神社紀行〜全国編
神社紀行〜武蔵国編
武蔵国延喜式内社
神社御朱印
記紀神話の神様
神社つれづれ
靖國神社を想ふ
かみちゅ!舞台探訪参詣記
武蔵調布の神社歳時記
下総銚子の神社歳時記
 
掲載社一覧
神社所在地図一覧
掲示板
りんく集
 
Google

WWW を検索
サイト内検索

−表紙に戻る−


「春の江ノ島・鎌倉散歩」

<平成22年4月参拝5月記載>

  「江ノ島へ
  「児玉神社
  「江島神社・辺津宮」・「江島神社・中津宮」・「江島神社・奥津宮
  「江ノ島岩屋」「江ノ島−鎌倉散歩
  「鶴岡八幡宮」「鶴岡八幡宮・三の鳥居〜二の鳥居参道(段葛)」「鶴岡八幡宮一の宮大鳥居
  「由比若宮(元鶴岡八幡宮)



「江ノ島へ」 

唐突ではあれど、4月のはじめに、鎌倉に行くこととなった。
私の両親と、私と嫁と。
なんでも両親が段葛の桜が見たいとの事で、まあ良い機会なので、ご同行。

新宿から小田急特急で江ノ島へ。到着時間は10時15分。
そこからまっすぐ江ノ島へと歩く。


小田急特急にて江ノ島へ。

片瀬江ノ島駅

江ノ島に至る道。龍燈篭(平成13年)建立。

私は江ノ島に来るのは初めて。そんなわけで気持ちは江ノ島の神社へ急く。

気持ちは急くけどひとり脇にそれて、ちと寄り道。あまり人目にはつかない児玉神社に最初に立ち寄ってみたい。
私の母親や嫁は、参道の「たこせんべい」に捕まっていたりするので、サクサクと私一人での参拝なのだ。



「児玉神社」 (県社・単一神社・神奈川県藤沢市江ノ島鎮座)

御祭神:児玉源太郎命(1852−1906)

明治時代に活躍した陸軍軍人・政治家。
正二位・勲一等・功一級。陸軍大将。陸軍大臣・陸軍大学校好調・文部大臣・内務大臣・台湾総督等の要職を歴任し、教育者としては成城学校校長をも勤めている。
日露戦争時には国家の火急に際し、陸軍中将(のちに大将)・内務大臣として国家中枢の要職にあったが、内務大臣職を辞し自ら降格して大本営参謀次長に就任。対露作戦に従事。日露開戦時には現地の満州軍の総参謀長として祖国防衛の主導を担った。
特に乃木第三軍が苦戦する旅順を直接指揮でもって陥落させたことは有名。

救国の英雄として凱旋するも、児玉大将は日露戦争ですべてを燃焼されたかの如く明治39年7月23日に55歳にて急逝された。
明治45年(1912)に3回忌を期して、児玉大将の親友であった杉山茂丸(在野の浪人であったが政界の黒幕と呼ばれた人物)が向島の私邸に社を建立し、児玉大将をお祀りしたのが児玉神社の前身とされる。
のちに児玉大将もたびたび訪れていたゆかりの江ノ島に遷座。もと杉山茂丸の別荘跡地とされている。

大正7年(1918)、公認神社へと昇格請願が受理されたのを受けて、後藤新平を中心とする崇敬者が社格相応の社殿を築くこととし改めて新社殿建立。設計は当時の寺社建築の第一人者であった伊藤忠太工学博士であり、近代神社建築の模範とされている。
社殿用材および石材等は児玉大将が台湾総督であったことから台湾より奉納された。

社殿前の一対の狛犬は昭和5年(1930)に台湾より送られた逸品。口の中で石の玉を転がしている珍しいもの。

平成18年には日本李登輝友の会の尽力により李登輝前台湾総統に「児玉神社」の揮毫をいただき、現在の扁額としている。

境内の見所としては、
「石鳥居」
  台湾婦人会より寄贈

「爾霊山高地の石塊・棗萩松碑」
  昭和10年(1935)に横須賀鎮守府より寄贈されたもの。
  爾霊山高地とは日露戦争旅順要害の激戦地203高地のこと。乃木希典の漢詩に由来。
  乃木希典は児玉の友人にして、台湾総督として児玉の前任者でもあった。

