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「武蔵の古社を想う〜日枝・赤坂氷川編〜」
<平成14年12月参拝・平成15年1月掲載>

目次
赤坂氷川神社」(府社・東京十社のひとつ・港区赤坂鎮座)
日枝神社」(官幣大社・東京十社のひとつ・千代田区永田町鎮座)



「赤坂氷川神社」     
(府社・東京十社のひとつ・港区赤坂鎮座)
<正式名称は「氷川神社」・便宜上「赤坂氷川神社」と呼称する>

 御祭神:素戔嗚尊(スサノヲ神)
      奇稲田姫命(スサノヲ神の妻)
      大己貴命(・大国主命)

 創立は村上天皇の天歴5年(951)に武州豊島郡人次ヶ原(赤坂4丁目一ツ木台地)の創祀という。後冷泉天皇の治歴2年(1066)の関東大旱魃には降雨を祈つたとされ、以来祭事が盛んであった。
 江戸時代には徳川家の崇敬が篤く、享保15年(1731)には徳川吉宗の命を受けた老中岡崎城主の水野和泉守忠之によって社殿が造営され豊島郡赤坂今井台(現在地赤坂6丁目)に5月26日に遷宮。28日には徳川吉宗の直拝を仰いだ。
 江戸七氷川の筆頭とされ、明治元年11月8日に准勅祭社に定められた。東京十社(他九社は日枝・神田・富岡・根津・芝大・品川・亀戸・王子・白山)の巡拝コースの一社でもある。

 なお赤坂氷川神社移転前の、元禄期のこの地は浅野土佐守邸跡(都旧跡)で浅野内匠頭夫人の実家であり、大石内蔵助が討入前に訪れて別れを告げた雪の別れの「南部坂」が近くにある。

 境内にある『四合稲荷』は付近に居住していた勝海舟が周辺社を合祀した際に命名したものという。

赤坂氷川神社
赤坂氷川神社・脇入口
赤坂氷川神社
境内・四合稲荷社
赤坂氷川神社
赤坂氷川神社・石段(脇参道)
赤坂氷川神社
境内のイチョウ木(樹齡400年以上という)
赤坂氷川神社
赤坂氷川神社・正面入口
赤坂氷川神社
赤坂氷川神社鳥居と神門
赤坂氷川神社
赤坂氷川神社・拝殿
享保15年(1730)に徳川吉宗が建立した社殿
東京都指定有形文化財

東京十社のひとつ。
(他九社は日枝・神田・富岡・根津・
芝大・品川・亀戸・王子・白山)

 赤坂8丁目の乃木神社を参拝したあとに東に歩く。赤坂6丁目の氷川神社にむかう。とくに意味もなく、それこそなんとなくで歩いていた。距離にして約700メートルを10分ほどで歩く。
 脇参道を歩く。石段の下の方に「四合稲荷社」が鎮座している。これは赤坂に居住していた勝海舟が命名した社で明治中期に合祀された「故呂古・地頭・本氷川・玉川」の四稲荷社を合祀したときに「翁曰く五合に一合たらぬ幸いなり」ということから命名されたらしいが。
 歴史を感じさせてくれる雰囲気が漂う石段を上がると両脇に見事な山を築いた獅子が鎮座し、意外と広めの境内が目に入る。なかでもひときわ目立つのはイチョウ木。樹齡400年にも及ぶ古木という。
 ちょうど境内は掃除の時間らしく、あちこちが慌ただしい。簡素な神門の先に社殿がある。木造銅板葺きで本殿は一間社造り。拝殿は三間四面。全体が朱塗りで、享保15年(1730)に徳川吉宗が建立したものという。
 社殿はいたって質素で、華美な彫刻も特にない。だが、かえって社殿全体に落著きが感じられた。

 時間は2時40分。冬の太陽は淡く、早くも夕方の気配を感じさせる。赤坂氷川神社からさらに北東に1キロほど歩くと「日枝神社」がある。赤坂TBSの界隈を抜けた、山王の高台に鎮座している。この付近にはめったにやってこないがちょうど一年ぶりに来訪。ゆえに日枝神社もはじめてというわけではない。



