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「京都の神社風景2 宇治編」
<平成15年7月及び11月参拝・平成15年12月記>


宇治へ」/「宇治上神社」「宇治神社」/「宇治の社風景


「宇治へ」
宇治には一度「修学旅行」で来た記憶がある。でも「平等院」をぞろぞろと見物した記憶しかない。ましてやそのころは神社仏閣には興味もなかった。
そして今の私は神社のためだけに宇治に向かう。

京阪電鉄「宇治駅」。駅前の地図で自分の歩く方向と目的を把握する。駅前の地図と手元の地図をみくらべて土地イメージを確認する。が、手元の地図がミニノートパソコン「リブレット」というのも不思議なもので、神社巡りにはかなりふさわしくない。そもそもすべての行動をノートパソコンで確認している時点でかなりふさわしくない。昔の私は紙の地図と大判時刻表に一眼レフだったのに、今はデジタル時刻表にデジタル地図にデジタルカメラ。それいて、極めてアナログな趣味を自らの足で実践している。

彼方神社
途中、式内社「彼方神社」を経由する。もっとも小さな祠があるだけだが、それでも式内社であるのが京都府らしくでほほえましい。社号標の方が目立っているし。おかげで式内社とわかった。でなければ気が付かなかっただろう。


式内・彼方神社

さらには源氏物語ミュージアムもさらりと通過して、のんびりと宇治の小道を歩く。源氏物語風なやわらかい空気につつまれて歩くこと10分ほどで「宇治上神社」に到着。日曜日でもあり七五三の祭礼をやっているようだった。


「宇治上神社」 (式内社・村社・国指定国宝・世界文化遺産)
<京都府宇治市宇治山田鎮座・朱印

祭神
中殿:応神天皇
左殿:菟道稚郎子命(うじのわきいらつこ・応神天皇皇子・仁徳の兄)
右殿:仁徳天皇(応神天皇皇子)

由緒
神社の創建年代は不詳。
記紀に記載されているエピソードによると応神天皇は後継者に聡明であった末の皇子である菟道稚郎子を皇太子としていたが、応神死後、菟道稚郎子は兄の仁徳に位を譲り、自らは小椋池のほとりであった宇治に離宮をかまえて中央から離れてしまった。兄の仁徳も「先帝の定め」を重んじて弟に即位をうながし、互いに3年間ゆずり合っていた。天皇不在で人心が乱れたことを憂えた菟道稚郎子は自らの命を絶たれることによって、兄を即位させたという。宇治には菟道稚郎子の墓とされる御陵もある。
仁徳は弟の薨去をきいて深くかなしみ、篤く葬ったとされる。ゆえに仁徳天皇創建ともされている。

平安期には宇治上・宇治の両神社をあわせて「宇治鎮守明神」「離宮明神」「離宮社」と称し、また応神をまつるがゆえに「離宮八幡」とも称していた。離宮とは平安初期の天皇離宮「宇治院」の鎮守社からかとも、もしくは古代の菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」から由来しているからともされる。
宇治神社を「下社」「若宮」と呼称するのに対し、宇治上神社は「上社」「本宮」とも称す。もともとは両社一宮のあつかい。

藤原氏が宇治に平等院を建立して、当社を鎮守社と定めて以来、篤く崇敬されてきた。

当社は日本最古の神社建築として国宝に指定されている。

本殿(国宝)
内殿三社は一間社流造、覆屋は梁行三間流造。覆殿のなかに並立して治まる内殿三社が日本最古の神社建築遺構。建築年代は平安時代後期と推定。覆殿は鎌倉時代と推定。
拝殿(国宝)
単層切妻造。建築年代は鎌倉期とされる。平安時代の住宅建築が一棟も残っていない現在、神社建築とはいえ当時の住宅建築として推するに価する建物として貴重。洗練された寝殿造を彷彿とさせる建築。
摂社・春日神社(国指定重要文化財)
一間社流造。藤原氏の祖神であるタケミカヅチ命・アメノコヤネ命をまつる。建築年代は鎌倉期とされる。

宇治上神社
正面参道
宇治上神社
正面
宇治上神社
拝殿(国宝)
宇治上神社
拝殿
宇治上神社
拝殿後方
宇治上神社
本殿覆殿(国宝)
宇治上神社
摂社・春日神社(国重要文化財)
宇治上神社
桐原水宇治七名水のうち現存唯一の神水。

