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「安曇筑摩路探訪記」
<平成16年7月参拝>

その1.「若一王子神社」「仁科神明宮」「穂高神社」

その2・「伊和神社」「筑摩神社」「深志神社」「沙田神社」

その3.「矢彦神社」「小野神社


松本駅から南下を開始する。
13時32分に松本駅を出発すると13時48分に塩尻に到着。塩尻から13時56分に発車する辰野行中央線に乗ると14時6分に小野駅到着。この塩尻発のいわゆる辰野ルート中央線はなかなかに数が少なく一日12本。この日中前後では塩尻発1010・1219・1356・1607というあんばい。ゆえになかなかにあわせにくい路線でもある。

この塩尻ルートに関して話し始めるときりがない。実は私は「鉄道ファン」でもある。そしてこの路線にはJR唯一の車両たる「123系」がちょこまかと往復している。普通の人からいわせれば「だからどうした」といわれかねないが、しょうがない。私は「神社探訪をする鉄道ファン」なのだから。

いわゆる「JR中央線・大八回し」 である。それがこの中央線塩尻辰野ルート。

中央本線が計画されたとき、諏訪湖周辺の諏訪盆地から塩尻、松本に抜けるためにどのようなルートをとるべきか、が問題になった。明治25年に公布された鉄道敷設法では、その第一期線に中央線をあげていたが、この線路の経過地点についてはこれを受けるかたちで、地域の人々がたくさんの陳情書を政府、帝国議会に提出した。ここより南の伊那地方やはては三河地方まで迂回する案もあった。また飯田まで南下して木曾福島へ抜けるルートもでたが、これでは安曇平にでることが出来なくなってしまう。
実際のところは、この区間については標高999メートルの塩尻峠の下を、トンネルを掘ってくぐるか、岡谷から南下して辰野を迂回するかのどちらか、の案が有力であった。当時の建設技術では塩尻峠のトンネル掘削は不可能であり、必然的に辰野に迂回する線路しかなかった。このルートは地元出身の政友会代議士伊藤大八がルート決定に運動したことで俗に「大八まわり」と呼ばれ政治路線の典型のようにみられるが、トンネルを掘れないとなると、このルートは選択として必然性を持っていたと思われる。辰野迂回ルートは岡谷一塩尻間の距離が27.24キロ、最急勾配が25パミール、最小曲線半径300メートル。特に急勾配区間が長いのが特徴である。
それに対して昭和58年7月5目に開通した塩嶺トンネルルートは約11.7キロ、最急勾配は20パミールである。塩嶺トンネルの長さは5994メートル、トンネル内の最急勾配は7パミール、と辰野ルートと対照的である。さらにこのトンネルは複線で輸送力も大きい。塩嶺トンネルは中央大地溝帯と中央構造線が交錯する複雑な地層ではあるが、技術力の進歩がこの難工事を成功させたのである。

と私が、昔書いた文章を引用しつつ、そんな「123系」に乗り込む。実はこの「123系」に乗り込むのは二回目だったりする。もっとも一回目のときは「神社」にはなんらの興味を持っていなかったときではあるが。

123系
123系塩尻駅にて
123系
123系辰野行(小野駅)
123系
123系塩尻行(小野駅にて)
123系
123系塩尻行(小野駅にて)

塩尻を発車した辰野ルート中央線は、山中に入り込んでうねりながらに快走する。
小野駅着が14時06分。次の電車は決めていないが選択肢は小野発辰野行16時07分か小野発塩尻行15時35分のふたつしかありえなかった。戻るまで時間はたっぷりあるのでゆっくりと見聞しよう、そう思いつつ駅前から北上する。


「矢彦神社」(県社・信濃二の宮)
<長野県上伊那郡辰野町小野鎮座鎮座>

主祭神
正殿:大己貴命 ・事代主命
副殿:建御名方命・八坂刀売命
南殿:天香語山命・熟穂屋姫命
北殿:神倭磐余彦天皇(神武天皇)・誉田別天皇(応神天皇)
明治宮:明治天皇

由緒
天孫降臨の開国四神を祀る。日本武尊が東征帰途に立ち寄った霊跡という。
信濃国二の宮。
神代期に国造りの最中に大己貴命が御子である事代主命と建御名方命をつれて当地に立ち寄ったという。
欽明天皇期に大己貴命と事代主命を正殿に、建御名方命・八坂刀売命を副殿にまつって、矢彦神社としての体裁が整ったという。

