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神のやしろを想う・房総半島の神社編

目次
館山へ
安房神社」(安房国一の宮・式内名神大社・旧官幣大社)
鶴谷八幡宮」(安房国総社・旧県社)
内房線から外房線
玉前神社」(上総国一の宮・式内名神大社・旧国幣中社)
橘神社」(上総国二の宮・式内小社・旧県社・元勅祭社)
飯香岡八幡宮」(上総国総社・旧県社)


「館山へ」
 毎年、恒例の「青春18きっぷ」(JR全線普通列車のみ乗り放題)シーズン。全国の鉄道趣味者は毎度毎度、このキップを片手に東奔西走する。いいかげん行く場所もなくなるだろうと感じていても、なぜだか毎年行く場所は尽きない。今年の初回は「房総」に行こうかと思った。そこに深い理由はない。ただ鉄道未踏の地であっただけ。ゆえに鉄道による「房総半島一周」をおまけとして、房総半島の神社散策を決行することにした。
 地元のJR武蔵野線の駅をいつもどおりに始発(4時52分)で乗り込んで、西船橋駅で乗り換えて千葉駅に向かう。このコースは私が関東から東に向かうときの不動のコースであり、おもしろくもなんともない。
 6時38分に千葉駅を出発した内房線はおなじみの「スカ色カラー」。もっとも横須賀線ではもはやみられず、千葉的には「房総カラー」の113系車両。千葉駅を出るとすぐさま工業地帯らしい雰囲気を醸し出し「千葉らしさ」を感じさせる。もっとも木更津までは何度か乗ったことがある。五井駅で小湊鐵道をながめ、木更津駅でJR久留里線を眺める。乗りたくてウズウズしてくるが、今日は目的が違う。眺めるだけで電車は終点の君津駅まで南下する。
 7時32分に君津駅に到着したら乗り換え。7時47分の電車を待つ。実は今日の鉄道旅の醍醐味が早くもここにあった。逆に言うと、鉄道的なおもしろさはここしかないのだが。この7時47分の電車は、この直前まで「L特急さざなみ1号(183系)」として南下してきた特急電車。それが君津駅からは普通電車扱いとなる。つまりこの先で単線となり運転間隔が過疎地域となるための苦肉の策。私の「18きっぷ」という身分では特急電車に乗ることは出来ないが、この先の車両は普通電車、但し特急電車で運行というもの。私はわざわざこれを狙っていた。乗ってしまえば特急気分。リクライニングなシートに身を任せてしまうと、必然的に眠くなる。
 先ほどとは違う「千葉らしさ」を味わう。大貫駅・上総湊駅付近で海が見え始める。静かな東京湾。対岸にはにぎやかな三浦半島・横須賀の街並みが目につき、さらには富士山までもが顔を出す。行き交う船舶の多さに圧倒されながら、浜金谷駅に入線。この浜金谷から久里浜までは東京湾フェリーが35分500円で運航されている。千葉県側から対岸を望むと神奈川県が意外に近いものだと感じてしまう。この感覚は古代から変わらないものだろう。対岸には走水神社がある。日本武尊はその地から弟橘比売命を犠牲にして房総半島にやってきた。たしかにこの感覚を抱くと簡単に渡れそうな気がする。
 鋸山を抜け安房勝山駅に到着する。なにやら城があるようだ。別に城があるのは珍しくない。ただ、この地の城は東京湾に面した丘のうえにあった。調べてみると勝山藩の内藤氏は3万石の小藩で陣屋のはずだったような気もするが、なぜだか立派な天守がある。まあ、この手の史実無視はいつものことなので気にしないことにする。更に南下して里見氏名残の岡本城趾をかすめるように走り、しばらくすると鉄道唱歌のメロディーが流れ始める。そういえばこの電車は特急車両だった。ゆえに特急感覚で「まもなく終点の館山です」的アナウンスが流れる。贅沢に夢心地でくつろいでいたが、そろそろ降り支度をしなくてはいけなくなった。
 館山駅8時45分。改めて自分の行動力を考え直して朝の9時前に館山の地にいる私自身がなにやらおかしげだった。JRバス乗り場。JRバスゆえに「18きっぷでのご乗車はできません」と、わざわざ私のために書かれたかのような文章を目にして、無人で停留所に止まっているバスに乗り込む。えてして知らない土地のバスは、どこに行くのかわからなくて不安になる。たいてい歩く私も、さすがに駅から6キロ以上も離れていると時間的に歩きたくはない。
 9時ちょうど。バスは幾人かの地元乗客とただ一人の外来者を乗せて出発する。右手に「館山城趾」を望む。館山城は第九代里見義康が天正十八年(1590)に築いた平山城で、現在は外堀の一部と、「南総里見八犬伝」の資料館を中世の復元天守閣とした建物がある。館山城趾を眺めながらバスは進む。バスは進めど筆は進まず。実は「神のやしろ」シリーズは神社20社以上もネタが溜まってしまった。ゆえにこの場所で「里見氏」について触れるのもやめて、順次先に進むことにする。しばらくすると街並みはすっかり消え、山の中を走っている気分にさせられる。地図を見ながら私は右手を見る。地図では、この付近に「洲宮神社」という神社がある。この神社は「延喜式内論社」として「洲崎神社」ともども古社として知られる神社。しかしバスはそんなことも知らず神社前を猛烈なスピードで走り抜ける。えてして何もないところを走るバスはスピードが速い。それも交通量が少ないからなおさらである。私としては「洲宮神社」は一瞥程度で良いと考えていたので、この程度でも良かったが。しかし、あまりに豪快な運転の為か、思わず酔い気味になってしまった。
 20分ほどバスに揺られると「安房神社」バス停前に到着。470円だった。5分程度歩くとやっと目指す「安房神社」に到着。付近に「館山野鳥の森」という森林公園もあり、とにかく自然があふれまくっているところで、まさに「神のやしろ」に相応しい環境を醸し出していた。

