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「県北の神社風景・その2」
<平成15年7月参拝・8月記>

目次
白髪神社」(式内論社)
大我井神社」(式内論社)
妻沼聖天」(式内社旧跡・国重要文化財・日本三大聖天)
奈良神社」(式内社)


高城神社前のバス停から妻沼を目指す。むかしなら「東武熊谷線(妻沼線)」という電車が存在したのだが、そんな存在は地域住民ですら忘れているだろう。もっとも東武熊谷線は電車ではなく非電化線なのだが。

ちなみに東武熊谷線は全長10.1キロ。もともとは群馬県大泉の中嶋飛行場へ物資運搬・労働者輸送の為に計画され昭和18年4月に熊谷−妻沼間が開通。しかし妻沼以遠は利根川を渡り東武小泉線と連絡することが出来ずに終戦。工事再開の目途もたたず、熊谷妻沼間で運行されていたが、昭和58年に東武線内で唯一の非電架線のままで廃止された。

ちょうどころあいよく「妻沼聖天」行きのバスがやってくる。終点までバスに揺られる。妻沼という埼玉らしい場所までゆっくりと。


『白髪神社』     
(村社・しらひげ神社・大里郡妻沼町鎮座)

祭神:白髮武広国押稚日本根子命(清寧天皇)・天鈿女命・猿田彦命・倉稲魂命・須佐男之命

妻沼の地はもともと利根川の乱流地帯。利根川によっていくつもの沼ができ、女沼と名付けられた沼地を開拓して村が成立したという。
社地は利根川低地にあり、式内社鎮座地とは想定しにくく、何処の地からの遷座とみられる。
白髮神社創建には清寧天皇の白髮部(しらかべ)が関係とされている。

白髮神社
すみわたる青空。そこに小さな森がある。
白髮神社
白髮神社
白髮神社 神社というよりも祠。
それでも村落の安寧を護っている。
地域に愛されているのは、気配でわかる佇まい。

妻沼聖天前でバスは終着。この妻沼聖天というのが、実は武蔵国の式内社と密接な関係にあるのだが、妻沼聖天自体はあとで散策しようと思う。まずは、論社の「白髪神社」を目指す。
手元の地図をみながら、バス路線の延長線上をまっすぐに歩く。右に曲がらねばいけないのだが、曲がる場所がわかりづらい。そろそろかな、と交差点の先を窺うと、ちっぽけな鳥居がみえる。事前学習でちいさな祠のような社である、ということはわかっている。もしや、との感覚はこの場合は間違いではない。まさしく、このちっぽけな祠が延喜式内論社であった。利根川の壁のような土手を背負うようかの異質さと、田畑に囲まれる開放感。
ちっぽけな祠は、ちっぽけな社叢に囲まれ、そのまえにたたずむ私はなにやら楽しくてうれしくてしょうがなかった。理由はわからないし、この社が式内社のはずでもない(間違いなく利根川に飲み込まれてしまう立地環境)のだが、こんな存在が単純に愉快だった。



『大我井神社』     
(村社・おおがい神社・大里郡妻沼町鎮座)

祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命・大己貴命

鎮座地は利根川右岸の自然堤防の上。周囲は低地。奈良期に入植した渡来系氏族が、大我井の森に神社を祀ったことにはじまるという。
平安後期に当地を支配した斎藤実盛が、自らの守護神であった聖天社を勧進し、以来総鎮守として発展するが、同時に白髮神社の信仰は衰退。その後、忍城主成田氏や徳川家康によって庇護され慶長九年(1604)に再興し社殿造営(この社殿造営というのは下記の聖天宮のこと)。
神仏分離令によって、当社は明治元年12月に聖天社境内を分割し、東側に伊邪那岐神・伊邪那美神を祀る「二柱神社」を建立。聖天社そのものは聖天山歓喜院が寺院として運営。
 明治2年に社名を二柱神社から、古来以来の森の名にちなむ大我井神社と改称し社殿を造営。

大我井神社
正面
大我井神社
明和7年に建立された唐門。
もともとは若宮八幡正門。当社に合祀された
大我井神社
拝殿
大我井神社
大我井の森風景
大我井神社
本殿
さわやかに明るい、大我井の森のなかで
静かに鎮座する神社