天武天皇の白鳳二年(674)に勅使が下向し、新宮を造営。正遷宮祭と御柱祭が七年ごとの式年祭と定められた。
安徳天皇の御代、木曽義仲が宮材を木曽山林から伐り出し、社殿を造営。以後七百年にわたり宮材は木曽山林から出材されることとなった。

明治5年(1872)に郷社列格。明治27年(1894)に明治遙拝殿を創建。明治天皇をまつる宮としては、明治天皇御世代でもありもちろんはじめてでもある。
明治32年(1900)に県社昇格。

境内社殿は長野県宝に指定。
拝殿・回廊・勅使殿・神楽殿は天明2年造。
御垣内社殿群は寛文12年(1672)造営、松本藩主水野忠直寄進。
御禁足地内、右から「八幡本殿」「本殿」「副本殿」。手前に「勅使殿」。

矢彦神社
小野駅前の大鳥居
矢彦神社
矢彦神社
矢彦神社
矢彦神社
矢彦神社
矢彦神社神楽殿
矢彦神社
矢彦神社神楽殿
矢彦神社
矢彦神社勅使殿
矢彦神社
矢彦神社拝殿
矢彦神社
矢彦神社

14時20分。いかにもという気配を感じ、正面に鬱蒼たる木々を目にする。しかしなにやら雨も降り出してきたようで私は慌てて傘を広げ、カメラを防水仕様とする。雨も覚悟のうち。参拝しようという心がけは変わらない。
正面にみえる社号標は「矢彦神社」とある。手元の地図で確認した限りでは矢彦神社と小野神社は完全に同居隣接同一敷地内という感じではあるが、実は所在住所が違う。小野駅は上伊那郡辰野町、南の弥彦神社も上伊那郡辰野町小野、そして北の小野神社は塩尻市北小野の所在となっている。

どちらの神社がメインなのかはしらないが、南から訪れたのでまずは「矢彦神社」を参拝する。しとしとと降り続ける雨にもはや止む気配はなく、傘をさしつつの参拝。こういうのもたまには良いのかもしれない。

神楽殿・勅使殿が一列に並び、その後方に諏訪大社風の拝殿と回廊が広がる。本殿のあるべき敷地は屋根を望むしかなかったが、そこで私はかなり驚く。拝殿の後方には社殿群とよぶべき社が鎮座していた。
境内右が「八幡宮」、中央が「本殿」、左が「副本殿」、手前に「勅使殿」。それぞれが鬱蒼たる木々のなかで静かに鎮座していた。雨に濡れる境内をめぐりつつ、味わいある姿の片鱗をみせながら、私は首を伸ばして拝んでいた。


「小野神社」(信濃国二の宮・県社)
<長野県塩尻市北小野鎮座>

主祭神:建御名方命

由緒
この地は古くを憑里(もり)と呼称し、祭神の留まった遺跡でもあるという。もとは大社大明神と称し、矢彦神社共々「信濃国二の宮」であった。一般的には「矢彦小野神社」と総称されているが、鎮座住所はそれぞれを違としている。すなわち弥彦神社は上伊那郡辰野町小野。そして北の小野神社は塩尻市北小野である。

本殿二棟と八幡宮本殿・勅使殿は長野県宝指定。寛文12年(1672)に松本藩主水野忠直によって再建されたもの。勅使殿後方に南から八幡宮・本殿二棟が並んでいる。

小野神社
小野神社
小野神社
小野神社
小野神社
小野神社庭園
小野神社
小野神社拝殿
小野神社
小野神社本殿
小野神社
小野神社本殿

境内に隣接している矢彦社と小野社。格別に区別をつけるのも意味のないことかも知れない。由緒由来的にも二社隣接の理由は定かではない。目前で、二社が雨に濡れながら静かにただずんでいる。難しいことを考えるでもなく、それだけのことでいいのではないか。
傘を差しつつ、傘をしまいつつ、降ったり止んだりの中で、参拝。最初のうちは致し方がないと思いつつも、気がつけば集中豪雨。見るもの見ていないものそれぞれありきな雰囲気。それでも両社の漂わせる不思議な感覚に大いに満足。

私はしずしずと境内を散策し、小野駅に再び戻る。
15時35分に小野駅から再び塩尻駅まで戻り、16時00分に塩尻から発車し茅野駅に16時28分到着。もう鈍行に嫌気がさして、青春18キップをあきらめて16時31分発の「特急スーパーあずさ28号」に乗り換え。18時01分に八王子に到着し、乗り換え。あとは家路につくのみだった。


参考文献
境内案内看板
角川日本地名大辞典20・長野県
神社辞典・東京堂出版


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