JR館山駅
JR館山駅(椰子の木は海軍砲術学校名残のものという)



「安房神社」(延喜式内明神大社・安房国一の宮・旧官幣大社・大井明神・安東明神)

御祭神
本社(上の宮)
天太玉命(あめのふとたまのみこと=詳細
天比理刀当ス(あめのひりとめのみこと・天太玉命の后)
摂社(下の宮)
天富命(あめのとみのみこと・天太玉命の御孫)
天忍日命(あめのおしひのみこと・天太玉命の御弟)

 安房神社の始まりは2660年(神武紀元)まで遡るとされている。古代、天富命(忌部氏祖=斎部氏)が神武天皇の勅命によって四国阿波(徳島)の忌部氏を率いて、東方に肥沃の土地を求めて旅立ち、海路黒潮に乗って房総半島南端の地に辿り着いたという。総国(上総・下総)に産業を広め、開拓を進めた天富命は、祖神であり祖父である天太玉命(天太玉命は天照大神の側近として祭祀を奉祀した神)を祀ったことに始まるという。延喜式神明帳にも「安房坐社」明神大社として名を残す房総屈指の古社であり「安房一の宮」として崇敬をあつめてきた。千葉県内では「香取神宮」に次ぐ神階を誇り、明治期には「官幣大社」とされた。
 現在の社殿は明治期の建造で神明造り檜皮葺きである。館山市の南端、吾谷山(あづちやま)の北腹に鎮座しており、境内では弥生時代の住居遺跡・洞窟遺跡等も発掘されている。歴史を感じさせる鬱蒼とした木々に囲まれ、伊勢神宮の内宮外宮をなぞらえたように「上の宮」「下の宮」の二社に分かれて鎮座している。

大鳥居/社号標は東郷平八郎謹書
大鳥居/社号標は東郷平八郎謹書
安房神社上の宮拝殿
安房神社上の宮拝殿
安房神社拝殿・本殿
安房神社拝殿・本殿
安房神社・下の宮拝殿
安房神社・下の宮拝殿
境内の古風で不思議な建物
境内の古風で不思議な建物
神奈備型の吾谷山(本殿後方の山)
神奈備型の吾谷山(本殿後方の山)

