「武蔵の神社風景」
目次
「新田神社」/「大鳥神社(目黒区)」
今回は単発編です。さしあたり新田神社に行きたかったのだ。
「新田神社」
(府社・東京都大田区矢口鎮座)<平成16年5月参拝>
祭神:新田義興公(にったよしおき・新田義貞の次男)
由緒
新田義興は建武中興の立役者であった新田義貞の次男。元服の際に後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として義興という名を給わる。
越前にて延元3年(1338)に新田義貞が戦死すると、義興は東国の新田一族を率いて南朝に尽力。しかし正平13年(1358)に鎌倉公方足利基氏の執事であった畠山国清は新田義興の勢力を恐れ、竹沢由衡・江戸高重を潛入させ、謀略によって多摩川「矢口渡」で義興は壮絶なる最後を遂げられた。
その後、義興の怨霊が現れ、人びとを悩ませたために、義興の御霊を鎮めるために義興の墳墓前に小祠が建てられ「新田大明神」として祀られたことが「新田神社」の起源とされる。
江戸期にはいると徳川氏が新田氏の子孫であるということもあり、武家信仰の神社として信仰された。また、蘭学者である平賀源内が新田神社に参拝して淨瑠璃歌舞伎「新田矢口渡」として脚色もしている。
明治4年に品川県によって社殿が造営され明治6年(1873)に府社列格。明治42年には勅命によって新田義興公に従三位が追贈されている。
社殿は戦災焼失により昭和35年再建。
新田神社七不思議というのが伝えられている。
1.義興公自刃後、七日七晩、雷が鳴り響き、謀略をしかけた江戸遠江守が矢口渡に再びさしかかると、義興公の怨霊が黒雲の中からあらわれ、江戸遠江守は落馬し狂い死にしたという。
2.神社後方の御塚は義興公の遺体を埋葬した円墳であり、立ち入ると「祟り」があるとされる。
3.御塚中央の船杉は義興公の乗られた船と鎧を埋めたものが杉になったものという。(雷にて船杉は焼失)
4.御塚後方の竹は源氏の白旗を立てかけたものが根づいたものであり、旗竹と呼ばれ、雷が鳴るとピチピチと割れたという。
この旗竹は決して神域を越えることなく、この不思議な竹で平賀源内が魔除け「矢守」をつくったという。
5.謀略を企てた畠山一族や末裔が新田神社付近に来ると、きまって雨が降り、「狛犬」がうなったという。
6.樹齡約700年のケヤキの神木は落雷や戦災の被害にあい真っ二つに割れてしまったが、新緑の季節には青々と葉を付け、古木上部には不思議な「宿り木」を寄生させている。
7.悪計に加担した矢口渡の船頭が、のちに後悔し、義興公を祀る地蔵を建立したが、その地蔵(頓兵衞地蔵・とろけ地蔵と呼称されている)が崩れて溶けてしまったのは、義興公の怨霊だという。
新田神社 |
新田神社境内 |
神木ケヤキ・樹齡約700年 |
拝殿 |
新田義興公御塚・義興公の遺体を埋葬したところ
平賀源内が神域の篠竹をもちいて魔除け「矢守」を
つくったとされている
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「うなる狛犬」
謀略を企てた畠山一族や血縁者末裔が神社に近づくと
きまって雨が降り、狛犬がうなったとされている
戦災にて一体は破損 |
新田神社。
東急線「武蔵新田」駅で下車し、ちいさな商店が密集する通りを250メートルほど歩むと、新緑に被われた境内に接することが出来る。社地は商店街、住宅街に埋もれ、それでいて神社としての気配を失うことなく、静々と鎮座していた。
境内には義興公にまつわる逸話が多く伝えられており、南朝好きの私の心をかなりくすぐってくれる。新田一族に思いを寄せて、予定以上の長居をしつつも私は悠々とした時間をすごすことが出来た。
「大鳥神社」
(村社・東京都目黒区下目黒鎮座)<平成16年5月参拝>
祭神:日本武尊
相殿:国常立命・弟橘媛命
由緒
景行天皇期の東征において日本武尊は、当所の国常立命をまつった社に祈願をされ、東夷平定後に神恩に感謝し神剣を奉献したという。
そののち、日本武尊と弟橘姫命を合祀し大同元年(806)に社殿を造営したという。
JR目黒駅から西に道なり700メートルほどのところに鎮座。「山手通り」が横断し、都道312号と交差する地点。社地前はかなり騒々しい環境。社地はさほど広いわけでもないが、立ち寄る人びとは多く、地域鎮守として愛されている気配を感じた。
<参考文献>
「神社辞典」東京堂出版
神社由緒書き・案内看板
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