小雨がふりはじめるなかでの参拝。ところがむしろ雨の方がほほえましい。宇治の古社はますますもって風情溢れる景観。もう一目惚れしてしまった。
拝殿内で七五三の式をおこなっている。境内一巡後に札所にいる巫女さんの「朱印大丈夫ですか。」と聴いてみるが私は確信犯。「宮司がいま祭礼をおこなっているので、紙に書いたものしかご用意できませんが」との返答。私もわかっているので、「しばらく待たせて頂きます」。
本殿覆殿から本殿を垣間見る。これが国宝。これが最古の神社建築。基本的に日本の神々は新しい住居がお好みなので、平安期から、風雪に耐えてきたこの神ながらの建物は、その存在だけで神々しい気配を漂わせる。ふるぼけた木々から魂の静かな息吹を感じる。
わざわざ宇治に、このためだけに来た甲斐があった。また着たくなる様な充実感。
しばし待ってから朱印を頂いて、ゆっくりと神社をあとにする。もっともすぐ南に「宇治神社」があるのだが。


「宇治神社」(式内社・府社・国重要文化財)
<京都府宇治市宇治山田鎮座・朱印

祭神:菟道稚郎子命

由緒
由緒としては宇治上神社と同じ。
本殿は三間流造の社殿であり鎌倉時代初期の建立という。国重要文化財。
本殿内部に菟道稚郎子命の木造神像(平安後期・国重文)を安置している。

宇治神社 宇治神社。
宇治神社
宇治神社
宇治神社
本殿

宇治神社も七五三の祭礼だった。むしろこちらのほうが盛大で、写真すら撮れる環境でない。境内には写真業者までいて本格的。私は、ここでは細々とするしかなかった。正面拝殿は人がとぎれず、私には余地がない。本殿をのぞむように脇によけ、そこでゆっくりと対座。宇治と宇治上。両社の釀し出す風格は全く違っていた。明治社格が県社と村社。そう言う意味でも違っていた。

宇治上神社と宇治社だけが宇治の目的であった。逆に言うと私はもう帰っても良い。正直、宇治上神社に接せられただけで十二分に満足。


宇治の社風景

宇治を歩く。宇治川を渡る。
平等院がある。平等院はむかし来たことがあった。ここで平等院にいくべきなのだろう。しかし私は、先を急ぐ。過去に来たところに再訪するよりも新しいものを求めていた。
宇治に来た。宇治にきて、宇治を歩いて、宇治の平等院を無視する。
ある意味、凄い行動かも知れないし、バカバカしい行動かも知れない。

私は宇治を歩いていた。
末多武利神社・橋姫神社・縣神社を散策して、JR宇治駅に向かった。

末多武利神社(またふり神社)
藤原忠文をまつる。藤原忠文は天慶2年(940)に参議となり、翌年に征夷大将軍となり平将門征討に向かうが、東国到着前に平定され、事件は解決。大納言藤原実頼によって恩賞の対象から外れてしまったために、忠文は実頼を恨み、死後も一族にとりついたされている。この末多武利神社は忠文の怨霊を鎮魂する祠とされている。

橋姫神社
瀬織津比売命を祀る橋の守り神。明治3年の宇治川洪水で流されるまでは宇治橋の西側に鎮座していた。境内には水の神として住吉神社もまつる。
源氏物語の宇治十帖「橋姫」と名付けられてており、当社はその古跡とされる。

縣神社(あがた神社)
旧村社。祭神は木花開耶姫命。上代の縣の守護神。神代以来の地主神をまつる。
創建は不詳ながら「蜻蛉日記」に右大将軍綱の母が宇治の「あがた院」に詣でた記載があり、平等院建立(1052)後は平等院総鎮守となり藤原氏の崇敬が篤かった。明治維新までは大津の三井寺円満院の管理下にあった。
境内の絵馬堂北側に平安以来の歌枕でしばしば詠まれた県井という井戸がある。

宇治
宇治川のほとり
宇治
宇治川
宇治 左:末多武利神社
宇治
橋姫神社
宇治
橋姫神社
宇治
縣神社大鳥居
宇治
縣神社
宇治
縣神社拝殿
宇治
縣神社本殿

宇治からどこに行こうか。13時前にJR宇治駅に到着。
実は17時に大阪にいなくてはいけなかった。用事があったので。

最初は伏見の稲荷大社にいこうかと思った。でも稲荷さんにいく心の準備が出来ていなかった。おまけに山にはいりこむと時間がたりないのは必然。
すなおに大阪方面の神社をめざすべきなのだろうけど、これも気がすすまない。そしてJR宇治駅からはJR奈良駅にいける。なにを血迷つたか私は奈良に向かっていた。奈良を2時間でまわる覚悟を決めて。

いずれにせよ、京都の神社はこれにて終了です。
ちかいうちにまた行くことになるだろうけれども。


参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名辞典・京都府


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