 まずは純白の大鳥居が私を迎えてくれる。立派な社号標には「官幣大社安房神社」と彫られ遠慮のない格の高さを感じさせてくれる。社号標の謹書は「元帥伯爵東郷平八郎」。さすがに海も近い神社らしく海軍の関係者の社号標であった。さすがに房総随一の大社の風格がにじみ出ており、なにやら緊張してくる。関係者以外誰もいない境内。得てして普通の日の神社は参拝客も少なく、この安房神社も神社関係者以外に人が居ない。私としては、その方が「神社」らしくて好きだったりもするが、あまりにも「無の空間」が広がりすぎていた。
 拝殿は、極めて豪壮な造り。ひさしぶりに立派な神明造りの拝殿にであった。その拝殿のなかにはこれも大きく立派な「当国一宮」の扁額が掲げられている。拝殿自体は明治の建造物で、新しさを感じるがそれでも風格は一級品であった。
 境内に気になるものがある。私の直感がなにかを予感させ、その場所に足が赴く。「海軍落下傘部隊慰霊碑(田中角栄謹書)」「館山海軍砲術学校・海軍予備学生戦没者慰霊碑」。自然と頭を下げている私がいた。意識をしていなかったわけではない。ただ、意識の外に置いていた事実。その事実を、海軍の街館山を明確に意識してしまった。
 境内を散策する。これでもかっ、というぐらいに自然にあふれている静寂の空間の中で参拝者は私一人。充分と満喫した時間を過ごす。

 帰りのバスは10時40分頃。あまりにも暇となってしまったので海辺まで歩くことにする。べつに用事はないが海を眺める。南房総白浜の海。正確には白浜町ではなく隣の館山市であるが、海には違いない。その3月の海は静かだった。ただ眺めるだけでも海の良さは分かる。ただぼっーとするのが一番の贅沢であった。
 バス停近くに観光地図がある。その地図には「館山海軍砲術学校跡地」と記載された場所がある。跡地というのが無性に気になってしまう。あとの予定を気にせずに「跡地」とやらに「学校」が残っているかは謎だが見物したくなってしまった。今思えばやはり行ってみるべきだった。パンフレットに記載してある「館山市観光協会」にでも電話をかけて確認してみるべきだったと今頃悔いていたりする。しかしその時は、そこまで頭が回らなかった。ただ、帰りのバスの中で所在地と思われる付近(洲宮神社・釈迦涅槃仏の南方)を通過しながら夢想する。「館山海軍砲術学校」を。そして「帝國海軍」の栄光と苦難を・・・。
 館山駅に戻ってくる。次の電車は11時44分。あと40分ぐらいはあった。ここでおとなしく駅で電車を待っていれば良いものの、日頃の落ち着きのなさが見事に裏目にでて、付近にある「鶴谷八幡宮」に行ってみようかと思った。手元の地図では駅前から1.2キロほど。かなり無理をすれば行けそうだという無茶な予測で歩き始める。無茶苦茶なペースで15分程歩くと大鳥居が見えてきた。それは私の予想を覆すほどの大鳥居であり、持ち時間10分という今の私には途方に暮れるほどの広さであった。



「鶴谷八幡宮」(つるがや八幡宮・安房国総社・旧県社・鶴谷八幡神社)

御祭神
品陀和気命(応神天皇)
帯中津彦命(仲哀天皇)
息長帯姫命(神功皇后)

 当社は平安初期頃から安房国総社として国府の地(三芳村府中)に創建されたことに始まる。現在、三芳村府中に元八幡神社と称する社が当社の発祥であるという。安房国一の宮安房神社をはじめ年に一度、国内諸社が参集して盛大な大祭がひらかれた総社としての格を誇っていたが、源頼朝が幕府を開いて諸国に守護・地頭を設置するようになって以降、国司の権勢は衰え、総社の崇敬も衰退していった。源氏は八幡大神を氏神として崇敬しており、遂には総社も八幡宮と改称され、鎮座地も鶴岡八幡宮に模したように海辺を望む現在地に移転したという。(源氏政権以降、諸国の総社が府中八幡・総社八幡と呼称される一因でもあるが、一国一社の八幡社が総社とされる例もある)(房総は源氏の勢力が強く、安房・上総総社は八幡社(下総総社も葛飾八幡)。もっとも総社も時代によって異なる。安房国総社として館山市内の六所神社も候補とされる。)源頼朝が安房国から再起する際に、当社で祈願したとされ、また源実朝も社殿造営を行ったとされている。以後「房総の雄」里見氏も代々崇敬してきたという。
 昭和15年には県社に列せられている。現在の社殿は享保5年に造営されたものを昭和51年に改修したものである。神域は5000坪。境外地をも含めると10000坪もあるという。