「後藤新平の詩碑」 
  台湾総督時代に児玉から抜擢され民政長官に就任。
  森嚴羽衛老將軍。功烈眞兼武與文。造次不離忠孝旨。于花于月又思君。

「山縣有朋の歌碑」
  山縣有朋は児玉の上役。日露戦争時の参謀本部総長。児玉は開戦前は参謀本部次長。
  越えはまた里やあらむと頼みてし 杖さへ折れぬ老いの坂道

参考
ウィキペディア〜児玉神社(藤沢江ノ島) ・ 児玉神社(山口県周南市) ・ 児玉源太郎 ・ 杉山茂丸


児玉神社・石鳥居(台湾婦人会奉納)

児玉神社・石鳥居(台湾婦人会奉納)

児玉神社・奉納石碑郡

児玉神社・二の鳥居

児玉神社・参道

児玉神社・社殿

李登輝元台湾総統の揮毫扁額

児玉神社・本殿

台湾より送られた狛犬

台湾より送られた狛犬

爾霊山高地の石塊・棗萩松碑

まわりに奉納している石は旅順203高地の石


湘南遊歩道路(国道134号)開通時に
現在の江ノ電駐車センターの所に
建てられていた乃木希典銅像の傍らにあったものを
2001年にここに移した。

後藤新平の詩碑

「坂の上の雲」の世界でも重要なポイントとなる「児玉源太郎」。そんな日露戦争で活躍した陸軍大将を祭る神社が江ノ島にあった。
喧騒のなかで多くの観光客が行きかう江ノ島神社周辺からちょっとだけ外れた鎮座地。
辺津宮の参道のすぐ脇であれど、この存在に気がつく人は少ないようだ。
私が足を運んでいた際に、誰一人ともおとづれる人はなかった。

私なんかが思うに児玉源太郎は日露戦争の頭脳であれど、どうも神社を訪れ調べるにつれて児玉源太郎の実績は「台湾総督」時代に蓄積されてきたのであろうと思えてきた。
境内の狛犬や鳥居等、そして李登輝元総統の扁額など台湾と密接な関係にあることがそれを物語っていた。
児玉時代に台湾は飛躍的に発展をしたともいわれている。

余話ではあるが、
昭和20年にフィリピンのラウレル大統領が児玉源太郎についてこう表現をしている。
「日本はなぜ、かつて台湾総督、児玉源太郎が台湾を統治した方法に則り、力をもって強圧するのではなく、人情をもって、フィリピン民衆に臨まなかったのであるか。これが日本の失敗といわずしてなんであろうか」と。
大東亜会議の真実: アジアの解放と独立を目指して 著者: 深田祐介 97ページ参照>
ともある。それほどにも台湾総督時代の児玉は評価されていたのだ。

せっかくなので神社の方がおればご朱印をいただきたいところではあったが、残念ながら人の気配がなかった。
家族が待っているので、あまり長居もできない。
またここには来る事を感じつつ、江島神社の喧騒へと戻ることとする。




「江島神社」(旧県社・神社本庁別表神社・日本三大弁財天のひとつ・藤沢市江の島鎮座)

御祭神
 宗像三神(総称を江島大神とする)
  辺津宮:田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)
  中津宮:市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)
  奥津宮:多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)

公式サイト http://www.enoshimajinja.or.jp/

−−−−−−以下、公式より引用−−−−−−

社伝によると、欽明天皇十三年(552年)に、「欽明天皇の御宇、神宣により詔して 宮を島南の竜穴に建てられ 一歳二度の祭祀この時に始まる」とあります。 これは、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されてます。欽明天皇は、聖徳太子よりも少し前の時代の天皇で、 この頃、日本では仏教が公伝され、日本固有の神道と外来の仏教が共に大事にされていました。

江島神社は、当時は、海運、漁業、交通の守護神として祀られ、 御窟(おんいわや)を本宮といい、奥津宮を本宮御旅所、中津宮を上の宮、辺津宮を下の宮と呼んでいました。 その後、文武天皇4年(700年)に、役小角という修験者がこの御窟に参籠して神感を受け、 泰澄、道智、弘法、安然、日蓮などの名僧が、次々に行を練り、高い御神徳を仰いだと伝えられています。

