神社紀行〜全国編
神社紀行〜武蔵国編
武蔵国延喜式内社
神社御朱印
記紀神話の神様
神社つれづれ
靖國神社を想ふ
かみちゅ!舞台探訪参詣記
武蔵調布の神社歳時記
下総銚子の神社歳時記
 
掲載社一覧
掲示板
りんく集
 
Google

WWW を検索
サイト内検索

−表紙に戻る−


「京王線沿線の神社散歩〜北野府中他編」

<平成21年8月参拝記載>


延喜式内社多摩郡8座のうち京王線沿線の神社は比較的数が多い。

京王本線
調布駅   ・・・布多天神社・調布ノ青渭神社・調布ノ虎狛神社
府中駅   ・・・大国魂神社・天神社
中川原駅  ・・・府中ノ小野神社
聖蹟桜ヶ丘駅・・・多摩ノ小野神社
北野駅   ・・・天満社

京王相模原線
京王よみうりランド駅・・・穴澤天神社
稲城駅       ・・・長沼ノ青渭神社(南武線稲城長沼駅)・大麻止乃天神社(南武線南多摩駅)

このなかでも式内社論社としての根拠が薄く、一般的には式内社論社として捕らえられていない神社であった「天神社」「天満神社」が私の中では未参拝であったので、この機会に訪れてみる。
あわせて再訪をしたかった「武蔵一の宮 小野神社」も訪れ直ししてみる。

北野ノ天満神社」「多摩ノ小野神社」「府中宮町ノ天神社・日吉神社」「瀧神社




「北野ノ天満神社」 (東京都八王子市北野町鎮座)

祭神:菅原道真公

横山党の一族が京都北野天満宮をこの地に勧請し「北野」の地名となる。
天正十九年から萬延元年まで270年間将軍家より5石の社領を受ける。
毎年一月に徳川将軍への武運長久の祈祷札を献上する慣例があった。
東京都神社庁

境内には市史跡「北野石器時代住居跡」がある。これは約4000年前の縄文時代後期の住居跡。

当社を延喜式内社の大麻止乃豆乃天神社の論社とする説もあるが「式内社調査報告」には当社に断定するのは難しいとの記載されている。


社頭前の参道跡か?

北野天満神社

左:北野天満 右:塩竈神社 

北野天満神社本殿

北野石器時代住居

境内の神池

唐突だったけど、いくつか行きたい神社があった。
京王線沿線で、式内社の論社とされている場所がいくつか。その論拠は薄いけれども、ものの本(式内社調査報告)に書いてあるから訪れてみた次第。もっとも記載内容も論拠不明瞭とのことで、式内社かどうかは難しいところ。境内の奥に「石器時代の住居跡」があることから、地域としては古くから開発されていた事がうかがえるので、天満菅原道真公が祀られる以前から、なんらかの祭祀が行われていたのかもしれない。

京王線北野駅から250メートルほど北西にのぼったところに鎮座。社地後方には「八王子バイパス」が走るも境内はとても静かな雰囲気。後方の喧騒さは別世界のようだった。
社殿は本社たる北野天満神社と、摂社の塩竈神社が並立している。この規模の神社で、同じような規模が並立している神社は珍しい。
境内には鳩がノンビリとくつろいでおり、ゆったりとしていた。




「多摩ノ小野神社」 (武蔵国一の宮・式内論社・旧郷社・多摩市一之宮鎮座) 前回掲載

御祭神
天乃下春命(アメノシタバル命・ニギハヤヒ尊に供奉した神・オモイカネ神の御子(アメノシタバル命が秩父国造の祖ともいう)ともいう)
瀬織津比売大神(セオリツヒメ大神)
イサナギ尊・スサノヲ尊・オオナムジ大神・ニニギ尊・ヒコホホデミ尊・ウカノミタマ命

 小野神社の創始は安寧天皇十八年二月(約2000年前)、または八世紀中頃と言われているが、いずれにせよ定かではない。光孝天皇元慶八年(884)には正五位上に神階が進められた記録があり、延喜の制では式内小社として名を連ねている。
 もともと多摩郡の小野牧は陽成上皇の御料牧であったが、承平元年(931)に敕旨牧に編入されている。この牧を経営し、別当に任じられた小野氏が奉斎してきたのが小野神社であった。中世には武蔵国衙に近在する神社の筆頭として、また府中の大国魂神社(武蔵総社六所宮)所祭神座の第一席に「一の宮 小野大神」と記載されることから「武蔵一の宮」とされている。
 多摩市(南多摩郡)の小野神社小野神社は神域3800平方メートル、大正十五年の失火後の再建という。


