「東京都下神社巡り」
<平成16年9月>
「東京大神宮」/「市谷亀岡八幡宮」/「愛宕神社」
新しくカメラを買うと何かを撮りたくなってくる。そういうわけで、都内の神社をいろいろ参拝。参拝神社の選別は格別な意味があるわけでなく、いろいろと気になっていた神社。
「東京大神宮」
<府社・神社本庁別表神社・前掲載ページ>
(東京都千代田区富士見鎮座・朱印)
祭神:
天照皇大神
豊受大神
天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神<造化三神>
倭比売命
江戸の住民にとって伊勢神宮への参拝は生涯かけての願いだった。
明治の新政府が誕生すると、明治天皇の御裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遙拝殿として明治13年4月17日に創建。
最初は日比谷の地に鎮座していたことから「日比谷大神宮」と称されていた。関東大震災後の昭和3年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至っている。
「東京のお伊勢さま」と称され親しまれているが、伊勢両宮(内宮・外宮)の御祭神である天照皇大神(日本国民すべての祖神)と豊受大神(農業・諸産業・衣食住の守護神)、さらには倭比賣命を奉斎していることによる。
また、天地万物の生成化育つまり結びの働きを司る造化の三神が、併せ祀られていることから縁結びに御利益のある神社としても知られている。
現在の神前結婚式の様式を整えたのが当社であり「神前結婚式創始」とされている。
東京大神宮に格別な用事があった、というわけではないが、当サイトの掲載は二度目。<前回>
昔の私は「朱印をあつめる」ということをしていなかったため、近場でも意外と貰っていないところが多い。月一度は靖国詣でをおこなっている私ではあるが、良い機会なので靖国にいく途中で立ち寄って朱印を頂戴する。
意外と参詣者が多い当社は、都内でも有数の某筋!で著名な神社。
「市谷亀岡八幡宮」<郷社>
(東京都新宿区市谷八幡町鎮座)
祭神:
誉田別命(第十五代応神天皇)
気長足姫尊(神功皇后・・応神天皇母)
与登比売神(応神天皇姫)
由緒
空海が関東下向時に「茶木稲荷神社」(現在は石段左に鎮座)を鎮座させたのが当地の信仰の始まり。この「稲嶺山」と呼称されていた地に、太田道灌が文明11年(1479)に鶴岡八幡から江戸城鎮護神として分霊勧進し、鶴岡に対して亀岡として祀ったことにはじまる。
明治五年、郷社列格。昭和二〇年五月二五日に空襲によって全焼。昭和三七年に社殿再建。
東京大神宮を詣で、靖国をもうでたあとに、いつも私は有楽町線市ヶ谷駅に赴く。今回は、ふと思いだしてJR市ヶ谷駅のホームから見えていた鳥居が無性にきになって足を運んでみた。
由緒も由来もまったくしらなかったけれども、市ヶ谷の空間のなかに埋没しつつも足を踏み入れれば雑踏からかけ離れるこの空間がなんともほほえましかった。
鳥居から、石段をみれば中央線や総武線がせわしなく駆け抜け、江戸城外堀が静かに水を蓄えている空間。
誰もいない境内で、参拝するのは私一人。心落ち着けるこの瞬間がすきなのだ。
「愛宕神社」
(東京都港区愛宕鎮座)
祭神:火産霊命
配祀:罔象女命・大山祇命・日本武尊
由緒
徳川家康公が江戸に幕府をひらき、江戸防火の総鎮守として慶長八年(1603)幕命をもって社殿を建立し将軍家の祈願所とした。参道の石段は曲垣平九郎誉れの出世石段として有名。
三代将軍家光公が菩提寺芝増上寺参詣後に愛宕神社にたちよった際、愛宕山に「源平の梅」が咲き誇っていた。家光公は、「だれぞ、馬にてあの梅をとってまいれ」と命ずるも、急な石段を馬で登る行為が一歩間違えば命を落としかねないことでもあり、太平の世に親しんでいた近臣は皆尻込みをする。
そんななかで、居合わせた四国丸亀藩家臣の曲垣平九郎(まがりへいくろう)が見事に馬にて山上の梅を手折って降りてきた。家光公は関心し、「日本一の馬術の名人」と讃えられたという。
この故事から、愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼称されている。
また井伊直弼を「桜田門外」で討った水戸浪士が集結したのが当社でもあった。
海抜26メートル。東京23区内でもっとも高い山に鎮座しているのが愛宕神社。ちなみに隣接がNHK放送博物館。
なんとなくの勢いがそのまま「愛宕神社」へとつらなる。急にいきたくなったからいってみたのだ。
ゆっくりと23区内でもっとも高い山をのぼって、参拝。意外と参詣者がおおく、私がいるあいだも、ひっきりなしに人が訪れてきた。
となりの駐車場にはなぜかパトカーが待機していて、なぜか警官も多数境内通過。・・・なにがあったんでしょうか。
ただ、のんびりと境内の池をながめつつ、愛宕山で休息するだけ。
参考
各神社由緒案内等
東京都神社庁サイト<http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/index.html>
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