それから後、仏教との習合により江島は金亀山与願寺と号し、 源頼朝は鳥居を奉納し、北条時政は参籠し、龍の三つの鱗を授けられ、それを家紋としました。 また御宇多天皇は、蒙古軍を撃ち退けた御礼として、江島大明神の勅額を奉納されました。 このように朝廷及び、武将を始め、庶民の信仰も篤く、江戸時代には、江島弁財天への信仰が集まり、 江ノ島詣の人々で大変な賑わいを見せました。

現在でも、境内各所の社蔵の浮世絵等で、当時の江島神社の様子を窺い知ることができます。 特に中津宮には、江戸堺町中村座、江戸新町中村座、江戸葦屋町市村座、江戸新肴場和泉甚左衛門等が奉納した石燈籠があり、 江ノ島入り口には数多くの寄進者達の名前を刻んだ青銅の鳥居(1821年建立)などがあります。

神仏習合時代にも、江島大神としての御神威はいささか曇り給うことなく、 御神徳は、いよいよ広大に仰がれました。明治初年の神仏分離によって、仏式を全廃して純神道に復し、 改めて「江島神社」と号し、現在に至ります。

伝説によれば、鎌倉には昔、五つの頭を持つ龍がいて悪行を重ねていました。そこへ弁財天が天から舞い降り、天女に恋心を抱く五頭龍を諭し、悪行をやめさせました。この五頭龍をまつるのが龍口明神社(鎌倉市腰越)です。その後、五頭龍は海を離れ、山に姿を変えました。これが現在の藤沢市龍口山です。そして、天女の天下りとともに出現した島が現在の江ノ島。天女は江島神社に奉られている弁財天です。江島神社には弁財天堂があり裸弁財天像が奉られています。  

平成十三年四月一日には、御鎮座1450年式年大祭が盛大に挙行され、「神幸祭」で、江島神社とは夫婦の関係にある、この龍口明神社から御神輿を迎え入れました。 この伝説が記された『江島縁起』の絵巻物は、江島神社の御宝物として保管されています。

−−−−−−以上、引用ここまで−−−−−−

欽明天皇13年(552)に江ノ島の南の洞窟に宮を立てたことに始まる。
神仏習合によって当社は金亀山与願寺と称されてきた。
江戸期の慶安2年(1649)に京都任和寺の末寺となり「岩本院(江嶋寺=こうとうじ)」がのちに全島を権益を握る。
明治6年(1872)に神仏分離により仏式を廃して神社として「江島神社」に改称し県社昇格。


*日本三大弁財天
 ・安芸宮島
 ・近江竹生島
 ・相模江ノ島
 ・大和吉野天河

「江島神社・辺津宮」(下之宮)

御祭神
辺津宮:田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)

下之宮。建永元年(1206)に源実朝が創建。
権現造社殿は延宝3年(1675)再建され。昭和51年に大改修し社殿新築している。

境内の八坂神社(建速須佐之男命)は湘南夏祭り・江島天王祭で知られる。
江戸時代は、天王社として祀られ、弘化元年(1844)に再建。明治六年に「八坂神社」と改称。平成13年に改築。
古来は対岸の腰越に祀られていたが大波で流され、御窟前の海中に沈んでいた御神体を漁師が拾い上げて、ここに祀ったとされる。
夏祭りでは神輿は江ノ島大橋より海中にはいり、夫婦神である対岸腰越の「小動神社」へと神幸し湘南唯一の夏祭りとして有名。

参考
ウィキペディア〜江島神社


青銅鳥居・一の鳥居
延享4年(1747)創建・文政4年(1821)改修

東郷平八郎揮毫の社号標
大正10年4月建立

大鳥居・昭和11年10月建立

瑞心門・龍宮城を模して造営(昭和61年・1986)

賑わう江島神社・辺津宮

奉安殿
「妙音弁財天(裸弁天)」・国重文の「八臂弁財天」

八坂神社 建速須佐之男命

御神木・銀杏(むすびの樹)