 予想以上に立派であった。「八幡社」であってもそこには「総社」の格が感じられた。5分で参拝できるものと考えていたものも最初から覆される。大鳥居は立派すぎた。その大鳥居の社号額には福田赳夫の謹書で「鶴谷八幡宮」と書かれている。大鳥居から伸びる参道も立派で、まぶしいばかりの南総の太陽が参道を照らしている中で一人途方に暮れたくなってきた。あいもかわらず誰もいない境内を駆け回る。そんな悠長に見学している時間もなく、限界の10分間で参拝をする。境内には摂末社五社に一の宮安房神社遙拝殿、そして参道に幾多の石碑が林立し、忠魂塔があったりする。
まぶしい光の中で完全に疲れている中での帰り道。来たとき以上のスピードで走るように歩き館山駅に戻ってくる。電車の出発3分前の事であった。

大鳥居
大鳥居
鶴谷八幡宮拝殿
拝殿



「JR内房線から外房線」
 館山駅を定刻の11時44分に出発した内房線113系は房総半島の先端を嫌うかのように内陸を抜け、外房の地を走る。海を望む。内房の海とは違う海。外房の海。太平洋の海。優雅でまぶしい日差しをあび、と荒々しい波間を望みながら電車は進む。
 12時28分。運転上、内房線はこの「安房鴨川駅」で終了。否応なしに乗り換えが必要となる。このあたりは昔来たことがある。子供の頃、両親に連れられて鴨川の仁宇右衛門島に行ったことがある。この島は頼朝が難を避けて非難した島とされ、古風な手こぎの渡り船で島に赴くことが出来る。島には頼朝の隠れ穴や日蓮聖人の神楽岩、芭蕉の句碑などがあるという。実は私にとって房総は未踏の地ではない。それこそ子供の頃、父に連れられて各地の西行や芭蕉につきあわされた。というのも、家族旅行のさきにかならず西行か芭蕉の足跡があった。父は中世和歌文学の専門家だったりもするが、いずれにせよ今の私には関係ない。昔の知識・経験は何の役に立っていない現状では、思い出でしかない。(余話。ちなみに芭蕉の句碑はあれど「芭蕉は房総未踏」。先の話になるが玉前神社にも句碑があった。父によれば「句碑」は縁はない地にも腐るほどあるとのこと。)
 安房鴨川駅で30分後の12時58分の電車に連絡。一瞬だけ駅の外に出て空気を味わい、再び車中の人となる。しばらくすると安房小湊駅。鉄道趣味的には小湊鐵道が到達できなかった因縁の地。一般的には「日蓮聖人生誕の地」。この地も来た記憶があるが「誕生寺」を訪れたか否かは記憶にない。ただ「日蓮宗」にとっては聖地のような地。邪推には出来ないし、法難が恐いので、敬意を表して誕生寺を望むように車窓を見つめながらも電車は進む。途中、噂の「行川アイランド駅」を望む。廃園しても駅名は残酷であった。予想通りの廃墟が目の前に広がる。私は「行川アイランド」でフラメンゴを見た記憶は残っている。やはり子供にとっては記憶としては「社寺史跡」より「動物」の方が鮮明ではあるが、いずれにせよ現状では皮肉でしかなかった。
 うたた寝をしていると13時41分、大原駅。電車は7分ばかり停車。この駅は幼年期の思い出とは別の意味で懐かしい駅。3年前の「房総横断私鉄」の際に「いすみ鉄道」に乗車する際に利用した駅。あのころは若かったし、現に文章も稚拙。(もっとも稚拙なのは今も変わらない。それでよく紀行文なんぞ書く気になるもんだ。)宮脇俊三氏がよく言うように年月を経た地は感慨深いが、年月を経ずに採訪した地の印象は鮮明すぎてよろしくない。(たしかニュアンスはこんな感じ。)とにかく、いすみ鉄道の小柄でかわいらしい車両を見物しつつ、次に進む。
 14時09分。上総一ノ宮駅到着。ようやく目的地に到達。館山から2時間ばかりを電車に揺られていたが、そこは本音が鉄道趣味者。さほど苦ではなかっく、降りるのが名残惜しいほどであった。駅名が「上総一ノ宮」というだけあり、一の宮はすぐ近く。駅から一の宮の門前町を抜けると徒歩5分ほどで神域が見えてきた。



