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「鎌倉の古社巡り」

<平成21年5月参拝・平成21年5月記載>


銭洗弁天宇賀福神社 / 佐助稲荷神社 / 葛原岡神社
鶴岡八幡宮     / 甘縄神明宮  / 御霊神社




家でなんとなくテレビを見ていたらホットケーキがおいしいお店の特集をやっていた。これは鎌倉とは全く関係はないのだけれども、一緒に見ていた嫁が「そうだ!鎌倉に行こう!!」と。あたふたと準備。聞くところによると鎌倉においしいホットケーキ屋さんがあるとのこと。それが連想ゲームのようにホットケーキと鎌倉がつながったわけであった。
冒頭から本題ではない結果を書いてしまうと、鎌倉散歩が充実しすぎて結果としてホットケーキの喫茶店は行く事かなわず。ホットケーキという肝心の主題は後日リベンジという事で、今回は嫁と一緒に鎌倉の神社を幾社か廻ったのだ。



「銭洗弁財天宇賀福神社」<銭洗弁天・銭洗弁財天>(神奈川県鎌倉市佐助鎮座・旧称:佐助ヶ谷かくれさと)

朱印

本社祭神:市杵島姫命
奥社祭神:弁財天

鎌倉駅の西北約1.5キロの地、佐助谷の奥に鎮座。
鎌倉の源頼朝が府を定めたのちの文治元年(1185)の巳月巳日に創建伝承有り。
一人の老人が頼朝公の枕元に現れて「ここから西北の方向に仙境あり、きれいな泉が岩の間からわき出ています。そこは清浄な地で福の神が住んでいて、その水を使っています。この水こそは真の神の霊水なのです。この水を絶えず使って神仏をまつれば、人々は自然に信仰心を起こし、悪鬼や邪鬼も退散して国内はすぐに平穏に治まります。私こそは隠里(かくれざと)の主である宇賀神です。」と告げられた。目を覚ました頼朝公は宇賀神を敬い夢のお告げ通りに西北に泉を見つけられた。そこで岩窟を掘り宇賀神(宇賀神=ヘビがお使いとされる)をまつったのが当社の始まりとされている。

銭洗井水のこと
世俗にはこの井水にて宝財を洗うを忽ちに、百千倍に増えると伝えられている。金銭を洗い清めると同時に心身を清めて行い慎めば不浄の塵垢が消えて清浄の福銭になり、一家繁栄子孫長久を祈ってきたものである。

新編相模新編相模風土記には「銭洗弁財天 村の西方佐助谷にある大岩窟を云ふ 往古夜中に人語あり 聞く悉く吉事のみを語りしと云ふ 鎌倉五水の一なり」とある。

神仏習合によって、長く弁財天の名前で親しまれ、明治期の神仏分離によって神社となった。
現在は神社本庁所属神社。

参考 神社御由緒書及び境内由緒看板


境内入り口 現在の隧道は昭和23年造

本社前

本社 神仏習合のノリが色濃く残っています

境内は窮屈目であれど奥行きあり

奥社の岩窟

奥社 銭洗の井

ろうそくと線香とザルと。やっぱり神仏習合の雰囲気濃厚

銭洗いにて心身を清めましょう

下之水神宮

上之水神宮 宇賀福神社神泉の水口守護神

水が岩肌から湧き出て泉へと滴り落ちていました

自然乾燥中のザル

新宿から湘南新宿ラインに乗り込んで鎌倉に着いたのが12時ちかく。まずは銭洗弁天に赴いてみようかと思う。
神社参拝をするようになってから鎌倉に来たのは今回が二回目。まだ鎌倉の北西方面には行っていなかったのだ。

12時45分。そうして鎌倉駅の西北約1.5キロの地、佐助谷の奥まで歩いてきた。だらだらと源氏山の脇をあるいてトンネルをぬけるとそこに神社がある。社殿は本宮も岩窟のなかの奥宮も西面している。

観光地化された神社。人も多い。そんななかであれど境内を一通り廻ると上之水神宮の空間がかなり居心地がよい。岩肌から水がしたたりおちてきて新緑の葉を伝わり神池にそそがれるさまを眺めているだけで気持ちがよい。
あまりにも有名すぎる神社は面白みが掛けるとおもってはいたけど、意外にも銭洗弁天の空間は面白かった。神仏習合の様相を感じながら境内をみるのも楽しい。なによりも私は水が綺麗な神社がすきなので。



「佐助稲荷神社」<佐介稲荷> <朱印>(神奈川県鎌倉市佐助鎮座)

