「郷土の鎮守様・宮代編」
<平成16年6月>
「五社神社」/「姫宮神社」/「身代神社」
宮代に行こうとかねてより思っていた。べつに格別な用事があるわけではない。しいていえば、私がファンをしている國府田マリ子という声優が埼玉県南埼玉郡宮代町の出身であるということだけ。
もっともそんな事は関係ない。宮代町の姫宮神社が平安期の延喜式に掲載されている式内社「宮目神社」という、いわゆる式内論社であったということが最大の理由である。
梅雨時のわずかな隙間をぬって、参拝計画を練る。もっとも地図を片手に考えるだけだが。
JR武蔵野線から東武線を乗り継いで、「姫宮駅」に到着したのが10時25分。とりあえず駅から歩く。こんな憂鬱な6月に地味に神社巡りをするのも滑稽だが、どことなく「宮代」であるがゆえに許せる気分になる。
私の心境では言霊的に「宮代」は、かなり特別なのだ。
「五社神社」
(宮代町東鎮座・村社)
祭神
天之忍穂耳命・天津日子根命・天之穂日命・活津日子根命・久須毘命
由緒
五社神社は以前は五社権現社・五社宮ともよばれ、熊野三社・白山社・山王社の五社を等間隔に祀ったことから、五社神社と呼称されている。
創建年代は明かではない。
養老年中(717−724)に行基が当地を訪れたところ、五人の老翁が現れて「我々は仏法護持のため様々な霊地に身を置いたが、当地は天地に比べるものがない霊地である。我々は熊野三山の翁、近江日吉の主、白山の厳翁である。」と告げて姿を消した。行基はこのお告げに従い当地に西光院を建立し、寺の鎮守として当社を創建したと伝わっている。
現在の本殿は桃山期の文禄慶長年間(1592−1614)の建築と推定。本殿は五間社流造。平野部での同建築は珍しく、埼玉県指定文化財とされている。
姫宮神社に赴く前に寄り道を計画していた。県指定文化財としての五社神社に寄り道をしようかなと考える。
東武線姫宮駅西口から800メートルほど南西に歩くと、西光院という寺院に呑まれるような気配で当社は鎮座していた。西光院は地方寺院としてはかなりの規模を感じらる。その墓域片隅に特別な境界があるわけでもなく、しずかに墓と畑と住宅に囲まれる土地。
社地の回りの道路が意外と交通量が多いけれども、境内地はそんな喧騒とも無縁。どことなく最初から疲れている私は本殿を眺めながら蜘蛛の巣と格闘していた。
「姫宮神社」
(宮代町姫宮鎮座・村社・延喜式内論社)
祭神:
多記理姫命・市杵島姫命・多記津姫命
由緒:
当社の境内や近隣は「姫宮神社古墳群」が存在し、その開発の古さをうかがうことが出来る。
創建伝承として以下の話が伝わる。天長五年(824)に桓武天皇の孫に当たる宮目姫が滋野国幹に伴われて下総国に下向の途中に当地に立ち寄られた。付近の紅葉の美しさにみとれているうちに、宮目姫はにわかに発病して息絶えてしまった。後に当地を訪れた慈覚大師円仁が、姫の霊を祀り姫宮明神としたのが創建とされている。
現在の社殿は江戸期の再建。また、当社の右手の八幡社は六世紀後半頃の古墳上に鎮座している。
一説に、延喜式神明帳の「宮目神社」が当社であるともいう。
昭和30年に百間村の総鎮守たる「姫宮神社」と須賀村の総鎮守たる「身代神社」に由来して「宮代町」が誕生している。
「五社神社」から北に一キロほど、一直線に歩むと「姫宮神社」が鎮座している。古風な気配を漂わせる鳥居と参道にうれしくなる。正面から均整がとれており、参道を真っ直ぐにあゆみながら、その境内配置状況と気配にほれぼれとする。
遠目からは本殿覆い殿の屋根が「二重屋根」を構成しているようにみえるも、近づくと「拝殿」に隠れる。そんな社殿もどことなく微笑ましい。さすがに女神の社だけあって、その佇まいは魅力的であった。
境内の脇を「東武鉄道」が走っている。走行音だけなら気にならないが、踏切が二ヶ所もあり、いささか賑賑しい。静寂が破られるカンカン音だけが、私を我に返らせていた。
ここから姫宮駅までは南に500メートル。姫宮神社が鎮座している西口側に向かうよりも線路を横断して東口に出た方が近かったりする。
「身代神社」
(宮代町学園台鎮座・村社・このしろ神社・旧須賀村鎮守)
祭神:素戔嗚尊
由緒
創建は鎌倉初期の仁治三年(1242)勧請とされている。
社名ゆえに大東亜戦争当時は出征兵士の身代わりになり命を救ってくれるとの信仰がうまれ多くの祈願があったという。
明治六年村社列格。
姫宮神社の項目でも触れたが、現在の宮代町は姫宮神社と身代神社のふたつの鎮守からとられた町名である。
東武動物公園駅から1キロほど、線路に沿って北上した所に鎮座。途中の県道はすぐ近くの大学の通学路ともなっており、かなり賑やかなる気配を醸し出す。大学の入口をすぎると急に静かになり、狭い参道を垣間見せてくれる。訪れてみれば小さな社。恐らくは覆い殿だろう。社殿は完全にコンクリに覆われていた。そうであっても、由緒は正しい。「宮代」というふたつの神社名を合成した珍しい町名由緒のひとつであるのだから。
敷地隣の身代池をながめつつ、線路を渡って反対側から駅に戻る。もう、先ほどの学生が闊歩する賑賑しい道路には戻りたくなかったから。
水田と畑が多かった。宮代という良き気配を存分に感じながら、家路につこうと思う。私がファンをしている國府田マリ子が育った産土地を歩みながら、そんな土地のあたたかさを感じていた。
<参考文献>
『埼玉の神社』北足立・児玉・南埼玉郡編 平成10年3月 埼玉県神社庁
各神社の案内看板等
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