「玉前神社」(たまさき神社・延喜式内名神大社・上総国一の宮・旧国幣中社)

御祭神
玉前神玉依姫命(タマヨリヒメ命・神武天皇の母神・詳細

 創祀はあきらかではないが、景行天皇の頃に創祀されたという。また祭神の玉前神に関しても異説は多く、高皇産霊尊の弟である生産霊尊の御子の前玉命とする説や高皇産霊尊の孫の前玉命、また大己貴命とする説もあるが、神社の見解では玉前神を神武天皇の母神である玉依姫命としている。もっとも「やおよろずの神々を想う」タマヨリヒメ命で記したように「玉=神霊・依=憑依、=巫女」であり、タマヨリヒメ=神武母神という図式は成立させ難く、海や玉との関係が各地で地域伝承として伝えられてきた結果と思われる。
 かつては、玉浦(日本武尊東征に記載される地)とよばれた九十九里浜の南端にある釣が崎海岸(彦火々出見尊<山幸彦・詳述>が釣りをしたところ・・・と伝承)あたりに鎮座していたという。延喜式に名を連ねる大社として古来から信仰を集めており、中世には武門の信仰も篤く源頼朝が政子の解任に際して安産を祈願したと伝えられている。戦国の世には北条氏と里見氏の抗争に巻き込まれ、社殿をはじめ宝物・文書等を焼失してしまい、九十九里浜の北端に位置する海上郡領主の海上常忠を頼って十五年間遷座(現、玉崎神社)していた。(当社と海上氏、そして九十九久里浜南端の玉前神社と北端の玉崎神社の関係は興味深いものがあるが不明であるという。)その後、房総で勢力を確立した里見義頼によって天正十年(1582)に再建された。明治四年には国幣中社に列し、昭和二十三年には当時皇太子であらせられた  今上陛下が御参拝になっている。
 現在の社殿は江戸中期の貞享四年(1687)に竣工されたものである。本殿は入母屋造りで、正面に向唐破風を付け、幣殿が拝殿と本殿をつないでおり、全体として複合社殿(権現造り)となっている。

