「郷土の鎮守様〜西浦和編〜」<平成18年3月>
その1
「下大久保ノ諏訪神社」「塚本ノ神明神社」「五関ノ稲荷神社」「宿ノ大久保神社」「島根ノ氷川神社(大宮)」
その2
「神田ノ月読神社」「神田ノ身形神社」「上峰ノ諏訪神社(与野)」「上大久保ノ氷川神社」「栄和ノ東神社」「大久保領家ノ日枝神社」
「神田ノ月読神社」
(埼玉県さいたま市(浦和)桜区神田(じんで)・村社)
御祭神:月読命
当地は鴨川左岸の自然堤防上に鎮座する水田地帯。
神田とは、古来伊勢神宮の神領であったことに由来するという。
創建は第6代孝安天皇20年の創建とされ、当地で収穫された初穗を浦和の調神社に納入して伊勢神宮に奉納していたという。
往時は与野苗塚に鎮座していたため天正年間(1573−92)に現在の月読社に移り、俗に氷川神社と称された。
中世以来、月待ち信仰と調神社が同一体化し、調神社は月読神社とも称されたことから、当地の関係の深い調神社を勧請して農耕神としたであろうと推測される。
明治期には氷川神社として神田村の村社となったが、明治23年に月読社として改称。その時に祭神を須佐之男尊を改めて月読命とした。しかし現在でも当社を氷川神社と呼称することが多い。
氏子地域は桜区神田。
今はよく整えられた住宅地のなかに鎮座。桜区神田地域でも北端付近に位置している。社殿は南面。駅は与野本町駅から1.5キロ西側、新大宮バイパスから500メートルほど西側に鎮座。
住宅地のなかであり、非常に落ち着いた佇まい。自転車でかけつけて、カバンからデジタル一眼レフを取り出すのが無粋なほどに似つかわしくなかった。
「神田ノ身形神社」
(埼玉県さいたま市(浦和)桜区神田・みのかた社・葭竹弁天社)
御祭神:多紀理比売命・狭依比売命・多岐都比売命
鎮座地の神田は伊勢神宮の神領であったとされる地。神田は月読社を村の鎮守として、当社は月読社の末社のようなかたちで祭られた神社。
須佐之男神の剣から生まれた三女神(宗像三神)を祭神とする。
在原業平は身の守りに筑前宗像大社の分霊を乞い、東国に下った仁寿元年(851)8月に行き暮れて当初の宿をとり、当社に参籠したさいに、その分霊をこの地に鎮め祀り身形神社と称したことにはじまる。
在原業平が「法祚長久歌道」の興隆を祈願し筆を地に差したところ、その筆軸が葭竹(当地は「セイコノヨシ」自生地。「西湖の葭」)に変化し群落になったと伝えられる。
江戸期には弁天社(葭竹弁天)として崇敬。
当社の神使は白蛇とされ、息を止めたまま社殿を三周廻ることが出来たら白蛇が姿を見せるという伝承があったという。
当地は「業平之古跡旧よし竹弁天」
在原業平「さしおくもかたみとなれや 世の末に 源氏栄えはよし竹となれ」
月読神社の南500メートルの地に鎮座。付近にはマンションや団地が集中している。
社殿は道に面して西面。非常に小さい。ちょうど円形の小島になっており、水が蓄えられ、葭竹がしげっている。
こぢんまりとしているが、非常によく整えられており、好感が持てる神社。
「上峰ノ諏訪神社」
(埼玉県さいたま市(与野)中央区上峰)
御祭神:建御名方命・八坂刀売命
当社の創建年代は不詳。信州諏訪大社を勧請。江戸期は上峰村の鎮守として崇敬。
西方には荒川右岸低地がひろがり、当社は大宮台地西端の高台に鎮座。当社鎮座地がちょうど高低の境目となっている。
神仏分離後の明治6年に村社列格。大正5年頃に与野鈴谷の天神社に合祀する通達が発せられるが、氏子の支援によって合祀を回避。
氏子地域は上峰地区明治期の台風では荒川周辺地域の低地が次々と洪水に巻き込まれる中で、高台にある上峰手前で洪水が留まったために、氏子民は「お諏訪様の御加護」と感謝したという。
境内には樹齢200年以上という赤松の大木等があった。しかし大東亜戦争期に境内樹木が燃料供給されるおそれがあったために、氏子達は境内の貴い樹木が燃料にされるのを避けるために、緊急策として境内老木を伐採して社務所を建立することになった。木々は早速に伐採されたが物資不足で戦争中は建築がはかどらずに戦後の昭和23年にようやく社務所が完成したという。戦中エピソードの悲劇のひとつであろう。
新大宮バイパスから別れる賑やかな道路に面している。だらだらと続く斜面からのぞむ高台に鎮座。与野本町駅から南西に1キロ。
