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「武蔵の古社を想う・武蔵国入間郡式内社編」


はじめに
 今回は遠くに目線をやるのではなく近所を参拝しようと思い、前日に計画を立案。ただ事前準備などはあまり必要なく感覚で行動。これは武蔵国内の延喜式内社なら頭の中に入っているという自信のあらわれでもあった。主として所沢市が中心となったが、私の家から所沢に行くのは意外と面倒で、一度東京を経由しなくてはいけなかったりする。とにかく「西武バス」フル活動で意外と多くの神社を参拝することが出来た。


目次
中氷川神社」 延喜式内論社 所沢市山口鎮座・県社
北野天神社」 物部天神社・国渭地祗神社合祀 延喜式内社 所沢市北野鎮座・県社
出雲祝神社」 延喜式内論社 所沢市宮寺鎮座・村社
中氷川神社」 延喜式内論社 所沢市三ヶ島鎮座・郷社
広瀬神社」  延喜式内社 狭山市上広瀬鎮座・県社
なお、武蔵国の式内社に関してはこちらも参照下さい(「武蔵国埼玉の延喜式内社」)



「中氷川神社」     
(入間多摩二郡総鎮守・旧県社・延喜式内社論社・所沢市山口鎮座)

祭神:素戔嗚尊・奇稻田姫命・大己貴命

由来:創立は崇神天皇の頃といわれている。氷川と名乗るからには武蔵国造丈部一族が祭祀していたと考えられる。おそらくは大宮の氷川神社と武蔵国国府(東京都府中)との「中」という意味であろう。大宮の氷川神社と奥多摩の氷川神社(奥氷川神社・旧村社)との中央にあるため中氷川と呼んだとの説もあるが、これは後世の氷川信仰の拡大によるものであり付会にすぎない。また武蔵三氷川のひとつと称せられている。

中氷川神社
県社・中氷川神社 参道工事中?
中氷川神社
県社・中氷川神社 延喜式内社論社
中氷川神社
新しめの拝殿
中氷川神社
手頃な大きさ(?)の本殿


 西武鉄道山口線下山口駅から歩くこと約1キロ。こんもりとした小山のなかに鎮座していた。多摩湖に向かう道路は意外と交通量も多く、かつ道も狭い。そんな狭い空間にせり出すかのような鳥居が目につき、「縣社 中氷川神社」と社号碑がある。知らない場所で、神社を探しているときはいつでもこの「鳥居を見つけた瞬間」がうれしい。
 今年一番の酷暑(埼玉熊谷38度)であり、もはや疲れ気味の私は、参道の緑に誘われるかのように冷を求めて拝殿に向かう。拝殿に向かうも、目を疑うばかりの真新しさに、正直がっかりしたりする。どうやら拝殿は平成11年の造営らしい。
 境内はいつもどおりに誰もいない。付近は新興住宅地であり、閑静で上品な静寂に包まれる。拝殿にはがっかりだけれども、まあ神様は新しい建物がお好きともいう。神社建築は古くなくとも、この神社由来に歴史がある。それで良しとしよう。こまるのは社務所も閉鎖な上に、説明看板のひとつもないこと。これでは、今まで書いた以上の神社説明ができない。

 せっかくだから西武ライオンズの優勝祈願でも行う。西武球場から一番近い「延喜式内社」としての特例であり普段はそんな参拝はしないのだが。(西武球場から一番近い神社は多分「玉湖神社」だと思う。狭山不動や山口千手観音は寺院なので。)

 しばらく木陰で休んでいると、懐かしい爆音が上空を轟く。見上げると、入間基地所属のT−4のような気がする。最近の識別眼は怪しいのでなんともいえないが、とかくうれしくなってくる。(この先至る処で幾多もの自衛隊機を見かける。ひさしぶりに自衛隊機を満喫/笑)

 中氷川神社をあとにする。例の新興住宅地を住宅地特有の迷路に迷わされながらもなんとか抜け、中氷川神社からちょうど北方(1.5キロ)にあたる「北野天神社」まで西武バスに乗る。バス間隔は約20分毎。タイミング良くバスに乗るのは、私に歩く元気がないとも言う。