 いつものとおりに神のやしろらしい静寂であった。境内にはけっして広いとは言い難いが、それども空間を巧みに利用して古木が鬱蒼と茂り合い、ひっそりとしながらも壮観であり、かつ社殿は「一の宮」らしく、どっしりとした安定感で迎えてくれる。この雰囲気がなんともいえず嬉しかった。
 私も幾多の神社を参拝したが、「神社を学ぶ」という立場からは、この玉前神社は非常に親切であった。いたるところに「案内板」が立っており要所要所の解説が抜かりなく行われている。それでいてそれらの板は、目立つことなく関心が無ければ気が付かないようなさりげなさをも持ち合わせていた。誰も見ないであろう碑文まで解説が付けられ、神社側の親切心と自信があふれている、そんな感じであった。例えば「獲錨記念碑(東郷平八郎筆)」「征清紀念碑(彰仁親王筆)」や「西南戦争紀念碑(熾仁親王筆)」等は誰も見ないだろうし、私も解説版がなければ誰の何の碑だかも分からなかっただろう。それでも案内板がない細かなものを探すのが私の悪い癖で境内の一角で奇妙なものを発見してしまった。素人の私が見ると、どうみても「砲弾」にしか見えないものが埋め込まれていた。それも目につかないようにひっそりと。直感的に嬉しくなり駆けよってしまったが、まさか巫女さんに「この砲弾は帝國海軍のものですかね」などと聞くわけにも行かず、しばらく考えてしまうも、そこは素人。やっぱり分からない。
 境内には「御神水」として白鳥の井戸と呼ばれるものがある。御神水は汲み取り自由とのことなのでとりあえず、疲れていたので顔を洗わせて貰う。なんとなく気分が良く、なんとなく神力をえたような気になってしまうのは、私が暗示にかかりやすいからなのだろうか。他にも見所が多く、意外と長居をしてしまった。それなのにやっぱり誰もいない。今日は恐ろしく人がいない日らしい。すくなくとも旧県社以上の神社を参拝しているのに誰もいないというのが、なにやらおかしく、それでいて「だからこそ、神社参拝紀行のやりがいがあるというものだ。」という自信が湧いてしまう。少なくとも多くの人が関心無い事項でありながら、日本人に密着している「神社」を調べる歩く、ということに意義を見いださなくては私もこんな文章を書いても楽しくはない。

大鳥居
鳥居
石鳥居
鳥居
玉前神社拝殿
拝殿
御神木「いす」の樹(マンサク科イス)
御神木「いす」の樹(マンサク科イス)



 玉前神社をあとにして駅前に戻る。次の電車は15時09分。そろそろ夕方近く、今後の行動が微妙な時間だが、千葉なら日没しても帰れるので問題なし。まだまだ神社訪問を続けることにする。
 15時25分、本納駅にて下車。ここから「橘神社」に行こうかと思う。行こうかと思うが行き方が分からない。普通ならあるはずの駅前地図すらない。慌てて駅に舞い戻り駅員に尋ねる。「すいません。橘神社に行きたいんですけど、どう行けば良いでしょうか?」駅員は不思議そうに私を見上げてから「駅前を真っ直ぐ行って信号を右に曲がったら、あとは道なりに歩いていけば見えてきます。」とのこと。たしかにその通りに歩き。左手の本納城跡とされる城山に沿って伸びる道を歩いていくこと10分強で鳥居が見えてきた。なによりもこの鳥居が見える、という瞬間が嬉しかった。




「橘神社」(延喜式内小社・上総国二の宮・旧県社・元勅祭社・橘樹神社・吾妻大明神・タチバナ様)

御祭神
弟橘比売命(オトタチバナヒメ命・詳細
日本武尊(ヤマトタケル尊・詳細
忍山宿禰(弟橘比売命の父、相模国穂積氏)

 ヤマトタケル尊が東征の際、走水の海峡を渡ろうとした際に海神の怒りを買い、身代わりとなったオトタチバナ姫命のためにヤマトタケル尊が墳墓を造り、櫛を収めて橘の木を二株植えたのが、当社の始まりという。
 創建説明としてはこれで完結してしまうが、神社で頂いた御由緒書きの文章が旧かな旧漢字で格調高く(間違いなく戦前の文章)、感銘を受けてしまったので、以下を一部転載したいと思う。(漢字は新漢字に改める。)
上総国に渡り座さんとて走水より御船に在して海原へこぎ出し給へば暴風忽ちに起り浪激しく荒びて御船漂蕩危き事限なし御船の中に仕へ奉る相模国穂積氏忍山宿禰の女たる弟橘比売命こは海神の心なるべし妾尊に代わりて海に入りなん尊は御父  天皇の御大命を畏み事成竟給へと菅の畳八重絹の畳八重を荒れ狂ふ波の上に敷きなして下り立たせ給ふとき歌ひ給はく
  佐泥佐泥斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能
(サネサネシ サガムノオヌニ モユルホノ)
  本那迦邇多知氏 斗比斯岐美波母
(ホナカニタチテ トヒシキミハモ)(歌の意味はこちら
と海中深く沈み入り給へば暴風忽ちに鎮まり荒波自らなぎ御船やすやすと上総の岸に着かせ給ひぬかくて七日を過ぐる後弟橘比売命の御櫛岸辺に漂ひ着きたるを日本武尊是れを御掬ひ上げ参らせ御身に固く着け給ひて上総征討の事を行ひ給ふ先づ夷隅の叛徒を言向け和し其れより順次北東の方に進み遂に上総国の叛徒を討ち平げ給ふかくて此地に到り御陵を作り御身につけ参らせる比売命の御櫛を治め奉り橘樹二株をなして墾に御祭仕へ給ふ時は  景行の御宇四十二年正月十七日なり
(以下略)