「日枝神社」       <朱印
(官幣大社・東京十社のひとつ・千代田区永田町鎮座)

御祭神:大山咋神(オホヤマクヒ神)
相殿神:国常神(クニノトコタチ神)
     伊弉冉神(イザナミ神)
     足仲彦尊(タラシナカツヒコ尊・詳細不明な神様)

 当社の起源は江戸郷の守護神として江戸氏が山王宮とまつっていたものを文明10年(1478)に太田道灌が江戸の地に城を築くに当たって鎮護神として川越山王社(川越日枝神社)から勧進したことにはじまる。
 天正18年(1590)に徳川家康が江戸に入城し、その際に「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として、また「江戸の総氏神」として崇敬が篤くなった。
 二代秀忠の時に城内(紅葉山)から城外に移転(元山王・隼町国立劇場付近)されたが明暦3年(1657)の大火で社殿炎上、将軍家綱が直ちに赤坂溜池に社殿を造営。ますますの崇敬をうけた。
 明治以来は国事の重大事に至る際には常に勅使の参向御奉告が行われ、皇室の崇敬も篤かった。
 昭和20年5月に戦災によって末社稲荷神社を残して社殿消失。昭和33年以降順次再興が行われ、翌年に山王高台に大社の偉容を甦らせた。

 明治元年11月に准勅祭社に指定され、同5年に府社列格。皇城鎮護たる所以を以て明治15年には官幣中社に列せられ、大正4年に官幣大社列格。戦後は宗教法人として今日に至っている。

平成22年6月再訪写真

日枝神社
日枝神社独特の「山王鳥居」
後方は稲荷参道。右手に「西参道」。位置的には裏側。
日枝神社
日枝神社
この石段はエスカレーター付きの新参道。
日枝神社
ここが正面参道。石段を昇ると神門あり。
社号標は宮内庁侍従長であった入江相政の揮毫。
この石段を俗に「山王男坂」と呼ぶ。
日枝神社
日枝神社神門。
奧が拝殿。
日枝神社
日枝神社神門を拝殿側から。
日枝神社
裏側には「皇城之鎮」とある。表は同様に「日枝神社」。
揮毫は北白川房子様による。
日枝神社
日枝神社拝殿。
山王の高台に位置しており
社殿からは赤坂の高層ビルが一望できる。
参道は大小6箇所、急坂から緩坂までバリエーション豊富。

日枝神社ゆえに猿神像も隨所に見られる。

 はじめてこの神社を参拝したときに驚いたことは新参道のエスカレーター。この驚きは今でも変わらないが、この神社は参道石段脇にエスカレーターが設置してある。なかなか景気の良い神社で、さすがに東京のど真ん中の神社。
 ほどよく夕方の日差しが差し込む境内。ここでも結婚式が執り行われていた。あまり賑やかな神社は好きではないが、ここはそういう神社なのだからまあ致し方がない。

 最近恒例と化してしまったが札所で巫女さんに「朱印は?」と尋ね、いつもどおりに「社務所で行っています」と返答される。もっともその社務所もどこにあるかわからないのでそれもうかがう。窮屈で近代的な社務所で朱印を貰う。なにやら古社と言いがたい雰囲気に溢れているが、これでも官幣大社という高位にあった神社。私はどことなく変な気分で神社を眺めて歩くだけだった。

 帰り道は地下鉄で一本。考えてみれば便利な立地条件ではあった。


<参考文献>
赤坂氷川神社社務所発行・略記
日枝神社発行・參拜のしおり

<あとがき>
 この二社は「明治・東郷・乃木」に続けて参拝した神社。さすがに日枝神社あたりになると疲れてきてなにやらぼんやりとした見聞になってしまった。
 延喜式内ほどの古社ではないけど、一応「武蔵の古社」に分類しました。そのうち参拝記も武蔵国とそれ以外に分類せざるを得ないかな、と思う今日この頃。
 余談だが、赤坂氷川神社は某セーラームーンの某嬢が巫女さんをやつてゐた火川神社のモデルという事らしい。そんなことをいわれてもセーラームーンに出てきた神社なんて知らないし、根本的に巫女さんが常駐していない神社ですが。

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