辺津宮よりみた下の様子。
結構な高台に鎮座している。

「江島神社・中津宮」 

御祭神
中津宮:市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)

上之宮。仁寿3年(853)に慈覚大師が創建。
現在の権現造の社殿は元禄2年(1689)改築。平成8年に全面改修し元禄2年改築時の姿を再現している。。


「江島神社・奥津宮」 

御祭神
奥津宮:多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)

本宮。御旅所。
入母屋造の社殿は天保13年(1842)再建。昭和54年に修復。


伝・源頼朝寄進の鳥居
現在の鳥居は平成16年の台風で破損したものを補修

頼朝寄進の鳥居は設置場所・形が特定できず、
この鳥居が「伝」とされている

亀石(亀甲石)


拝殿天井の八方睨みの亀 どこから見ても睨んでいるという亀絵

奥津宮本殿

「龍宮」(わだつのみや) 平成6年に創建。

江ノ島。江島神社。
きた事がない地であった。やはり観光地ともなるとなかなか来難い場所ではある。
特に一人で神社詣でをしていたころは、こういう場所は近寄りがたいものであれ、今回は家族旅行。それだけのことでかなり気が楽だ。
もっとも、神社を巡るときは勝手気ままであれど。
江ノ島といっても、ぶっちゃけて神社以外はあまり印象に残っていない。タワーにも登っていないので、あとは洞窟が珍しいぐらいなところだろうか。

江島神社の三社をまわって、昼を食べて、そうして所要は約4時間。
10時30分に江ノ島に到着して、江ノ島を離れたのが14時過ぎ。



「江ノ島岩屋」

江の島南西部の海食崖基部の断層線に沿って侵蝕が進んだ海蝕洞群の総称。
古来、金窟、龍窟、蓬莱洞、神窟、本宮岩屋、龍穴、神洞などさまざまな名で呼ばれており、宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきた。また、富士山風穴をはじめ、関東各地の洞穴と奥で繋がっているという伝説がある。江の島参詣の最終目的地と位置づけられ、多くの参詣者、観光客を引きつけてきたが、1971年(昭和46年)3月7日に崩落事故が起き、以来立ち入り禁止措置がとられた。22年を経て藤沢市の手で安全化改修工事が行われ、1993年(平成5年)第一岩屋と第二岩屋が有料の観光施設として公開された。

ウィキペディア〜江ノ島


順不同。
洞窟はロウソクを片手に歩くというの趣向が面白い。一番奥まで行くと、石祠があったり、竜神がいたり。
竜神のほうはさすがに観光客相手のハリボテでありがたさもなにもあったものではないが、石祠は江島神社の創建由緒を知れば洞窟での信仰から始まっているので、それこそ江島神社の原点に接するかのような神妙な趣となる。



「江ノ島−鎌倉散歩」 

ぷらぷらと。


江ノ島の土産屋で売っていた「たこせんべい」
たこの姿が丸焼き

昼食に食べた海鮮ものの丼

「宋国伝来の古碑」 元久元年(1204)

一遍上人の島井戸 一遍上人の遊行の旧跡

郡猿奉賽像庚申塔 江戸時代後期
136匹の神猿が山王神を奉賽している珍しい庚申塔

松尾芭蕉歌碑
疑ふ那潮能花も浦乃春

江ノ島で読んだものではないが。

江ノ島渡船。
島を半周して大橋入口の方まで結ぶ


江ノ島にいたネコ

江ノ島電鉄江ノ島駅

長谷寺

鎌倉大仏

江ノ島から鎌倉へ移動。途中、両親のリクエストで長谷寺と鎌倉大仏へ。
実は両方とも私にとってははじめての場所。寺院が嫌いなわけでもなくただ機会がなかったというだけ。鎌倉に来たのであれば一度ぐらいは訪れても損はない。



「 鶴岡八幡宮」 <国幣中社・相模国一の宮・国重文社殿>(神奈川県鎌倉市雪ノ下鎮座)