祭神 宇迦御魂命・大己貴命・佐田彦命(猿田彦命)・大宮女命・事代主命

源頼朝公が伊豆蛭ヶ小島の配所にて平家討伐を日夜念じていた折りに、気高き老翁の姿を借りた稲荷大神が夢に顕れ天下一統の挙兵を促し給わったという。
頼朝公は平氏征討を終え天下一統を成し遂げられた際に、稲荷大神の神霊に感謝し畠山重忠に命じて佐助隠れ里の霊地にあった祠を探し出し社殿を造営。出世稲荷として人々の信仰をあつめた。
時代が下るにつれて衰微し次第に神徳も埋もれてしまったが江戸寛文のころに鎌倉に疫病が流行した際に佐助稲荷の大神はふたたび奇瑞をあらわし、霊種をもって薬草を生ぜしめ病苦の者を救ったとされている。

佐助とは頼朝公が幼少のころは兵衛佐の位にあり「佐殿(すけどの)」と呼ばれていた事にちなむともいう。

参考 神社御由緒書及び境内由緒看板


佐助稲荷下社。この奥に本社あり

鎌倉総社とある社号標

参道

参道

本宮前

佐助稲荷神社の拝殿

本殿への苔むす石段

佐助稲荷神社本殿

佐助稲荷神社 お塚

佐助稲荷神社に奉納された古い稲荷群

13時20分。
銭洗弁財天から約300メートル。10分もあるかずに到着。
方向は南西。道をあゆむと下社と社務所がある。でも社務所は閉まっていて「ご用のある方は上の授与所まで」とあった。稲荷らしい参道をぬけて石段を登っていくとそこに東向きをした拝殿があった。社殿は独立式で拝殿の奥から石段がのびて本殿は別の棟にあった。意外と珍しい気配。授与所で朱印を頂戴する。のこにはポットがおいてあって「お寸志でご自由に」とお茶やコーヒーが飲めるように準備されていた。こういったちょっとした気遣いがあるのがなにより嬉しいじゃないですか。せっかくなのでお茶をすすりつつ神社境内でまったりと休む。

緑がまぶしい。濃淡豊富な新緑につつまれる境内。この雰囲気だけで癒されるというものであった。お山巡りではないけど佐助稲荷境内をまわれるようになっていたので散策。古い稲荷様が連なって群れており、そのまま苔むしている様に得もいえぬ感動と神々しさを感じてしまう。
心満たされた風で佐助稲荷の参拝を終えたら、いちど銭洗弁財天まで戻って、こんどは葛原岡まで赴いてみる。



「葛原岡神社」朱印>(神奈川県鎌倉市梶原鎮座)
  くずはらおか神社

祭神:日野俊基公(ひのとしもと)室町末期、後醍醐天皇の忠臣

日野俊基公は後醍醐天皇の側近。北条執権家に対して討幕運動を計画するも京都六波羅探題に察知され正中元年(1324)に正中の変で日野資朝公らと逮捕されしまう。鎌倉に護送されるも鎌倉幕府は首謀者として日野資朝公を佐渡に流し、日野俊基公を釈放。
釈放後に俊基公は後醍醐天皇のもとで再び北条執権家討伐の運動をすすめるも元弘元年(1331)に元弘の変として再度幕府方にとらわれてしまう。日野俊基公は鎌倉に護送され、後醍醐天皇は隠岐島に流罪。元弘元年六月、日野俊基公は鎌倉の刑場であった葛原が岡において処刑されてしまう。

明治維新後の明治13年に葛原岡神社創建同志人を募集、翌年に鎌倉宮行在所において没後550年祭を執行。翌15年社殿創建の許可を得、鎌倉仏教会によって墓前祭を執行。同年には神社創建に当たり宮内省より金五拾圓を下賜。明治20年に終焉の地である現在地にて鎮座祭が執り行われ神社創建。
平成20年に御鎮座120年を契機として平成18年12月20日に御遷宮。

墓所は昭和2年に国指定史跡となっている。

参考 神社御由緒書及び境内由緒看板
公式サイト:http://www.kuzuharaoka.jp/


国指定史跡 日野俊基墓入り口

日野俊基の墓

葛原岡神社入り口

境内

拝殿

拝殿

昇運の神龍 旧本殿に納められていた神龍

日野俊基公終焉の地

14時5分。日野俊基公の墓所に到着。後醍醐天皇の初期のころの忠臣。後醍醐の身代わりとなって鎌倉葛原岡のこの地で処刑されている。
太平記読みにとっては、冒頭のハイライト部分でもある後醍醐天皇笠置挙兵につながっている話として、この日野俊基公を祀る墓と神社は興味深い。
墓の奥には神社。左手の社務所で御朱印を頂戴し、神社参拝。南面する鳥居をくぐり左に折れると思ったよりも小さな社殿は東面をしていた。社殿脇には120年前に建立された旧本殿に納められていたという神龍の石柱もある。
日野俊基公を忍びつつ、太平記時代に思いを寄せつつ、いったん駅まで戻る事にする。

