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「奥州伊達郡をゆく〜阿武急沿線の宮詣で〜 その4・梁川」


<平成17年9月参拝・11月記載>

その1・霊山 「伊達郡を想う」「信夫山」「阿武隈急行」「掛田駅」「霊山神社」
その2・保原 「保原町」「保原ノ天照神明宮」「保原ノ厳島神社」
その3・高子 「奥州伊達氏発祥の地」「高子ノ亀岡八幡神社」
その4・梁川 「梁川」「伊達政宗・持宗の乱」「伊達天文大乱」「梁川ノ亀岡八幡神社」「梁川天神社
その5・飯坂 「福島交通飯坂線」「飯坂ノ八幡神社」


梁川
保原高子。伊達氏発祥の地から梁川に赴く。
12時45分頃に「阿武隈急行・やながわ希望の森公園前駅」に到着。昔は日本一長い駅名だったが、長さというものはどうにでもなる。
そんな梁川。柳川ではない。
この梁川も伊達の名残。伊達の面影をたどり、そして私は「伊達の八幡様」を辿っていた。

やながわ希望の森公園前駅
やながわ希望の森公園前駅

梁川城。第3代伊達義広が梁川城を築城。以来伊達氏有数の拠点となる。
応永20年(1413)「伊達持宗の乱」で知られる第11代伊達持宗から伊達稙宗までは梁川を居城としていた。
大永3年(1523)に第14代伊達稙宗が奥州守護職に任命され梁川城は奥州守護府城となる。天文元年に伊達稙宗が居城を桑折西山に移すと伊達稙宗八男の宗清が入城し、梁川氏となる。


伊達政宗・持宗の乱

伊達政宗。第9代。伊達氏中興の祖としてしられる政宗。戦国の伊達17代独眼竜政宗はこの名にあやかったものである。
南朝方として奮戦した7代伊達行朝以降、沈んでいた伊達氏を盛り上げたのが9代伊達政宗。
明徳3年(1392)に南北朝の乱が終息し南北合一。陸奥出羽は鎌倉府直轄となる。伊達政宗は1397年に上洛し、足利義満に謁見。

応永6年(1399)。「伊達政宗の乱」勃発。鎌倉府の奥州経営に反発して起こした反乱であった。
奥州経営をする鎌倉府の横暴に反発した伊達政宗は奥州管領大崎詮持や蘆名満盛らと連携し鎌倉征伐軍を起こす。室町幕府と鎌倉府が対立関係にある中で足利義満の叔母を正室としていた政宗は幕府よりとしての強みがあった。しかし白河の白川満朝に迎撃され敗退。蘆名満盛とともに出羽に逃亡。奥州管領・大崎詮持は自刃してしまう。

応永7年(1400)に斯波詮持が奥州探題となる。伊達政宗・芦名満盛は再び鎌倉に進撃するも敗退。稲村公方の足利義貞が伊達政宗追討令を発令。応永9年(1402)に政宗は上杉氏憲(禅秀)率いる鎮圧軍を伊達郡赤館で迎撃し多大な損害を与えるも周辺豪族の支持を得られず敗退。

しかしこの伊達政宗の活躍によって、伊達氏は奥州にその名を再び轟かせることとなる。

応永20年(1413)に第11代伊達持宗は懸田定勝らを従えて稲村・篠川両御所を襲撃。関東公方足利持氏は畠山修理大夫を大将とした討伐軍を派遣。大仏城(杉目城=福島市)に籠もるも敗退。「伊達持宗の乱」と呼称される。

1427年に伊達持宗は、本題の「亀岡八幡」を梁川に遷座。
1438年。永享の乱。室町幕府は伊達・田村・懸田諸氏に鎌倉公方足利持氏の討伐を命じる。伊達持宗は関東の動乱に乗じ奥州に確固たる勢力を拡大。翌年、鎌倉府滅亡。
1460年に将軍足利義政は伊達・白河・蘆名・相馬・岩城諸氏に古河公方足利成氏の討伐を命じ、62年に伊達持宗は義政に謁見。


伊達天文大乱
第14代・伊達稙宗。有名な独眼竜政宗の曾祖父。「塵芥集」を制定。
ちなみに稙宗−晴宗−輝宗−政宗。戦国時代の伊達氏は政宗以前の伊達氏が活躍する時代。伊達政宗は、戦国時代の波に遅れた英雄であったのだ。