「北野天神社」     
(物部天神社<式内社>・国渭地祗神社<式内社>・天満天神社の三社合殿総称・物部天国渭地祇神社<もののべてんくにいちぎ神社>・旧県社・所沢市北野鎮座)

祭神:
式内社・物部天神社:櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ命)
式内社・国渭地祗神社:八千矛命(ヤチホコ命=大国主命)
天満神社:菅原道真公
配祀:宗良親王・小手指明神・天穂日命・応神天皇・日本武尊・倉稲魂命

由来:北野天神社(物部天国渭地祇神社)とは物部天神社・国渭地祗神社・天満天神社の総称。
 景行天皇40年に日本武尊が東征の折に当地に立ち寄り、櫛玉饒速日命・八千矛命の二柱を祀り、物部天神・国渭地祗神と崇拝したことに始まるといわれている。のち欽明天皇の頃、先に日本武尊が納めた神剣に霊験があったことから天照大神を合祀して「小手指明神」とよんだ。
 さらに長徳元年に菅原道真5世の孫である修成が武蔵守になったときに、勅許を得て京都の北野天神を分祀。坂東第1の天満宮としたと伝えられ、この時から当地を「北野」とよぶようになったという。このころはまだ3社は別殿であったが、いつのころからか合殿となり、社名も「北野天神社」となったという。
 現在の本殿は安永年間(1770年代)の建築であり、拝殿幣殿は平成6年の建築。

北野天神社
緑深くさわやかな参道
北野天神社
県社・北野天神社拝殿
北野天神社
本殿
物部天神社・国渭地祗神社・天満天神社の三社合殿
北野天神社
諸神宮(延喜式内総社3132神を勧進)
源頼朝が勧進したという 室町期の再建


 北野天神社のあるあたりは狭い上に交通量の多い交差点で、とかく賑やか。そんな騒々しさとは相反する豊かな社叢に覆われた境内。境内に立ち入れば、きこえるのは楽しげなセミのハーモニー。普段はやかましいだけなのに、今は不思議と涼しさを感じてしまう。社殿付近は意外と広めで、明るい。ちょうど何かの儀式(=親子が皆々赤ん坊を連れている)が行われているらしく、人の気が多い。本殿は、予想以上に大きい。濃い褐色に時代の流れを感じ、それでいて輝く裝飾に見惚れてしまう。

 北野天神社の鎮座している交通量の多い交差点を南北にはしるバスと東西に走るバスがある。「中氷川神社(山口鎮座)」から北にバスでやってきて「北野天神社」。今度はこの地から西にバスに乗ろうと思う。北野天神社から西に3キロの地点に「中氷川神社(三ヶ尻鎮座)」というもう一つの延喜式内社論社である「中氷川」があり、「北野天」から5キロ、「中氷川(三ヶ尻)」から西2キロ先に「出雲祝神社(延喜式内論社)がある。北野天神社から西に走るバスは約30分間隔の運行。ほどよく途中下車が出来る間隔なので、まずは「出雲祝神社」に向かおうと思う。



「出雲祝神社」      
(旧村社・延喜式内論社・入間市宮寺鎮座)

祭神:天穂日命(アメノホヒ命・天夷鳥命(アメノヒナドリ命・アメノホヒ命の御子)・兄多毛比命(エタモヒ命=武蔵国造の祖)

由来:もと寄木明神。第十二代景行天皇の頃(約2000年前)、日本武尊が東夷征伐に当たられた時、当地に立ち寄り、天穂日命・天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波比神社と崇敬したことに始まる神社。
 天穂日命の子孫が、出雲国より当地にやってきた際に樹種を携えて播種したのが、出雲祝神社の社叢で「寄木の森」といわれているという。

