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「安曇筑摩路探訪記」
<平成16年7月参拝>

その1.「若一王子神社」「仁科神明宮」「穂高神社」

その2・「伊和神社」「筑摩神社」「深志神社」「沙田神社

その3.「矢彦神社」「小野神社」


松本駅到着は10時25分。駅に到着してしばし休みつつ考える。すべて歩いても良いがいい加減疲れたし、夏の日差しは身体にこたえる。一番遠い目的地までは安易ではあれどタクシーを利用しようかと思う。

松本駅前でタクシーに乗り込み、「総社伊和神社までお願いします」というも、いきなり運転手は疑問符。そんな神社は知らない、とのこと。土地勘がない私であるが、地図は刷ってあるので、それをしめし「惣社郵便局の先で構いませんのでお願いします」と、とりあえず近くまで運んでもらう。松本という城下町ゆえか運転手と話が弾む。「その神社にはなにがあるの?」という至極自然な質問。私は簡略に「平安期ごろに慣習化された一の宮制度を国ごとに国司が総括した神社で、信濃国では伊和神社が、その役目をしていたのではないかといわれ、云々」と。なかなかこの手の客はすくないらしいが、それでも松本ゆえにいろいろな客を運んでいるタクシー。「各地の神社建築を見て歩いている宮大工」を運んだとか、なんだとかの話を聞きつつ、結局タクシーの運転手は伊和神社の所在がわからず、ある意味では予定通りに目的地付近でおろしてもらう。「これからどうするの?」との質問に「まあ、いろいろ寄り道しつつ街を散策する予定です」とこたえ、まずは伊和神社を目指す。


「伊和神社」(信濃国総社・旧村社・惣社伊和神社)
<長野県松本市惣社鎮座>

主祭神:大物主神

由緒
創建年代は不詳。桓武天皇延暦年間に小県郡上田から当地に移された国府とともに、当社が創建されたとされる。
中世期に播磨国伊和神社を移したともされるが、信濃国府推定地の南東に位置し「国府総社」として機能していたと考えるのが無難。
境内案内看板によると国府には「国の印」と「正倉の鍵」を祭る「印鑰社<いんやくしゃ>」があり、印が伊に、鑰が輪に書き間違えられ、後に「伊和神社」となったという。

伊和神社
伊和神社正面
伊和神社
大ケヤキ
伊和神社
拝殿
伊和神社
本殿

伊和神社到着が10時50分。確かに地元の人でも興味がなければ気にしないぐらいのこぢんまりとした社。それでもしっかりとした拝殿と茅葺きの本殿に重みを感じとる。大ケヤキ神木を見上げつつ、信濃国の神々に敬意を表してから私は再び徒歩人となる。

伊和神社から南西に1.3キロ。道は直線で結ばれており迷うことはない。
11時15分。川を渡ると「いかにも」という気配にあふれる木々に囲まれた「筑摩神社」に到達。


「筑摩神社」(国重文社殿・旧県社・つかまじんじゃ・正八幡宮・筑摩八幡宮・国府八幡宮)
<長野県松本市筑摩鎮座>

主祭神:
応神天皇・神功皇后・宗像三女神

由緒
当社は筑摩神社・正八幡・筑摩八幡・国府八幡とも呼称。国府推定所在地から一直線上に鎮座しており、国府八幡との別称が伝えられていることから、古代以来、国府に深く関わっていた神社と考えられる。

薄川に隣接して本殿は南面し鎮座。
本殿は室町期の永享11年(1439)に信濃守護小笠原政康が再建。昭和5年に旧国宝指定、昭和25年に国重要文化財指定。
拝殿は慶長15年(1610)に松本城主石川康長が建造。長野県宝指定。

筑摩神社
筑摩神社正面
筑摩神社
正面
筑摩神社
拝殿
筑摩神社
拝殿横姿
筑摩神社
本殿(重文)
筑摩神社
本殿(重文)