 応仁年間と天正年間の兵火で社殿を焼失してしまったが、寛政十一年(1799)十一月に本殿が造営され、この本殿が現存している。神社の後方には周囲170メートル、高さ10メートルの古墳が所在している。なお、この本殿造営の際に社殿の前に神木があり後ろに御廟陵がありいたって狭いために、氏子や役人と相談の上、神木を切り御陵の裾を切り開いて良いかの神意を伺ったところ、後ろの地所を切り開いてよいとの神意がでた。そこで鍬を入れたところ、土中から十一個の瓶や壺が出土した。そのうちの一個の大瓶には尊骸が納めてあると思い、驚いて封印して本殿に納めたという。この大瓶は現在は不明であるが、江戸期の頃から弟橘比売命の遺骸が埋葬されているという伝承があったことがわかる。ちなみにこのときの神主は幕府に処置を責められ蟄居を命じられたという。いずれにせよ、弟橘比売命の伝承は伝承として、この古墳祭祀が神社祭祀に変貌したことだけは確かであると思われる。
 明治二十三年に拝殿、同四十四年に渡殿を造営して、現在の社殿の形となった。

 そんなに広くはない社殿だが、親近感が湧いてしまう。そして、私はうれしくてしかたがなかった。ちゃんと古墳があって、その古墳の前には「弟橘比売命御陵」と書かれた碑がある。その碑はなぜだか岩村俊武海軍中将謹書であったが、とにかく「御陵」とされている。伝承が形になっている。歴史趣味としても神社趣味としてもうれしかった。多くの歴史学者や考古学者や国文学者は「ヤマトタケルなどという人物は実在しない。」というが、多くの神社に伝承を残し、足跡を標した事実は存在しており、これを一概に否定はできない。すくなくとも大和朝廷の東国平定の過程で「ヤマトタケル」もしくは、それに擬せられた人物たちがいて、それらをふまえて地域神社伝承が今日まで伝わっているのは事実である。そんな伝承の中でも「橘神社」には本殿裏に「古墳」があり、そこが弟橘比売命陵とされている。それで充分である。あとは伝承の雰囲気を感じ、神々の時代に想いをはせるだけである。境内は自然林にあふれ、そして無秩序に繁っているようで均整のとれている美しさ。本殿は寛政十一年以来というもので、風格が溢れ出ていた。なんともいえず本当に良い神社で、大いに気に入ってしまった。
 社務所でおばちゃんと雑談をしてしまう。地域の鎮守的雰囲気で、自然に雑談する。御由緒書きを所望すると、久しぶりの珍しい参拝客であるらしい私にもうしわけなさそうに「古いのしかなくてねえ。ちょっと読みにくくて・・・。新しいのは在庫が無くなってから作ろうとは思うのですけど」といいつつも出していただく。思わず「いえ、なれてますから全然平気です。むしろ、旧かな旧漢字のほうが風格と歴史が感じられて私は好きですから、この方がありがたいですね」とのたまってしまう。なにやら悠久のときがながれているような、そんな空気であった。すくなくとも20代の若造のセリフではなく、外見では「近代旧かな旧漢字文章」を読みまくった人間であると判別できないから、おばちゃんは不思議そうであった。

 古墳を探訪する。文字通り「古墳」を探訪する。「御陵」では畏れ多くて足を踏み入れることは出来ないけれども、古墳なら「考古趣味」として探訪せずにはいられない。少なくとも「立入禁止」もなく「柵」もない古墳に登っては行けないという法は考古趣味にはない。(考古学者のなかには御禁足の皇室御陵に忍び込んだ強者もいる・・・とか。考古では名門の大学だったから・・・。)登ったところでそこは「古墳」。なにということはないが、やはり古墳らしさと神社社叢を実感するのには最適だった。