30分ほどのんびりと歩いたら、鎌倉鶴岡八幡宮に到着。



「鶴岡八幡宮」<国幣中社・相模国一の宮・国重文社殿>(神奈川県鎌倉市雪ノ下鎮座)

朱印> <前回記事

祭神:応神天皇・比売神・神功皇后

後冷泉天皇期の康平6年(1063)、源頼義が奥州を平定し鎌倉由比ヶ浜に源氏の氏神として今清水八幡宮を男山から勧進したことに始まる。
後白河天皇期に源頼朝が鎌倉にはいると、現在地に遷座。現在の上下両宮のかたちに整えた。
鎌倉幕府の崇敬が篤く関東守護・国家鎮護、そして全国の武家守護神として、鎌倉武士の精神をも支配するかの如き繁栄を誇る。
現在の上宮社殿は文政11年(1828)に11代将軍徳川家斉が造営した江戸建築。下宮の若宮は二代将軍秀忠が修復したものであり両宮ともに国重要文化財指定。
明治15年、県社から国幣中社に昇格。

東側には「白旗神社」と「由比若宮遙拝所」がある。
境内末社の「白旗神社」は白旗社(源頼朝)に柳営社(源実朝)を明治19年に合祀したもの。小田原城を開城させた秀吉が「天下の英雄は吾と君のみ」といって肩を叩いたとされる源頼朝木像を神体としている。
由比若宮(=元八幡)は境外末社。白旗神社の前に、もともとの鶴岡八幡の鎮座地にある社を遙拝する場がもうけられている。

参考 神社御由緒書及び境内由緒看板


二の鳥居 駅から歩くとこの鳥居が段葛の入り口となる

段葛の参道 北条政子の安産祈願によって造営

神橋から舞殿と本宮を望む

舞殿(下拝殿)

大銀杏と本宮と

大銀杏(隠れ銀杏) 樹齢1000年を超えると云われている

八幡宮の鳩

本宮

舞殿を上から。
 
 

下宮「若宮社」 国重要文化財
祭神は仁徳天皇・履中天皇・磐之媛命・仲津媛命。
寛永元年(1624)の修営。
ちょうど結婚式をやっていました。

「白旗神社」
 

「丸山稲荷神社」 国重要文化財
八幡宮境内でもっとも古い室町期の建造社殿

「今宮(新宮)」
後鳥羽上皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る。

今宮(新宮)境内はうるわしい空間が広がっていた
 

15時15分。駅前から小町通りでアイスやら煎餅やらをつまみながら歩きつつ、のんびりと神社前に到着。
以前来たときは修復工事の真っ最中で、上社本宮を詣でる事が出来なかったので今回再訪できたのが嬉しい次第。もっとも人が大過ぎなのはいたしかたがないところではあるが。
参道に出店している屋台をつまみつつ、ようやくに石段を登る。大銀杏の脇。前回はここの石段すら封鎖されていたのだ。上から境内を見渡し、若宮大路をまっすぐに望む。上社本宮で参拝をすれば、さしあたっての念願は完了。
下に降りて御朱印を頂戴し、御朱印帳も新しく新調する。境内の「白旗神社」「丸山稲荷社」等を見聞し、休憩所でひと心地ついたら、鶴岡八幡の北側に足を伸ばしてみる。

鶴岡八幡宮「今宮(新宮)」。本宮の150メートルほど北側に鎮座している。隣接している飛地境内のような雰囲気。境内に足を踏み入れたとたんヒーリング効果がすごかった。境内の空気が瑞々しく潤っている。水が沸いているのだろうか?スピリチュアル的な事はわからないが、とても居心地の良い空間が、この今宮(新宮)にはあった。



「甘縄神明宮」<鎌倉地区最古の神社>(神奈川県鎌倉市長谷鎮座)

祭神:天照大神

和銅三年(710年)に行基草創、豪族染谷太郎大夫時忠の創建とされる鎌倉随一の古社。
源頼義が相模守となって当地に下向した際に 当社を参拝し八幡太郎義家が生まれたと伝承されている。
このあたりは鎌倉初期の御家人安達盛長の邸宅跡でもあり、社頭には九代執権北条時宗産湯井戸がある。
社地後方は「御輿ヶ嶽」「見越ヶ嶽」とも呼称され万葉集にも謡われてきた山。