浦和地区を自転車で走っていたつもりだったが、気が付けばここは与野地区だったりもする。もちろん自転車でこんなところまで走ってきたのははじめて。その気になれば、なんとかなるもんだな、と呆れてみる。家から10キロほどの距離なら自転車でどうにでもなる距離だと実感。もちろん往復しなければ行けないのだが。
「上大久保ノ氷川神社」
(埼玉県さいたま市(浦和)桜区上大久保)
御祭神:素戔嗚尊・大ヒルメ命
鴨川左岸の自然堤防上に鎮座。中世期の大窪郷。
古記によると正応二年(1289)から「五九の市」として五・十五・二十五日は大久保領家ノ日枝神社、九・十九・二十九日は氷川社で市が立ったと伝わっている古社。荒川舟運の恩得に預かっていた市と思われる。
明治六年に村社。同40年に上大久保天神に鎮座していた無格・天神足立合社を合祀。
もともとは埼玉大学の敷地内に鎮座。昭和36年に周辺一帯が埼玉大学の敷地土地して使われることが決定したために、大学建築に伴い昭和40年に工事が開始され昭和41年2月に遷座。大学構内には旧社地の神社の杜だけはそのまま残されており憩いの場として学生達に親しまれているという。
本殿は一宮氷川神社の旧本殿を譲り受けたとされている。本殿の建立は桃山期から江戸期初期と推定。二間社流れ造。再度に渡る移築で改変があるが貴重な伝承として保存価値が高い。
埼大通りを自転車ではしる。上大久保の合同庁舎の裏手に氷川社が鎮座している。社地の入口は西南をむき、社殿は東南を向いている。ちょうど参道鳥居から社殿をみると、その新しめな覆殿に覆われた姿をみることができる。
旧一宮氷川の本殿を移築されているが、その姿は覆殿の中。ただその趣を感じることとしよう。
「栄和ノ東神社」
(埼玉県さいたま市(浦和)桜区栄和)
当社は政府の合祀政策に伴い、明治41年に「栄和」「道場」「山久保」「中島」の鎮守として新たに創建された神社。
栄和ノ村社稲荷社、栄和ノ村社明神社、道場ノ村社天神社、山久保ノ無格社稲荷社、中島ノ村社荒神社の五社を移転合祀し、社号を東神社とした。
東とは栄和と中島の境にあり、栄和の東耕地の地名をとったものという。
もっとも道場ノ天神社や中島ノ荒神社は書類上の合祀であったり、合祀後に元境内に再建されて祀られている神社もある。
氏子地域は栄和・道場・中島・山久保の四大字地域。
栄和は明治十年に千駄村と西連寺村が合併した村。鎮守は千駄は神明社、西連寺は稲荷社であったが、当社創建後は合祀され跡地は現存していない。
道場は畠山重忠が道場を開いた地とされる。鎮守の天神社は書類上は東神社に合祀されたが、現在も地元に鎮座し崇敬を集めている。
中島の鎮守である荒神社は、いったんは合祀されたが、のちに氏子の要望で元の鎮座地に再建。
山久保は古くは山窪ともいわれ、鎮守は稲荷社。東神社合祀後、神社跡地は現存していない。
埼大通りから栄和小学校のほうに南下すれば、小学校の北東に神社が鎮座している。極めて日常的な住宅地。小学生が鬼ごっこをしていたりする。そんな神社がほほえましい。私がカメラを構えれば、退いてくれる気遣いも嬉しい。
「大久保領家ノ日枝神社」
(埼玉県さいたま市(浦和)桜区大久保領家・領家の山王様)
御祭神:大山咋命
鴨川左岸の自然堤防上に鎮座。中世期の大窪郷。
古記によると正応二年(1289)から「五九の市」として五・十五・二十五日は大久保領家ノ日枝神社、九・十九・二十九日は氷川社で市が立ったと伝わっている古社。荒川舟運の恩得に預かっていた市と思われる。
創建年代は不詳。明治六年に村社列格。
社頭にそびえる大ケヤキは樹齢1000年とされる老木。幹まわりは9.4メートル、根まわり14メートル。樹幹の太さは県内最大のものであり埼玉県指定天然記念物。伝承によると若狭の八百比丘尼が植えたものと伝わり、「はばき様」とも呼ばれていた。
埼玉大学の北側に鎮座。もともと日枝神社と氷川神社が南北に鎮座していたのだが、南の氷川神社は日枝神社の東側に遷座し、南側は埼玉大学となってしまったわけである。
入口に大ケヤキがあり、細い参道のむこうに社殿がある。社殿で参拝して、そのあとは大ケヤキをグルグルグルグルとして四方からその勇姿を拝む。大ケヤキに出会えたのが何よりの収穫かもしれない。この神々しい姿を、日常的な住宅地のなかで垣間見ることが出来るのがなによりも嬉しかった。
参考
各神社由緒案内等
「埼玉の神社」埼玉県神社庁神社調査団編/埼玉県神社庁
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