじまるという。
天正10年(1582)「に本能寺の変にて織田信長信忠父子が死し、天正15年に信長父子を弔うための「大雲院」が開創されると、経緯は不詳ながらもその鎮守社として鎮座。
転生18年(1590)以降に秀吉の京都町割によって大雲院が寺町に移ると当社も遷座。慶長2年(1597)に一社が建立され遷座している。
幕末期。元治元年(1864)の蛤御門の変によって京都が火の手に包まれるが、不思議なことに大雲院から南の地域は類焼を免れた。大雲院を本陣としていた砂土原藩の消火活動や風向き等の環境以上に、当社の「火除」が益々の神威として崇敬されたという。
洛陽天満宮二十五社中の第九番に位置している。

京都
火除天満宮。
ビルの一角に位置している。
京都
ちなみに左側は「都雅都雅」ライブホール。
私が良く通う京都の岩男潤子ライブの常場です。
もちろん今回もライブのために来ました!
京都
参道。狭いながらによく作られた空間
京都
社殿。
京都 左;境内遠望。
ビルがあり、その一階縁の部分が参道。
ビルの後側に社殿がある。

私が京都の寺町に行く時は用事が決まっている。
ライブ会場「都雅都雅」で岩男潤子ライブがあるとき。わざわざ埼玉から遠征してまで行く価値があるライブがそこでは行われているのだ。そのライブ会場のすぐ脇に「火除天満宮」は鎮座している。この異色な取り合わせがなんともいえないのだ。


「錦天満宮」
<京都市入京区新京極通錦小路鎮座・朱印

祭神:菅原道真公

平安期に菅原道真公の父である菅原是善卿の屋敷「菅原院」に創建したことにはじまるというが詳細は不明。その後は嵯峨天皇皇子の源融の旧邸六条河原院に鎮座していたというが、豊臣秀吉の京都区画整理によって天正年間に現在地に遷座。繁華街唯一の鎮守社として崇敬をあつめている。

京都
参道
京都
正面
京都
社殿
京都
本殿

寺町通りの北側。東西を貫く四条通りの北側である新京極通りに鎮座している。こちらは完全に商店街繁華街の真っ直中。賑わいと活気が直結している参道をすすむ、そこに神社があるのだ。空間的には狭いながらも、開放的で明るい気配。社頭には名水井戸水「錦の水」が湧き出ており、水を求めにくる人も多かった。



参考文献・サイト
京都府神道青年会サイト 参考
神詣(かみもうで)サイト 参考
案内看板、由緒書き等。

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