妻沼聖天から道を挟んで向かい側の奥まったところに、「大我井神社」という式内論社がある。式内論社ではあるが、この神社単立としては歴史は明治以降に神仏分離のごたごたで成立した神社。明治のやしろではあったが、それでも時間は存在を包み、歴史的古色を生み出していた。空間はさびしげ、よい意味では開放的な神社。とにかく白髪神社にしろ大我井神社にせよ、青空がまぶしかった。

いよいよ妻沼聖天に足をすすめる。
普段の私は、あからさまに、そして露骨に寺院を無視してきたが、今回はその例からは漏れる。神仏習合的観念で考えると、どうしてももともとの式内社は妻沼聖天という結論に到達してしまうのだから。



「妻沼聖天」     
(国重要文化財・式内白髮神社旧跡地・日本三大聖天のひとつ・埼玉県大里郡妻沼町妻沼鎮座)

正確には「妻沼聖天山歓喜院」という。高野山準別格本山であり、関東八十八大師八十八番・関東三十三観音第十六番・幡羅新四国第十三番でもある。
もっとも寺院に関しては私の話題とするところではない。

聖天としての由来を記すると保元物語・平家物語などに記された斎藤別当実盛が治承3年(1179)に先祖伝来のご本尊であった聖天さまをまつったことにはじまり次男であった斎藤六実長が建久八年(1197)に歓喜院を開設したことにはじまる。延喜式内社であった白髮神社はもともと斎藤実盛が勧進した聖天宮の地であったとされる。
つまり式内・白髮神社の地に聖天宮が勧進され、いつしかもともとの式内・白髮神社は聖天宮に吸収され祭祀は大我井の森でいとなまれていた。のちに利根川氾濫地である河畔の近世村落が整備され大我井の森から式内・白髮神社を勧進し、それが現在の白髮神社。
明治期までは聖天宮は神仏混合であり、明治の神仏分離によって、聖天宮は仏側として寺院として信仰される道を選び、神側が境内地の「大我井の森」に新たに神社を建立して「大我井神社」となったのだろう。
ゆえに妻沼聖天も含めて、式内・白髮神社の旧跡といってもさしつかえないような気がする。でなければ、わざわざ掲載もしない。

妻沼聖天山
貴惣門(国重要文化財)
嘉永四年(1851)建立
妻沼聖天山
仁王門
台風によって崩壞し明治27年再建
妻沼聖天山
拝殿
正面的には寺院風
妻沼聖天山
まるで神社風の本殿(国重要文化財)
宝永10年(1761)建立

参道。そして楼門。正確には「貴惣門」という。そんなことを考えながら歩みをすすめる。まるで神社の気分。どうみても、目の前の拝殿までもが神社に見え、そして本堂ではなく本殿がそこにある光景。

ただ違うことは拝殿内部に札所があり、線香の風味にあふれていること。さすがに神社式参拝を行う勇気はなかったので、仏式参拝を行う。もっとも仏式参拝などという参拝方法はしらないので、一礼して手を合わせるだけだが。
拝殿内部の札所には、眼孔が異様に鋭い人がいる。この人を物的になんと呼ぶかも知らないが(神道的には神職でよいのだが)。坊主と呼ぶには言葉があまりにも味気なく、たたずまいだけでも、余人を退ける凄みがあった。凄みのなか、おそるおそる近づき(もっとも彼の眼孔はさきほどから私をとらえていたが)、由緒書を頂戴する。頂戴するだけで申し訳ないが、そうそうに退散する。

もう一度、社殿を一巡する・みればみるほど神社に見える。拝殿があって本殿がある。本殿も典型的な神社様式。そして豪壮で纖細な彫刻の数々が壁面にちりばめられている。仏的には本堂であるけど、神社的本殿でも間違いがなさそうな気配にあふれている。少なくとも線香の煙と臭いがなく拝殿内部が変化すれば間違いなく神社として扱えるだろう。
少なくとも私は当初の心意気とは違い妻沼聖天は純粋な寺院として認識するよりも、神仏習合的な施設として認識したほうが間違いがなさそうである。それにしても、このような大規模な施設が、妻沼のような地にあることが驚き。この楼門や本殿は国の重要文化財。そんな存在がこの利根川沿岸の妻沼という不安定水郷地帯にあることが奇跡的でもあった。