伊達稙宗が三男伊達実元を越後守護職上杉定実の養子に入れることを決意した時から奥州の大乱が始まった。
上杉氏の使者も伊達領にやってきて、いよいよ実元が出発するという直前に長男である伊達晴宗が父伊達稙宗を幽閉。自ら伊達氏の采配を振ろうと立ち上がった。
事件を聞いた懸田義宗・俊宗父子(懸田駅でちょっと触れた)や稙宗娘婿の相馬顕胤ら、そして蘆名氏や二階堂氏はすぐさまに軍を発して桑折西山城に幽閉された稙宗救出作戦を決行。
天文11年(1542)6月20日のことであった。

越後上杉氏は守護代長尾氏に圧迫され、名ばかりの守護であった。そこで奥州守護職として飛ぶ鳥を落とす勢いであった伊達稙宗にすがり養子として迎えようと計画したものであった。

伊達稙宗の跡を継ぐ後継の晴宗の心中は穏やかではなかった。伊達宿老の中野宗時と桑折景長が晴宗に訴える。
「実元とともに伊達の家臣団が越後に裂かれると伊達氏は弱体化してしまう」と。
伊達の後継たる晴宗にとってみれば隣の越後よりも自らの足元が大切であった。なんとしても実元養子を中止させるために実力行使にでた結果が「父たる稙宗の幽閉」であった。

このとき伊達分家の小梁川宗朝が高子付近の阿武隈川を渡り、単身で稙宗幽閉先の桑折西山城に赴き、稙宗の救出に成功する。
救出された稙宗は支援者たる懸田や相馬小高を転々とし、檄を飛ばす。
一方で晴宗も檄を飛ばして、ここに奥州の名家たる伊達氏の親子相剋が開始される。
世にいう「伊達天文大乱」は、伊達氏のみならず近隣豪族を巻き込む一大争乱であった。

天文11年(1542)
9月
稙宗党の田村隆顕・塩松氏・二本松畠山氏が二本松の晴宗党を攻撃し敗退させるも、晴宗は西山で勝利。
11月
稙宗党の最上氏・相馬氏・田村氏が会して晴宗の桑折西山城を攻めるも敗退。相馬顕胤は川俣に転戦するも晴宗党に撃退される。
天文12年
4月
晴宗党が懸田氏の懸田城を攻撃。大崎では晴宗党が仙台国分地方に侵入。晴宗岳父の岩城重隆が安積・石川の兵を率いて懸田城攻撃。
7月
最上義守が稙宗支援。
8月
相馬顕胤と懸田氏が懸田城に西山攻略の陣を張る。
10月
懸田の兵と晴宗党が激突し、晴宗党力戦。
天文13年
稙宗党の相馬顕胤や懸田俊宗が懸田城で懸田家中の反逆に遭う。
7月
稙宗党が信夫庄を確保。稙宗党が有利となる。
9月
懸田氏で内乱。
天文14年
晴宗は味方する七ヶ宿の二平・小関・渡辺・古山氏の使役を免除。稙宗は梁川城に入城するために宇多中村で進出。長井の粟野氏をはじめ三本柳・高畠・志田・蔵王・栖島が晴宗党となる。
天文15年
5月
晴宗が白河の結城晴綱に友好を求める。柴田・刈田・伊具・宇多氏が晴宗党となる。
田村氏・塩松氏が晴宗党と衝突。
6月
晴宗は桑折西山城を守備しがたくなり脱出。白石実綱の白石城に移る。かわって稙宗が桑折西山城に入城。
稙宗と白河の結城晴綱が友好関係となる。
稙宗党の二本松義氏が晴宗党の本宮宗頼を敗退させる。
天文16年
蘆名盛氏が田村隆顕・二階堂輝と対立し晴宗党となる。
天文17年
1月
稙宗党の田村氏家中で分裂。過半が晴宗党となる。塩松尚義も晴宗党となる。
3月
晴宗党が稙宗党の相馬氏を敗退させる。
5月
第13代室町幕府将軍足利義輝が父子の和睦を命じ芦名盛舜に調停を命じる。
7月
二階堂氏と白川氏・田村氏間で和睦。
9月
伊達稙宗と晴宗が和睦。稙宗が丸森城に隠退。晴宗が正式に伊達氏第15代となる。晴宗は居城を桑折西山から米沢とする。
天文大乱の終息


伊達の歴史を辿りながら、懐かしい地名や氏族にワクワクしながら文章をつづる私がいる。
この心持ちは、伊達を愛する人間でないとわからないだろう。
梁川に戻らなければ話は進まない。
神社の話をしなければ、このサイトの意味がない。
伊達晴宗まで話題はすすんだが、その息子の輝宗は米沢に行ってしまう。ただ、輝宗の子供の伊達政宗は「梁川亀岡八幡」に縁がある。それは神社で語るとしよう。