参考 神社御由緒書及び境内由緒看板


甘縄神明宮 正面

境内

北条時宗公産湯の井 二條公爵愛用の井

拝殿

甘縄神明宮本殿

甘縄神明宮本殿

社地後方が「見越の山」

境内からは鎌倉由比ヶ浜の海が見える

17時。
鎌倉駅から長谷駅に移動する。長谷駅から約400メートル。「見越の崎」の山を背景に中腹高台に南面鎮座していた。参道の左手には「北条時宗公産湯の井戸」というのがあった。こんなところにも北条執権の名前があって、さすがに鎌倉といった様相。見越の登山口のようにもなっている脇道をのぼるとそこには境内社「秋葉神社」があった。そこから甘縄明宮の本殿を垣間見る事が出来る。この本殿も拝殿とは独立しており、立派な神域を形成していた。神社の境内からは見晴台のように由比ヶ浜を望む事も出来、絶好のロケーション。しばしの休息をとる。



「御霊神社」<権五郎様(ごんごろうさま)・五霊社・五霊尊・鎌倉権五郎神社>(神奈川県鎌倉市坂ノ下鎮座)

祭神:鎌倉権五郎景政(鎌倉権五郎景正とも)

吾妻鏡に記載されている古社。創建年代は平安時代末期と推定。
御霊神社は、もとは鎌倉近辺には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という関東平氏五家があり、これら五家の祖を祀る神社として五霊神社が創建され、いつしか御霊神社と呼称されたことに始まる。

現在祭神となっている鎌倉景政公は後三年の役(1083〜1087)に源義家に従って16歳で初陣をなし、出羽金沢の柵(鳥海城)の戦いに際して左眼を射られたにもかかわらず矢も抜かずに敵を討ち取った勇猛な武士で古くは鎌倉武士の模範とされ讃えられていた。
もともとは五霊をまつっていたものであったが、鎌倉期以降は鎌倉権五郎景政公一柱を祀る。権五郎と御霊の音が似ているので付会された神社名という説もある。
例祭日は9月18日で、祭神の命日でもある。面掛行列(県指定文化財)

明治8年(1875)、村社列格。鎌倉御霊の総社。

国木田独歩(銚子出身の明治期の詩人・小説家)の「鎌倉日記」には御霊神社(権五郎神社)の神主と交渉して1軒屋に借家したエピソードの記載がある。

当社は鎌倉七福神のひとつでもある。
「鎌倉七福神」・・・浄智寺(布袋)/鶴岡八幡宮境内社旗上弁財天(弁財天)/宝戒寺(毘沙門天)/妙隆寺(寿老人)
          本覚寺(恵比寿)/長谷寺(大黒天)/御霊神社(福禄寿)

参考 神社御由緒書及び境内由緒看板 ・ 神社辞典(東京堂出版) ・ 日本の神様読み解き事典(柏書房)


社頭前は江ノ電

こんな感じで走ってきます

境内から江ノ電を

ちょうど鳥居の中に江ノ電がかけぬてていくさま

樹齢約350年 御霊神社のタブノキ

拝殿前

御霊神社拝殿

御霊神社拝殿・本殿

景正 弓立の松
鎌倉権五郎景正が領内を廻る際に弓を立てかけたと伝える松の古木
 
 

末社 石上神社
御霊神社の前浜沖にあった巨石に多くの船が座礁したため、
村民は石を引き上げその上部を祀って石上神社とした
7月25日に近い日曜日に御霊の前浜沖の海神に御供を献げ流す
「御供流し(ごくながし)の神事あり

17時45分。まだ日が残っている。長谷駅より西に約250メートル。江ノ電の線路踏切の先に境内があった。社殿は南面。鬱蒼とした樹木に覆われている。ときおり走る江ノ電を眺めつつ佇むのが心地よい。社務所はさすがに18時も近くなってすでに閉じているあんばい。朱印を頂戴するのはまたの機会にしよう。のぞいてみると「神社朱印」「鎌倉七福神の朱印」がそれぞれ用意してあるようだ。

境内はほどよい広さでよく整えられていた。ベンチにすわって、何度か行き来する江ノ電を眺めたら、せっかくなので夕暮れの由比ヶ浜をながめつつ今日のところはいったん帰宅しよう。まだまだ鎌倉は見所豊富でいけてない神社も多いからまた近々くる事だろう。本来の目的であったホットーケーキもまだ食べていない事だし。
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