「男衾の式内社」
<平成17年5月>
「その1」
「小被神社」/「出雲乃伊波比神社」
男衾の式内社は3年半前に訪れていた。ただ、そのころの私はまだ無知で武蔵国式内社をすべてめぐるなんとことは夢のまた夢と考えていた頃。
それほどの熱意があったわけでもなく、サイトに紹介していた内容も稚拙だった。
今回は改めて再訪して再掲載、というわけ。
「小被神社」<村社・おぶすま神社>
(大里郡寄居町富田鎮座)
祭神:
邇邇藝命(ニニギ命)・木花佐久夜毘売命(コノハナサクヤ毘売命)・穂穂手見命(ホホデミ命)
第27代安閑天皇の時に、土地の豪族富田鹿(とみたろく)が地主神である小被神を祀ったことにはじまるという。恐らくは男衾郡の部民を支配した壬生氏の祭祀する神社とされる。しかし壬生氏の本拠地摂津難波から持ち込んだ神ではなく、古くからの土地神を土地豪族が祭祀していたのを壬生氏が政治的に協力する立場にあったのだろう。
鎌倉期には武蔵七党の猪俣党に属する男衾氏の崇敬をあつめていた。
もともとは塚越(現在地よりも南西に約800M・不動寺境内)に鎮座していたが、天正年間の荒川大洪水によって、赤浜村民が隣地を耕作地として与えられて移転。このときに赤浜村民が村境を超えて富田村内の土地を領有しようとしたため、寛文9年に赤浜村との村境に当社を鎮座させることによって、境界を明らかにさせ、隣村の横領を防いだという。
明治維新時に活躍した山岡鉄舟が当社の社号額を揮毫したが、当時誤って「小被神社」とすべきところを「男衾神社」と依頼してしまったために社殿に掲げることができずに、社務所内に社号額が掲げてあるという。
明治40年に近隣の無格社10社を境内に合祀している。
社地遠望 中央の樹林が境内 |
正面参道 |
境内入口 |
石垣が直進できないように組まれている |
境内内側から。なかなか面白い入口 |
境内は木々が伸び伸びと育っている。 |
本殿覆殿 |
境内社も覆殿 |
東武東上線男衾駅から、歩くこと東に700メートル。
そんなに遠いわけではない。そして再訪神社だから場所はわかる。それなのに何故か道に迷う。大通りを素直に歩けば問題ないが、それは迂回路となる。なんとなく面白くないの直線まっすぐに歩いていたら農道となってしまうのだから、なかなか難しい土地だ。
ちなみに「おぶすま」とよむ。神社名も「おぶすま神社」。ただし漢字は違う。
3年半前。この神社は「薄暗いな、さみしいな」程度の感想しかなかった。
そして再訪してみたら、まるで心持ちが違う。異常にはやる心と、そして躍動する心。なぜかうれしくて、ドキドキする。
この気配。すごく好きだ。確かに神社境内は薄暗い。
しかし、異様なまでに味わいがある。神社としても覆殿で単調ではあるが、本殿覆殿、そして摂末社も覆殿。ある意味で圧巻であった。本殿覆殿が照らすむき出しのライトの暖かさ。夕暮れ時(参拝時は17時すぎ)の淡く、そして眩しい日差し、木漏れ日。
そしてなによりも入口の佇まいがよい。
鳥居の前に置かれた直進進入を禁ずる石垣。こんな造型を思えば私は見たことがない。
非常にレベルの高い神社。普通の間隔ではつまらないかもしれないが、神社趣味的に接すると、楽しくなる境内。
ローカルな気配であれど、そんな気配が微笑ましい。
大切にしたい神社であった。すくなくとも東武沿線住民としておすすめ神社を取りあげるなら、カウントしてあげたい神社であった。
「出雲乃伊波比神社」<郷社>
(大里郡寄居町赤浜鎮座)
祭神:須佐之男命・三穗津姫命・天照大神・誉田別命・天児屋根命他
赤浜は古くからの鎌倉街道に沿った宿駅。ただもともと赤浜は荒川近くの集落であり、洪水によって天正8年(1580)に、旧地より30メートルほど標高の高い現在地に移ってきた。
当社も荒川岸の現在の花園橋がある付近に祀られていたが、集落移転と共に遷座。旧地付近は土地改良により記念碑と宮乃井という井戸が名残をとどめるのみという。
古史料は洪水によってことごとく流失。詳細は不明。
源頼義が奥州征討の戦勝祈願を行ったとされ「赤浜八幡」「白旗八幡」と呼ばれるようになり、以来「八幡社」として崇敬。明治33年に「出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)」という旧名に復したという。明治40年に近隣の無格社10社を合祀して現在に至っているという。
本殿は文政3年(1820)に建立。箭弓神社の棟梁が指揮したという。拝殿は明治14年の再建。
武蔵一ノ宮である氷川神社(成務天皇のとき、夭邪志(むさし)国造・兄多毛比命(えたもひのみこと)が出雲族をひきつれて武蔵国に移住し祖神を祀って氏神とした神社)と同じように出雲系氏族が祖神を祀った事に始まって、出雲の名前が冠せられたのだろう。
正面 |
郷社・出雲乃伊波比神社 社号標 |
参道 |
拝殿 |
拝殿前の狛犬が縦になっているが珍しい |
本殿 |
小被神社から北に200メートル。道路一本で結ばれており、小被神社の鬱蒼とした樹林の裏手をすすめば当社が鎮座している。
立派な社号標と鳥居を抜ければ、よく整った参道の向こうに社殿が建立している。
なにやら面白い。大抵の狛犬は社殿に対して身体を横に向けている。当社は、狛犬たちは身体を縦にしており、社殿に対しては直角。私は、狛犬メインで神社を詣でていないので、普段はあまり着目していないが、なかなか珍しい光景かな、と神社参拝歴の長さがそのことを直感する。
男衾のこの狭い地域に式内論社が二社集中している。このあたりは古代から、さぞかし栄えていたのだろうな、と感じつつ、東武東上線の駅まで戻る。
私は沿線に住む住民。来ようと思えばいつでも来られる。
またそのうちのんびりと参拝したいな、そう思わせる気配が男衾の式内社からは漂っていた。
参考
式内社調査報告 第11巻 東海道6 昭和51年 皇學館大學
武蔵の古社 菱沼勇著 昭和47年 有峰書店
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