駅から15分ほど歩む。約1キロ北上する。社地の北側には阿武隈川がながれる長閑な田園に鎮座しているのが「梁川ノ亀岡八幡神社」。伊達とともにあゆむ「亀岡の八幡様」なのだ。



梁川亀岡八幡神社(亀岡八幡宮・梁川八幡)
(福島県伊達郡梁川町八幡鎮座)

祭神:誉田別命・応神天皇

亀岡八幡は伊達氏祖、中村常陸介念西(初代伊達朝宗)の勧請。建暦2年(1212)に中村氏の崇敬してきた下野国芳賀郡中村八幡を遷宮とも鎌倉八幡を遷宮したともされる。伊達氏代々の守護神。
はじめ高子が岡に鎮座していたが、のちに梁川城外に遷座。

もともとは平安中期の永観年中(983−85)に田原中納言勝稙が、山城国石清水八幡を勧請し「若宮八幡」としたのが当社の起源。

正治年間(1199−1200)に中村次郎為重(のちの第2代伊達宗村)が梁川に居住し、鎌倉八幡を勧請し、梁川富野の「若宮八幡」とあわせて祀る。

第3代伊達義広が栗野大館に居城を移し、亀岡八幡も遷座。
第11代伊達持宗が梁川城築城に際して、城鬼門の北東にあたる地に鎮座の「若宮八幡」と改めて合祀し、梁川に復す。
第14代伊達稙宗が桑折西山城に移ると、共に遷宮。
第15代伊達晴宗が米沢に居城を移すと、米沢の成島八幡宮(第8代伊達宗遠が崇敬し社殿造営している古社。伊達政宗の側近であった片倉景綱は成島八幡の神官の子であった)と梁川亀岡八幡を共に崇敬。伊達稙宗は西山に居城、亀岡八幡も西山に再度遷宮。
伊達氏が米沢に移り、隠居していた伊達稙宗が西山城から大森城に移ると亀岡八幡は荒廃してしまう。
元亀2年(1571)に復興させ桑折西山から改めて梁川に亀岡八幡宮を復宮。
天正10年(1582)に第17代伊達政宗が初陣祈願。
慶長7年(1602)に亀岡八幡は仙台城下に移り、仮宮が祭られる。
天和3年(1683)に現在の宮城県仙台市川内亀岡町に遷宮。亀岡八幡神社として同名社が鎮座している。なお米沢の成島八幡は仙台城下で大崎八幡宮として合祀されて崇敬されている。

現本殿は永享二年(1745)に改築されたものという。
現在、境内には伊達晴宗造営とされる庭園が残る。

山岡荘八の「伊達政宗」では梁川八幡が舞台となる逸話が描かれている。
すなわち・・・。
天正7年(1579)に三春から田村家の向舘内匠が田村の一人娘愛姫を連れて「梁川八幡」付近までやってきた。米沢からは伊達家の遠藤基信が迎えに出る。12歳の花嫁が13歳の政宗の嫁となり、伊達と田村に強い結束がうまれた瞬間であった。

天正10年(1582)、16歳であった独眼竜伊達政宗は父輝宗とともに梁川八幡で初陣祈願を行っている。
祈願を終えた政宗が境内の桜の花の下で休息していると、侍大将立花外記が政宗に暇をとりたいと申し出る。春の花の下で、戦に怖じ気付いてしまった、と。政宗は桜の花の下で外記の心情に頷き暇を与えることを了解し、一種の古歌をしたためる。
「春霞立つを見捨てて行く雁は 花なき里にすみやならえる」
政宗が形見として遣わすと、外記は我が身のことのみを考えていたことを恥じ、自害をしようとする。政宗はそれを押しとどめて、「切腹させるぐらいならなんで暇などやろう。死ぬならば共に参れ」と諭し、共に馬を進めた、という。

今の世に伝わる鳥井脇の桜は、いわくに因み「政宗さとしの桜」とされている。

初陣祈願を終えた伊達郡は、輝宗生涯の宿敵であった相馬氏攻略を開始し丸森城・金山城を奪回する勝利を納めた。織田信長が本能寺に倒れた天正10年。奥州でようやくに独眼竜がその名を轟かせることとなる。

梁川八幡
梁川八幡 遠望
梁川八幡
鳥井脇に「政宗さとしの桜」あり。梁川八幡参道
梁川八幡
参道の厳島神社
梁川八幡
池の向こうは観音堂。神仏習合の色が残る
梁川八幡
池を渡れば拝殿
梁川八幡
拝殿
梁川八幡
本殿
梁川八幡
本殿
梁川八幡
梁川八幡
路傍の神さまに、つい足を止める
梁川八幡
梁川八幡の厳島神社をうしろに静かに花に目を向けるひととき。