当社は総社八幡として認知されている古社。本殿は国重文に指定されており、その姿は堂々たるものであった。
正面鳥居わきには「国宝御本殿」(旧国宝指定)との標もあり、その重さを感じる。
神社は無人の気配。松本という観光地化された地域の中でも、歴史的由緒ある神社が、まったくの無人というのは、参拝社たる私にとっては贅沢の極みであった。


「深志神社」(旧県社・天神様)
<長野県松本市深志鎮座>

主祭神
建御名方命(宮村大明神)
菅原道真公(天満宮)

由緒
建武年間に信濃国司小笠原貞宗が諏訪明神の霊夢を蒙り戦勝したことから暦応二年(1339)に信濃一宮諏訪大社から御分霊し「宮村大明神」として創建したとされる。
永正元年(1504)に深志(松本)城が築かれると産土神として崇敬。戦国末期に鎌田村より天神社が移され、現在の祭神となる。松本城南に西面して鎮座。松本城の南地区に広がる商人街の総氏神。

明治5年郷社、昭和3年に県社列格。昭和41年に神社本庁別表神社指定。

深志神社
深志神社
深志神社
正面
深志神社
拝殿
深志神社
本殿


さらに歩みをすすめる。北西方向に1キロ10分の道のり。市民会館のすぐとなりに「深志神社」が鎮座している。駅から見れば東に1キロ弱。
松本の旧来たる地名を有する「深志神社」は、その姿を輝かしく、真新しい気配とともに表していた。


12時10分。松本駅に戻っていた私は「松本電気鉄道」に乗り込んでいた。この「松本電気鉄道」に乗るのは二回目。最初の時は完全なる「鉄道趣味」で終点までなんにも用事もないけど乗ってきて折り返したという思い出。今回は用事があって乗っている。

目的地駅たる「大庭駅」に到着したのが12時16分。南に700メートル歩くと信濃国三の宮たる「沙田神社」の斜め後方につきあたる。


沙田神社(いさごだ神社・旧県社・信濃国三の宮・式内社)
<長野県松本市島立字三ノ宮鎮座>

主祭神:彦火火出見尊
 相殿右:豊玉姫命
 相殿左:沙土煮尊

由緒
信濃三の宮ともされる。延喜式内社。
一説に「さいの宮」と呼ばれた穂高神社との関係や三神を祭るの意での「三ノ宮」であるともいう。
創建は孝徳天皇大化五年に国司が勅命によって祭祀をはじめたという。それ以前は東筑摩郡波田町鷺沢に鎮座していたともされ同地には奥社が祭られている。
奈良井川堤防から真っ直ぐに参道が延びており、神社は西面している。諏訪大社と同じく7年に一度、御柱を建てている。
明治5年郷社、明治34年県社列格。

沙田神社
沙田神社正面
沙田神社
参道
沙田神社
裏入口
沙田神社
正面
沙田神社
境内御柱
沙田神社
拝殿

御柱が4本、境内に直立している。この御柱に接することによって信州の社を感じることができる。
正面から参道を戻るというのも、あまり好きではないが、参道を戻り一の鳥居を望むと、そこに土手があった。奈良井川の土手から一の鳥居をながめて、改めて参道を歩んで参拝。どうも正面から足を踏み込まないと「らしさ」がない。薄曇りではあれど、境内はすがすがしい気配。境内で「鬼ごっこ」をする子供たちが愉快そうでほほえましかった。

境内をあとにして大庭駅に戻る。しばしの電車待ちをして13時15分。松本駅に戻る。じつはこの接続が絶妙に計算されている接続であり、辰野ルート中央線に乗り込むギリギリのタイミングでもあった。この折り返しをふまえた上で「沙田」に行こうという決断をしていたわけで、そうでなければ松本市内をもっと見聞している。松本訪問二回目なのに「松本城」をみたことがないという珍しい「歴史趣味者」となってしまったが、時間があれば私だって「松本城」ぐらいは見聞したい。

ただ、いまは時間がないので次の目的地へと向かう。


参考文献
境内案内看板
角川日本地名大辞典20・長野県
神社辞典・東京堂出版





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