橘神社
橘神社
橘神社拝殿
拝殿
橘神社本殿
本殿
本殿脇の御陵碑
本殿脇の御陵碑
橘神社裏古墳(弟橘比売命御陵)
橘神社裏古墳(弟橘比売命御陵)



 来た道を戻り「橘神社」をあとにする。交通量の多い車道に沿って駅まで戻り、16時20分の電車に乗る。あとは家路につくだけのつもりだったが、どことなく気になる神社が一社だけ残っていた。時間を計算してみるとぎりぎり日没前に駆け込みができそうな雰囲気。行ってみることにする。
 外房線に乗り大網駅で快速に乗り換え蘇我駅で再びの内房線に乗り換える。八幡宿駅に着いたのは17時10分であった。あたりはもう夕方の景色。止むおえないが、まだ日没ではない。撮影に支障があっても参拝には支障はないだろう。ここには名前の通りに「八幡」がある。安房総社の八幡と同じような一国一社の総社八幡として「飯香岡八幡宮」という上総総社があるとわかり訪れた次第。場所は幸いにも駅前徒歩五分という好立地ゆえに訪れる気になったわけであり、歩くような場所なら、疲れて訪れる気もしない。




「飯香岡八幡宮」(上総国総社・旧県社・子育八幡・国重文)

御祭神
誉田別命(応神天皇)
息長足姫命(神功皇后)他

 創建は白鳳四年という。社伝によると上総国府が置かれたとき、勅命によって鎮座された一国一社の八幡宮が開基とされている。
 境内には御神木として神社創建の時に、勅使桜町中納言季満卿の手植えといわれる「いちょう」があり、根元近くから巨幹が分岐し並立していることから「夫婦いちょう」とよばれ、安産子育てのシンボルとして当社も「子育て八幡」と呼ばれているという。幹は周囲11メートル、高さはそれぞれ17メートルと18メートルという。
 本殿は国指定重要文化財。建立年月は不明とされるが15世紀後半(室町時代末期)と推定されている。中世神社建築本殿としては規模が大きく簡素で堂々とした入母屋造り。和様建築として貴重であるという。
 拝殿は本殿と比較すると華美な入母屋造り。元禄四年(1691)の再建とされ、時代の違いが良く比較できる。

 どうにも参道が狭い気がする。そして街中ゆえに交通量が激しい。社号標は昭和16年有馬良橘海軍大将謹書とある。珍しい名前でうれしくなる。どうにも千葉の神社は海軍さんが多いようだ。
 狭く薄暗い参道だと思ったら裏参道のようであり左手に拝殿が見えてくる。境内は街中とは思えないほどの静寂であり、そして日没前の暗さに輪をかけて暗い。それほどの木々があたりを覆っていた。社務所も戸締まりを開始しており、もはや一日の終わりを感じてしまった。
 薄暗い中で豪壮な国重文の本殿を眺むるもやはりよく見えない。悔しいけど、もういちどきちんとした形で参拝するしかないようだった。

裏参道(社号標は有馬良橘海軍大将謹書)
裏参道(社号標は有馬良橘海軍大将謹書)
表参道
表参道
飯香岡八幡宮拝殿
拝殿
御神木「いちょう」の樹(夫婦銀杏)
御神木「いちょう」の樹(夫婦銀杏)


 いろいろあったけれども、房総半島を鉄道一周し、なおかつ上総・安房両国の一の宮及び総社を散策してしまう、という無謀な計画に上総二の宮橘神社まで付随させた今回の計画は大成功といえそうである。もっとも私の行動力の限界を超えていたらしく、家に帰ってからが大変だったが・・・。




参考文献。
郷土資料事典12 千葉県 人文社
角川日本地名大辞典12 千葉県 角川書店
日本の神々 神社と聖地11 関東 谷川健一編 白水社
他、各神社御由緒書き、及び案内解説版等

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