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「神のやしろを想う・日光宇都宮編」

前篇・日光1 / 中篇・日光2

目次
後篇・宇都宮
宇都宮へ
蒲生神社」(県社・蒲生君平命)
二荒山神社」(国幣中社・ふたあらやま神社・式内明神大社論社・下野一の宮)


宇都宮へ
 日光の駅前に歩いて戻る。これから宇都宮に行こうかと思うが、ただ単純にJR日光線に乗るのでは面白くもない。だから東武日光線に乗ろうかと思う。ただ、東武では宇都宮に行くのに手間がかかる。東武では東武日光−新栃木−東武宇都宮と手間がかかる上に金もかかる。なんとなくJRの日光駅まで歩くが電車が来ない終着駅の様相でまったく寂しさにあふれる雰囲気。一方の東武日光は頻繁に電車が運行されており休むいとまがない。圧倒的に東武の街であった。
 東武電車にのる。私の住まいも東武電車の沿線のため何も面白いことはない。いつも乗り慣れた電車に乗るのは面白くないが、東武のようでも首都圏の通勤電車東武とは様相が違い、JRを往復するよりかは幾分ましかとは思う。
 乗った良いが、すぐに降りる。接続の関係上、東武下今市駅で降りる。行きのJRでは今市で「東武鉄道乗り換えです」とアナウンスしていたが、東武では全くJRの存在を匂わすこともない。私はここで降りてJR今市駅まで歩く。意味がない行動のようでバカバカしいかぎりだが、杉並木を経由するように歩く。歩いてJR今市駅で日光からやってくるはずの電車を20分ばかり待つ。無駄なような気がするが、鉄道趣味者はこういう意味のない行動が好きだったりする。

レトロ調でステキなJR日光駅(笑)
レトロ調でステキなJR日光駅(笑)
東武日光駅
東武日光駅
中央は東武日光駅。遠望左から男体山・太郎山・大真名子山・女峰山
中央は東武日光駅。
遠望左から男体山・太郎山・大真名子山・女峰山
日光杉街道(下今市付近)
日光杉街道(下今市付近)


 13時08分。いつきても薄暗いJR宇都宮駅ホームに入線する。薄暗いのは上に新幹線が通っているために高架の下となっているからではあるが、私は宇都宮で降りたこともないので、街のイメージそのものまでもが「薄暗い」と感じてしまう。

 行き方がわからないのはいつもの通り。バス停に行ってみるとありがたいことに市内特別地域が100円で乗れるとのこと。折角なのでバスに乗って「栃木県庁」まで行く。そこから歩くことしばしで「蒲生神社」がある。



蒲生神社(県社・蒲生君平命)
御祭神・蒲生君平(1768−1813)

 蒲生君平。名は秀実。明和5年(1768)宇都宮の灯油商福田又右衛門の子として生まれた。先祖が会津城主蒲生氏郷の落胤であったことから蒲生と姓を改め、国文・古典を研鑚し、幕府政治を朝廷を中心とした文治政治に改めるように主張した人物。
 蒲生君平といえば「寛政の三奇人」として高山彦九郎、林子平と共に良く知られている人物。歴代天皇の御陵荒廃を嘆き、その復興を志して皇陵を探査修復し「山陵志」(1801)を著した。蒲生君平は世に奇人として知られ、勤王家として精神文化、勤王思想を導いた観が強い。しかし、考古学・歴史学史上では「前方後円墳」という現代では普遍的となった用語を最初に使用し、歴代天皇陵の所在を調査したという面から非常に評価が高い人物でもある。
 余談だが高山彦九郎は尊王経世家として世を騷がし、三条大橋で御所を拝している姿や久留米での憤死が有名ではあるが、全国を遊説し明治維新の礎となった人物。ちなみに大政奉還成立は彦九郎憤死後の74年後であった。(高山彦九郎に関しては、吉村昭『彦九郎山河』を参照)林子平は海外事情に精通し「海国兵談」(1791)で的確な指摘を行ったが、幕府の怒りを買い、投獄された人物。
 かれらは、いづれもたぐいまれな教養人であり一級の知識人であった。この三名を「寛政の三奇人」と称するが、奇人=変人という意味合いではない。奇人というのは「類い希な人物」「人並み以上に優れた奇なる人物」という意味合いであり、敬意を表した表現である。かれらの活動は寛政年間という早い時期であり、それらの動きが蓄積されて幕末へと導かれたといってもよい。それほどにかれら「寛政三奇人」が幕末に及ぼした影響は強かった。ところが教科書的にかれら「憂国の志」を持った人物を「変人」あつかいしている表現が多い。それは戦前に為政者側に都合の良いように評価がゆがめられ、戦後に評価が急変した幾多の人物らに繋がる。
 蒲生神社は明治15年に計画され、大正元年に「蒲生会」が結成され神社建立の為の運動が本格化。大正15年に社殿が竣工し、昭和15年に県社に列せられている。
 