妻沼聖天から南下する。本当はバスに乗りたいのだけれども、妻沼から新バイパスにぬけるバスは乗車バス停が限定されており、東西のラインでないと乗れない。私のいるところは南北のライン。つまりバスラインが交差するところまで1キロほど徒歩で南下しなければいけなかったのだ。

熊谷と妻沼、そして群馬県をむすぶバイパス(国道407号)がある。そのバイパスからほど近いところに「奈良神社」という式内社が鎮座している。

途中、バス車中から古墳をさがす。その古墳は予想よりも小さな姿を、車中から一瞬だけかいま見せてくれた。古墳はバイパス建築時に後円部の大部分を削られており、もはや古墳自体の面影すらかなしげな気配。私がこれから参拝しようとしている奈良神社の祭神である奈良別命の古墳ともいわれているが、それにしては扱いが粗略。おそらくは奈良別命とは無縁なのだろう。もっとも無縁といってしまうと奈良別命を祭祀していること自体が不明瞭きわまりないのだが。


『奈良神社』     
(村社・熊谷市中奈良鎮座・奈良之神社)

祭神:奈良別命・他8柱

鎮座地は荒川と利根川の中間地帯。当社の南方2キロの所に中山道が通る。
仁徳天皇の頃に下野国造となっていた奈良別命(豊鍬入彦命の4世の孫という)が任を終えて、当地を開拓。奈良郷を築いたとされる。奈良別命の死後に、徳を偲んで祀ったのが当社という。
当社の東北一キロのところにある横塚山と呼称される前方後円墳が奈良別命の墓ともされる。

慶雲2年(705)の蝦夷征討の際に奈良神が神威を発揚し式内社に列格。
宝亀2年(771)以前の武蔵国は東山道に属しており(以後は東海道)、当地が東北戦略拠点として機能していたことが推定される。多賀城跡からは幡羅郡から運ばれた兵糧米とみられる米の搬入記録が書かれた木簡も出土している。

熊野信仰の拡大にともなって、この地にも奈良神社と熊野権現の2社が鎮座しており、中世にいたって郷民の崇拝が熊野権現に集まったため熊野権現を本社とし奈良神社を合祀したという。しかし関東管領両上杉氏の兵火によって社運は傾き、当社を保護していた忍城主成田氏も小田原氏滅亡後に移転し、近世期は長慶寺の支配下とならざるをえなかった。
江戸後期に奈良神社の名が徐々に復調し、明治の神仏分離によって独立。明治7年に村社列格。明治42年に近隣の伊奈利神社など村内の9社を合祀した際にもとの「奈良神社」と改めたという。

奈良神社
奈良神社の杜
奈良神社
奈良神社正面
奈良神社
奈良神社拝殿
奈良神社
奈良神社本殿
奈良神社 奈良之神社とある扁額

バス停からほどちかく、距離にして1キロ弱のところに「奈良神社」が鎮座している。周囲は民家と田畑に囲まれ、神社の境内は寺院(旧別当・長慶寺)と同居。ただ神社も寺院もその規模が小さいためか違和感はなく、逆にほほえましい空間。こぢんまりとして落ち着いた空間のなかで、蝉の声だけがハーモニーを彩る。不思議と蝉といえども邪険ではなかった。それが普通のあるかのように、音を奏でていた。

帰りのバスが20分ほどまたないとやってこない。この新バイパスを走るバスは30分に一本。微妙にでたばかりともいう。車ばかりが行き交うバイパス。だれも歩かない歩道。私は空を眺め、太陽とにらめっこをする。まだしばらくは、このままベンチに座りつ着けることになりそうであった。



<参考文献>
各神社境内の解説看板・御由緒書き。
式内社調査報告・第11巻東海道6・皇學館大学出版
武蔵の古社・菱沼勇著・有峰書店
角川日本地名大辞典・11巻埼玉




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