駅からのんびりと歩く。日差しがここちよかった。黄金色になりそうな田圃を眺めれば、森が見える。爽快な青空の下で、黄色い絨毯のなかで、深い緑の中に、伊達ゆかりの神社があった。
参道をゆっくりと歩む。いつも以上に興奮私がそこにいる。そこは、忘れ去られた空間だった。ただ私という雑念の固まりが一個の人間としているだけでった。伊達という、その言霊に導かれて私は伊達の氏神様を詣でる。そこは忘れられた伊達の土地。福島の伊達には仙台のだとと比べて快活な明るさがなかった。しかし、重みがある。そう、この土地こそが「伊達の息吹宿る地」なのだから。そんな重厚感が境内に包まれる。
私の心は、その聖域の中で、感無量な充実感に包まれていた。
わざわざ来た甲斐が、そこにあった。
伊達の息吹。伊達の面影。
ありがたいばかりに、私は満喫させて頂いた。気が付けば一時間近く神社にいた。路傍に親しみ、田圃を眺めて、阿武隈川の気配を感じ、青空の下で伊達に思いはせれば、一向に飽きることのない時間。
それでも足りない時間ではあったが、私は歩かなくては行けない。次に向かって進まなくては行けなかった。
なんども振り返って、その黄金色に実る稲穂の向こうから、感謝の念に溢れていた私がいる。

もっとも私は伊達氏とは関係ない。ただ福島県伊達郡を本籍としているだけの人間。いまは武蔵国埼玉の人間。それだからこそ、先祖の伊達という土地、そして伊達という土地の象徴たる伊達氏に恋い焦がれいたのかも知れない。



梁川天神社(旧郷社)

祭神:天満天神

永観年中(983頃)に山蔭中納言政朝が菅原道真公を奉じて社殿を造営したことにはじまるという。もともとは梁川天神町に鎮座。
文治の役(1189)の功績によって中村念西(伊達初代朝宗)が伊達郡を賜ると建久のはじめ(1190)に朝宗の子である宗村(伊達2代)が梁川に居して天満宮を再興。
天正4年に現在地に伊達晴宗が社殿を造営。享保14年に紀州分家の梁川藩主松平通春(のちの尾張第7代藩主徳川宗春)が日光東照宮を分霊して境内にまつっている。
明治社格では大正13年に郷社に昇格している。

梁川天神社
梁川天神社
梁川天神社
拝殿
梁川天神社
参道
梁川天神社
社殿

梁川亀岡八幡から南に500メートル。やながわ希望の森公園前駅からは北西に約500メートルの地に鎮座。
伊達の梁川を歩けば、伊達に馴染みの神社に出くわす。相変わらず予備知識なしで、梁川八幡に赴いて、感無量の心持ちで駅までの道を歩く途中に神社に出くわす。伊達の梁川の空は一段と澄みきっていた。
天神社は東面していた。鳥居は南面。境内で参道は直角に折れ曲がる。開放感に溢れて、すがすがしい神社。思いっきり両手を拡げたくなってくる。

やながわ希望の森公園駅に戻ってくる。電車の時間を考えていると、あまり時間がない。梁川城趾に赴く時間は残念ながらないようであったが、致し方がない。城散策まではじめてしまうとそれこそ際限がない。
阿武急を北上するか南下するか迷う。迷うけれども福島に戻ろうかと思う。今日は福島の気分であったから。北上して宮城入りしても、あまり活動時間がないので半端で勿体ない。宮城の伊達はまたの機会だ。

14時40分過ぎに阿武急に乗り込んで福島に戻る。朝からお世話になった阿武急沿線。梁川から保原を通過し15時10分に福島駅に戻ってくる。
さてどうしよう。
実は今日の宿は盛岡に確保してある。
さんざん福島福島言いながら、ここで一気に盛岡まで北上するのだから、その活動範囲に呆れる。
JRのフリー切符「三連休パス」のフル活用。
埼玉県からスタートして初日に福島。夜に盛岡。二日目に盛岡から宮城に南下。三日目に宮城で知り合いと合流するというスケジュール。
そんな慌ただしいのかのんびりなのかわからないけど、いつもどおりの神社巡り。

結局、なんとなくだった。
15時30分に福島から福島交通飯坂線に乗り込んで終点の飯坂温泉を目指す。温泉に入る気はないが、飯坂の八幡神社に行こうかと思案して。
とくに深い意味はない。
福島市内の神社を巡るには時間が半端なだけ。そして私の頭には飯坂の八幡様が多生の縁で頭にインプットされていたから。


参考文献
保原町史・第一巻 通史
案内看板、由緒書き等。
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名大辞典


5/飯坂」へ


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