出雲祝神社
村社・出雲祝神社参道
出雲祝神社
一見、寺院のような出雲祝神社拝殿


 北野天神社からバスに乗り、「JA宮寺前バス停」で下車。バス停から南に600メートルほどあるくと独特の森が見えてくる。森の形で神社を感じる、そんな森に予想通りに「出雲祝神社」を発見する。
 旧社格は村社。雰囲気としては小さな感じではあれど、鬱蒼と覆い被さる木々たちに奧行と奥深さを感じる。
 本格的に無人のやしろ。さらには本殿は覆殿に完全に目隠しされ覗き見ることもできない。拝殿は神社と言うよりも寺院という感じがする。なにもいわれなければ間違いなく寺院だろう。なんとなく味気ないけど、延喜式内社と言われるとなんとなくではあれど時代を感じてしまう。論社であろうが、なんだろうが、雰囲気としてこういった小さなやしろの釀し出す空気が好きだ。

 この出雲祝神社は延喜式内論社。武蔵国入間郡五座のうちの「出雲伊波比神社」であろうとされている神社。しかし風格としては出雲伊波比神社(いずもいわい神社・国重要文化財・旧郷社・入間郡毛呂山町岩井鎮座・出雲伊波比神社)のほうが、式内社のような気がする。あのやしろの雰囲気は独特の風格があり、もう一度行きたい神社でもある。

 再び「JA宮寺前バス停」前に戻る。このバス停の前にはたしかに「農協」がある。しかしバス停の隣は「派出所」。日差しの照りつける中で、警官が座っている派出所の隣で10分ばかりバスを待ち続ける私。なんとなく居心地が悪い。



「中氷川神社」     
(旧郷社・所沢市三ヶ島鎮座)

祭神:素戔嗚尊・奇稻田姫命・大己貴命・少彦名命・日本武尊

由来:崇神天皇の時に神託によって勧進したという。境内が北東から南東にかけて長い形をしているから、古くは「長宮明神社」と呼ばれた。境内説明板説では大宮氷川神社と奥多摩氷川神社との中間にあるために「中宮」といわれたともいう。

中氷川神社 中氷川神社
中氷川神社 左上:郷社・中氷川神社参道
 上:中氷川神社社叢
 左:拝殿
左下:「式内 中氷川神社」扁額
 下:御神木
中氷川神社 中氷川神社


 バスにのったならば「堀之内バス停」まで2キロ戻る。バス停の正面に大きく構え「中氷川神社」と看板が出ているのでよくわかる。
 自信をもって「延喜式内社である」と主張しているところが二番手のサガか。「式内論社」とはされつつも山口鎮座の「中氷川神社」に水をあけられている印象がある。
 説明看板にセミの脱け殻が付いている。よくみるとあちこちにセミの脱け殻がある。そう思うとセミがうるさく聞こえる。いいかげん私も疲れたようだ。
 拝殿脇の日陰を利用してお昼寝中の人もいる。拝殿は時代を感じる氷川らしい丹塗りの朱のやしろ。正直なところ「山口鎮座 中氷川神社」よりも、こちらの方が「らしさ」を感じる。本殿は覆殿に保護されている。ただ、金網が張ってありなかを窺うことはできる。中には意外と小さめな本殿(江戸中期)。それでいてこまかで贅沢に彫刻がほどこされている。金網の向こうという障害によってなおのほか立派に見えてしまう。
 御神木がある。根元しか残っていない老木。それでいて存在感に圧倒され、神の気配すらも感じてしまう堂々たるケヤキの面影。今は屋根が被せられ手厚く保護されている。樹齡1000年といわれてもおかしくないぐらいの神木。最盛期の姿を思い描きつつ神木に対座する。不思議なもので、この御神木と対面した瞬間に「延喜式内社は当社かも」と感じてしまう。先ほどの「二番手のサガ」などという印象は吹き飛んでいた。