「一ノ宮の渡し」
このあたりにかつては「小野神社一の鳥居」があったと伝えられている
付近は「鳥居戸」「鳥居道」と云われていた
ケヤキの木は小野神社の御神木

御神木

小野神社脇参道

小野神社正面

小野神社随神門

随神門

小野神社境内

小野神社拝殿

扁額

小野神社本殿

小野神社に訪れるのは二回目だった。京王線の北野から府中に行くのであれば、途中の聖蹟桜ヶ丘で途中下車して急に行きたくなったのだ。
最初に訪れたのは平成14年だったから、かれこれ7年ぶり。神社参拝を親しむようになって最初の頃の参拝だった。そう考えると月日のたつのは早いもの。

聖蹟桜ヶ丘駅から、北西に約400メートル。「神南せせらぎ通り」という小道をいくと神社に到達できる。脇では水が綺麗に流れている小道。鯉や小魚も泳いでおり、眺めているだけで涼しげで気持ちよかった。
ちょうど、「納涼盆踊り」が町内会で行われるらしく、境内はそんな舞台や提灯の準備がされていた。が、境内は無人。土日の夜に開催のようで私は日曜日に訪れたのに、まった無人というのがある意味で「小野神社」らしかった。というのも、この神社は神社の規模とはうらはらに普段から無人で社務所も人がいない神社なのだ。
提灯をよく眺めてみると、地元の商店が名前を連ねており町の行事として根付いている感が感じられて好ましかった。なかには本来は神社とは対極にある団体も提灯を奉納しており、そこだけはさすがに違和感を感じまくりではあったが。

あい変わらずに一の宮らしくない「武蔵国一の宮」。この雰囲気が逆に私には好感触だったりする。





「府中ノ天神社・日吉神社」 (大国魂神社境外末社・府中市宮町鎮座)

境内の天神社を式内社大麻止乃豆乃天神社とする説もあるが論拠不明。
日吉神社の由緒は不明。

当地を「天神山」と称し、大国魂神社の末社である「天神社」が鎮座する事に由来する。別名を「国造山」ともいう。
天神社は「てんじんじゃ」として普通は菅原道真を祀る「天満社」と混合される事が多いが、当社は「あまつかみのやしろ」として少彦名命を祀っている。



日吉神社

日吉神社

日吉神社裏の天神社

府中に戻る。ここにも延喜式内社の論社とされる神社があった。もっとも、例のごとくで論拠不明瞭ではあったが。
京王線の支線。競馬場前駅で降りる。競馬開催日であれど、もう夕方なので帰る客のみでにぎわう駅。
そこから競馬場をながめつつ南西に200メートルほど歩くと「天神坂」と呼ばれる坂があり、その脇から神社に登る入口がある。
その上に鎮座しているのが「日吉神社」。あれ、天神社はどこだろう?と思いつつも、境内にはガールスカウトのみなさんが集会所に使っていたらしく賑々しい。日吉神社を眺めて撤収してしまった。
帰宅後に調べ直しをしてみると、日吉神社の境内に、天神社があるらしい。完全に見落とし。しょうがないのでここだけは後日再訪し直しをしたのだ。あくまで式内論社は「天神社」ゆえに、天神社をみていないとはじまらないのだ。もっとも天神社を見たところで、それ以上の話題はないのであるが。




「瀧神社」 (大国魂神社境外末社・府中市清水が丘鎮座)

祭神:賀茂別雷命・玉依姫命・賀茂健角身命

境内の滝が絶える事がないので瀧神社と称し、約600年前に創立した神社。大国魂神社境外末社で5月5日の例大祭神事に奉仕する諸役の人々及び神馬がこの瀧にて心身を清めてから大祭が始められる。


瀧神社

瀧神社

瀧神社 お滝

御神木のケヤキ 府中の名木百選 樹高18m・幹周4.3m

東京競馬場の東側に歩く。瀧神社は私はまったく知らなかったが、嫁のほうで水が綺麗な神社として話題になっていたことを知っており、せっかくだから足を伸ばしてみた次第。そんなわけで、実は今回も嫁と二人で神社散歩していたのだ。

東側は「清水が丘」と呼ばれる地域。それこそ「清水」の丘。ちょっとした高台になっているのだ。そんな高台のなかにおもむろに鎮座しているのが「瀧神社」。清水たる瀧が流れ出る聖域。住宅地のなかで、そこだけが鬱蒼と樹木を蓄え水を沸き出させていた。
もっとも聖域ゆえに、瀧はフェンスの中。水に直接に親しむ事が出来なかったのは残念であれど、周辺の温度は清涼としている気がする。この空間で満足しておく事にしておこう。

こののち甲州街道に散歩を続けたが、それはまた後日のレポで。

−表紙に戻る−