神社由緒はこちら

2010年3月10日に鶴岡八幡宮の大銀杏が倒木。現在は再生を願っている段階。


2010年4月4日の様子
右に元の幹。左に新たに移植した幹を根付かせているところ。

2009年5月撮影。在りし日の大銀杏

2009年5月撮影。在りし日の大銀杏

2010年4月4日撮影。

元の幹から新芽が伸びていました

いろいろ寄り道していて鎌倉の鶴岡八幡宮に到着したのが16時40分。
足早に参拝して、とにかく大銀杏のあとを見聞。
この樹齢1000年余を誇るとされた大銀杏が倒木したというニュースを聞いたときはさすがにショックだった。
せめてもの救いはその1年前に元気な姿を拝見していたこと。
ただじっくりとは見ていなかったため、今にして元気な姿をもっとよく見ておけばと思いつつ。

望遠レンズで覗き込めば、小さな芽が伸び始めているのが目に付く。
まだ御神木は生きている!
希望の芽をじーっとみつめ、復活できることを心から祈る。
なんとか御神木の命をつなげようとという気概が伝わってくる様相でした。

鎌倉までちょくちょくと御神木の行く末を見に来たくなりそうです。



「鶴岡八幡宮・三の鳥居〜二の鳥居参道(段葛)」 


三の鳥居(鶴岡八幡宮に一番近い鳥居)

段葛の桜並木

段葛の桜並木

二の鳥居

17時過ぎ。参道を駅のほうに戻る。
この段葛で桜が咲いているのを見るのもはじめて。日中は大変な混雑であろうとことが予想できたが、さすがに夕方ともなればだいぶ歩きやすい。
そうして二の鳥居まで行ったら、父が「一の鳥居まで行きたい」という。
「結構な距離ありますよ。もう暗くなりますよ。」と一応言っておいたが、行くと言うので道案内。
ちなみに父は文学・歴史に造詣が深いので、まあこのあたりの守備範囲は私が似たというところだろうか。



「鶴岡八幡宮一の宮大鳥居」 

現在の石鳥居は寛文8年造。花崗岩。
明治37年に国宝指定。
大正12年、関東大震災に際して柱下部を残してことごとく転落大破。
昭和11年修復。


若宮大路。突き当たりに鶴岡八幡宮。

一の鳥居

一の鳥居

一の鳥居 寛文8年造

鳥居の柱が折れたことがわかる

一の鳥居はまっすぐ。二の鳥居からは約1キロ。鶴岡八幡宮からは約2キロ。

17時20分。そうして一の鳥居に到着。
ここまでは遠いのでなかなか来ない。私がここにきたのは二回目。改めてみるとやっぱり大きい。これだけ大きな石鳥居はそうそう見られるものではないだろう。
もっとも夕暮れが近いのであまりゆっくりともしてられない。

さらには「元八幡」にも行きたいと父が言う。元八幡の存在を知っているのはさすが。
実は私も行ったことがなかったので「元八幡」には行ってみたかったが、父も私も正確な所在位置を知らなかったりする。
あわてて携帯にて地図検索。



「由比若宮(元鶴岡八幡宮・元八幡)」 (国重要文化財・鎌倉市材木座鎮座)

康平6年(1063)に源頼義が京都・石清水八幡宮より勧請。
永保元年(1081)の後三年の役に際して源義家が修復。
治承四年(1180)に源頼朝が現在地に八幡社を移したことから、当社は元八幡と呼称。


元八幡・社殿

源義家公の旗立ての松

17時40分。
一の鳥居からは約500メートル東。ただ川を渡るために橋を経由しなくてはいけないため。道は右に左に曲がることになる。
地図がないと少々わかりにくい場所に鎮座。

さほどには大きくない神社。大きくはないが「重要文化財」。
歴史的な意義は大きい。この場所から源氏の氏神は鎌倉にて大きくなっていたのだから。
もう18時にならんとする時間。さすがに写真もきつくて、補正をいれてやっとといったあんばい。

突貫ではあったが、結果としては行きたいところに行けたからよしとしよう。
たまには家族サービスも良いものではある。
ただ、神社がない旅行になってしまうといささか窮屈なので、極力に神社を交えつつの家族旅行がベストかなと。




参考文献等
各神社境内の案内板等

−表紙に戻る−