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「武蔵の古社を想う・大田編」
<平成14年12月参拝>

目次
磐井神社」(郷社・式内社)
六郷神社」(郷社・式内論社)

参考・武蔵国の延喜式内社



「磐井神社」     
(式内社・郷社・大田区大森北鎮座)

祭神:大己貴命、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、姫大神

 当社は敏達天皇2年8月の創祀と伝え、三大実録によれば貞観元年(859)に「武蔵国従五位下磐井神社」官社に列すと記録されている。
 また当社を武蔵国の八幡総社に定めたともされ、社殿には「武蔵國八幡總社・磐井神社」と記された立派な扁額が掲げられている。(余談だが、一国一社の国府八幡としては府中市八幡町の八幡神社がある)
 万葉集記載の「草陰の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山路超ゆらむ」の歌にある笠島とは当社末社の笠島弁天という説がある。
 永正年中兵火にかかり社殿が焼失。享保10年には、徳川八代将軍吉宗公造営の記録があり、昭和9年郷社列格。昭和20年5月戦災により焼失。昭和29年9月再建。
 当社社頭の「磐井の井戸」は、もともとは境内地。当社の由来となった井戸であり、霊水として古来有名。第一京浜道路の拡張によって歩道上となってしまった。
 当社の鈴石は延暦年間(782−806)に石川豊人が武蔵国国司として帰任した際に、神功皇后とゆかりのあったこの石を奉納したと伝えられている。この石を打つと鈴の響きがするために、鈴ヶ森の地名が生まれたともされる。また書家松下烏石が寄進したカラスの模様が浮き出るとされる自然石もある。<参考・境内説明看板(大田区教育委員会)>

磐井神社
延喜式内社・磐井神社境内入口
磐井神社
拝殿
磐井神社
本殿・後方が京浜急行の高架路線
磐井神社
磐井の井戸・後方の道路が第一京浜

 神社に行こうとは思っていなかったが、どこかに行きたかった。たまたま平成14年12月1日のダイヤ改正に影響されて「埼京線・東京臨海高速鉄道りんかい線」にのったついでに大田区に足を延ばす。手順はりんかい線大井町駅からJR大井町駅に乗り換えて、JR大森駅を下車して、京浜急行大森海岸駅に向かうという、ややこしい順路。
 磐井神社はJR大森駅からは徒歩10分。京浜急行大森海岸駅からは徒歩3分の所に鎮座。ちょうど「第一京浜」に面した地。
 当社は、品川神社を中心とする東海七福神のひとつ<弁財天>でもあるらしい。もっとも七福神巡りはしていないが。神社の規模は標準的。杜というほどでもないが木々も茂り、なによりも第一京浜という殺伐とした空間から、静かに身を置くことの出来る空間が嬉しい。境内では隣の建設現場から休憩のためにくつろいでいる人びとが多数。私のことを不思議そうに眺めていた。



六郷神社     
(式内論社・郷社・大田区東六郷鎮座)

祭神:誉田別尊

 社名の起こりは近在六村の産土神であることによる。六郷八幡宮とも称した。
 天喜5年(1057)に、源頼義・義家父子が当地の大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢をつのり石清水八幡宮に武運長久を祈り、前九年役に勝利を収めたので、凱旋後に分霊を勧進したことが創建と伝えられている。
 文治五年(1189)に源頼朝も奥州征伐に際して同様に戦勝祈願をし建久二年(1191)に梶原景時に命じて社殿を造営したという。現在、境内には頼朝寄進の浄水石と景時寄進の太鼓橋と伝えられてものが残されている。
 天正十九年(1591)に徳川家康によって神領寄進の朱印状が発給され、慶長五年(1600)には六郷大橋の竣工を祈る願文が奉じられている。このことから当社は神紋として八幡巴紋と併せて葵紋を使用している。
 明治五年(1872)に郷社列格。明治九年に六郷神社と改称。<六郷神社由緒・参考>
 源頼義父子が勧進する以前、つまり式内社選考当時まで創建年月がさかのぼるかどうかに関しては不明。


六郷神社・神門及び神橋

伝・梶原景時寄進の神橋(太鼓橋)
左上は正面入口。
ちなみに写真には写っていないが、
正面社号標は有馬良橘海軍大将筆。

左は脇参道入口

六郷神社拝殿

本殿は享保四年(1719)造を改修したもの

伝・源頼朝寄進の手水石
今は、手水としては使用されていませんが。

貞享二年(1685)奉納狛犬。大田区内最古。
どことなくユーモラスなヤツら。

 京浜急行・大森海岸駅から南下する。京急のダイナミックな走りに魅了されながら「六郷土手駅」で下車する。駅のすぐ先には六郷川とも呼ばれていた多摩川が悠然と流れている。その先は神奈川県。つまり東京都境の駅でもある。手元の地図を眺めながら、北上する。再び出逢った第一京浜道路に沿って歩くのは面白くないが、東京都内では京浜急行電鉄と第一京浜道路が並んでいるので必然でもある。
 神社の詳細な位置はしらない。しかし唐突に出逢ってしまった。位置的には六郷土手駅と雑色駅の中間だろうか。第一京浜に面したところに脇参道がある。もっとも私はこれが脇ともしらずに歩みを進めいたが。真っ直ぐ歩くと左に拝殿、右に神門、正面に社務所がみえる。境内内部は見事なまでにバランスがとれており、大いに関心してしまう。あまり新しい気配は好きではないが、六郷神社の調和的な空間はなにやら好ましかった。東京の神社だな、という印象と共に、地元に根をはやした安心感があった。
 拝殿で参拝する。社殿の後方は子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。幼稚園があるようで、楽しげだった。ボールが神社に飛び込んだらしく保育士さんがボールを取りに神社に駆け込んで来る光景もほほえましい。
 当初は全然期待していなかったが、意外と良い神社であった。当社が式内社であるかという話になると疑問符ではあるが、古社であることは間違いないが、この際は式内社論社もなにも関係ないだろう。神社由緒にも式内云々に関する話題は一切亡く、根本的に鎮座年が符合しないのだから。


<参考文献>
 各神社の由緒書き・境内案内看板など。


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