県社・蒲生神社
県社・蒲生神社
蒲生神社社殿
県社・蒲生神社


 格別な意味を持たせてこの神社を参拝しようと思ったわけではない。参拝に思想的な意味合いは持たせていない。あえていうなら「憂国の志」でもって活動し、天皇陵を調査してことに敬意を表し、考古学の世界で名前を残す蒲生君平の面影に接してみたかった。先人たちの面影のひとつを感じる一装置として・・・。
 宇都宮市内からは若干はずれた高台に位置している神社。高台の上は意外と広めの空間が広がっており、心地よい風が吹き抜ける奧に社殿があった。不思議な環境で社殿後方の森を抜けると墓所があり、カラスが乱舞していた。社殿の前にはこれも不思議なことに山梨勝之進元海軍中将・元学習院院長が撰文した昭和39年の碑があった。なんだかよくわからないが、味気ないような、奧深いような不思議な感覚で参拝する。なによりも、いまさらながらではあるが蒲生君平というのが不思議だった。
 本来の目的地である二荒山神社(宇都宮の神社は「ふたあらやま神社」と読む。日光は「ふたらさん神社」)に行こうかと思う。場所は蒲生神社から南の高台にあるので、ここからでもよく見える。




二荒山神社
(国幣中社・ふたあらやま神社・宇都宮二荒山神社・式内明神大社論社・下野国一の宮)

主祭神・豊城入彦命(とよきいりひこ命・崇神天皇御子・毛野君の祖・詳細
配祀神・大物主神・事代主神

 崇神天皇第一皇子であった豊城入彦命が東国に下向し毛野国(下野上野両国)国土を開拓し産業を興した。その時に豊城入彦命が大和国三輪の神である大物主神を祀ったとも、豊城入彦命の子孫であり仁徳天皇期に下毛野国造となった奈良別王が先祖の豊城入彦命を下之宮の地に祀ったことに始まるともいう。のち承和5年(838)に奈良別王の子孫であった温左麿が現在の高台の地に移した。天慶3年(940)には平将門鎭定に際して正一位に列せられている。平安期以降、芳賀氏そして宇都宮氏が支配するところとなった。天正年間(1573−92)に小田原北条氏が北関東に侵攻した際に宇都宮国綱が攻められ、社殿を焼失。慶長2年(1597)に宇都宮氏が廃絶し社領ことごとく没収。しかし関東に移封となった徳川家康に保護され、その後歴代将軍から安堵された。
 明治元年の戊辰戦争で社殿を焼失。明治10年に社殿が再興。明治4年に国幣中社に列せられたが、日光二荒山神社との間に「延喜式内社認定問題」がおき、明治6年2月に宇都宮二荒山神社は式外社とされ県社に降格。以後、関係者によって式内社認定運動が必死に行われ、明治12年5月に式内外未定社とされ、明治16年5月に国幣中社に復格した。(以上の話は一切神社由緒には記されていません。やはり・・・ねえ/苦笑)
 明治以降、延喜式内明神大社、そして下野一の宮として日光と宇都宮の二荒山神社が論争されているが、確定させることは現状では不可能。ただし、一の宮は流動的なので二社あっても問題はない。式内社は一社のみではあるが。
 二荒山神社別号を「宇都宮」「宇津宮」ともいう。宇都宮の名義は諸説有り、下野国「一の宮」転化説、まつろわぬ者を平らげる征討の宮がいます「征討宮(うつ宮)」説、日光から移し祀った「うつしの宮」説、河内郡の樹木の鬱蒼としげる丘状に鎮座する「内の宮」「鬱の宮」「堆の宮」説等があるという。

下野国一の宮。宇都宮二荒山神社
下野国一の宮。宇都宮二荒山神社
宇都宮二荒山神社社殿
宇都宮二荒山神社社殿
宇都宮二荒山神社・神楽殿
宇都宮二荒山神社・神楽殿
宇都宮二荒山神社・下之宮(ほぼデパートに同化/笑)
宇都宮二荒山神社・下之宮(ほぼデパートに同化/笑)


 表がやかましい。なにやら警官多数でお祭騷ぎ。どうやら交通安全の一環としてイベントが開かれているらしい。神社を参拝する予定の私もしばしば鑑賞して、空気が落ち着いたところで参拝開始。石段の上に鎮座している楼門は残念ながら修復工事中でシートに覆われている。ときどき魔が悪いらしくて工事に遭遇する。しかし神社保全の為なのでいたしかたがない。宇都宮の中心に位置している神社であり、市内を一望できる高台にある。こんな好立地に恵まれているゆえに、市民の憩いの場として人びとは思い思いにくつろいでいた。
 下之宮に行ってみる。本宮とは全くの正反対の状況に置かれていて、西武デパートとパルコのはざまに埋もれて非常に息苦しい場所に鎮座していた。かくも極端な状況というのはもの悲しさを通り越して笑いたいぐらいであった。

 もう、筆も進まなくなってきた。最近は持久力がなく、最後の方になると文章を書くのがおっくうになり簡略化されてしまう。もはや、筆を置くべき状況にきたらしいので幕切りにする。



あとがき
 諏訪大社編を脱稿した後の一週間(実質4日間)で完成。正直なところ、神のやしろシリーズを書くのが厭きた。毎度、同じようなことを発言しているわりには、それでいてきちんと執筆している(笑)。諏訪を書いた後に書きたくないといいつつも、速攻で脱稿(苦笑)。やればできるじゃん・・・。さいわいにして、神社のストック(参拝神社)がなくなったので、本当にしばらく書くネタがないです。
 どうもこの作品は末期に文章に張り合いがなくなってきた。今回は写真の比重も増えてきたし、今後は諏訪や日光・宇都宮で採用した分割スタンスが主流になるかと。
 今回は見事に「滝尾神社」に惚れてます(笑)。うすら馬鹿げた観光都市「日光」にはろくなものはないけど、歴史遺産都市「日光」には人目につかない良い神社がありました。

参考文献
角川日本地名辞典 栃木県 角川書店
日本建築史圖集 日本建築学会 彰国社
他、各神社御由緒書き、及び案内解説版等




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