 バスの時間はなかなか良くできている。「堀之内バス停」からバスに乗り、起点となった「北野天神前バス停」を通過して西武バスは西武池袋線「小手指駅」に到着する。
 小手指駅から西武池袋線に乗って所沢駅で乗り換えて、西武新宿線の狭山市駅へと向かう。すぐ隣を走っている路線に乗り換えるのに隨分手間がかかるのが西武鉄道。とにかく狭山市駅についたら、タイミング良く目の前に停車している西武バスに乗り込み、狭山市駅から2キロ西にある「上広瀬バス停」に向かう。(出雲祝神社・三ヶ島中氷川神社の北方約8キロ)



「廣瀬神社」     
(旧県社・延喜式内社・狭山上広瀬鎮座)

祭神:若宇迦能売命(ワカウカノメ命=豊受姫命)・倉稲魂命

由来:日本武尊が東征の途中、この地に立ち寄り、この地が大和国広瀬郡川合の広瀬神社(明神大社・官幣大社)の地域によく似ていると称し、幣帛を立てて穀物の神である若宇迦能売命を祀り、武運長久と五穀豊穣を願ったことに始まるという。
 しかし大和の広瀬神社は日本武尊の時代よりも後の天武天皇4年(もしくは崇神天皇期)創始とされており、武蔵国に分祀された記録もない。社名は大和国廣瀬神社と同様な川の合流地点にあり、広い川瀬の地形からきたのであろうとされている。

廣瀬神社
県社・廣瀬神社社叢
廣瀬神社
拝殿
廣瀬神社
本殿覆殿
廣瀬神社
大正11年奉納プロペラ
廣瀬神社
「延喜式内 廣瀬神社」扁額
廣瀬神社
御神木「ケヤキ」


 「上広瀬バス停」を降りる。手元の地図ではこの神社だけは記載がなく直感で探してやろうと思っていたけど、小さく矢印で「廣瀬神社」と書いてありようやく安心する。正直なところこのバス停すらも直感だったりする。

 予想よりもひろびろとした参道と、ゆったりとした境内。おばちゃんやおじちゃんがくつろいでいる。私の好きな神社の光景がひろがる。

 境内の御神木は「ケヤキ」。武蔵野にはケヤキが多く、埼玉県木もケヤキ。ゆえに神社もケヤキが多い。この廣瀬神社のケヤキも大層立派で樹齡800年と言われている。
 わたしがケヤキに見惚れていると、境内で三脚を立てている(さきほどから気になっていた)夫婦(定年前後の夫妻)に呼ばれる。何かと思いつつ近づくと、木の先を指さしつつ「ほらっ」と言う。その先には鳥がいるようだ。カメラには望遠レンズで映された鳥がいる。この鳥は「アオバズク」というフクロウやミミズクの仲間らしい。話を伺うとこの廣瀬神社境内で育っていたらしく、雛鳥も大きく育ちこれから巣立とうという時期らしい。しばらくは言葉は要らなかった。ただ神社の境内で鳥を見つめる夫妻と、神社をたまたま参拝した私。神社が導いた不思議な空間が出来上がっていた。豊かな自然に囲まれているという何よりの証拠の中でまどろむ。思えば野生のフクロウ系の鳥を初めて生で見たような気がする。念のため確認しておくとここは埼玉県狭山市であった・・・。
 夫妻からいろいろ話を伺う。「あそこにプロペラがあるでしょう。」そういわれた私は「???」な状態。神社にプロペラはさすがに連想できなかった。いわれてみれば拝殿の左側に吊されている。木造のプロペラには大正11年1月奉納とある。奉納者は帝國陸軍の兵曹長。どうやら陸軍の航空機のプロペラらしい。いくら私でもプロペラから飛行機をさぐることは不可能。明治44年に国内初飛行が所沢で行われ、大正8年4月に所沢に陸軍飛行学校が開校以来、この周辺は「航空都市」となっている。大正11年奉納という年代から察するに、黎明期の日本航空産業を支えたであろう航空機には間違いなく、そんな面影がこの廣瀬神社に残っているというのもなにやら不思議であった。
 なにかとお世話になった夫妻に頭を下げて廣瀬神社をあとにする。そのころには、一番最初の「ブザー事件」での悪印象は吹き飛んでいた。


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