「霞ヶ浦南岸の式内社めぐり〜常陸国信太郡編」
<平成22年6月参拝記載>
「阿見の阿彌神社」「竹来の阿彌神社」「木原の楯縫神社」「信太の楯縫神社」
常陸国の延喜式内社・google地図
5月の最後の日曜日。
以前「大嶽山那賀都神社」に一緒に言った友人が言う。「空を飛ぶついでに予科練記念館に行こう」と。
せっかくなので、霞ヶ浦南岸の神社に便乗で立ち寄る計画を勝手に立案してみる。
8時30分過ぎに調布をスタートして、友人が車を走らす。霞ヶ浦南岸の阿見町の予科練記念館に到着したのは11時30分過ぎ。車の機動力はたいしたものであった。
もっともここでは予科練記念館の話題はメインではないので、神社を記載。
「阿見ノ阿彌神社(阿弥神社)」 (旧郷社・茨城県稲敷郡阿見町阿見鎮座)
(あみじんじゃ)
御祭神:豊城入彦命・経津主命
境内の掲示板によると崇神天皇18年に豊城入彦命が東国に臨みこの地にて建御雷経津主二大武神の功を思いこの地に祀った事に始まるという。
「式内社調査報告」によると、第41代持統天皇5年夏、霞ヶ浦沖に夜々光が出るので漁師が沖に出て網を下ろすと、大風が吹いて雨が降り、波の上に一人の異人が現れ、「この海原に大毒魚がいて悪光をなす。この為に漁なし。吾は海の神少童の神である。彼の悪魚を退治しないと国家の愁となす」といって光とともに波底に沈まれた。
するとしばらくすると雲が晴れ風が静まった。そこで漁師は、この海神の神徳を尊み、村内の浄地に社殿を造営して祀り、海神社と称した。
このちにウミとアミが通じるところから海(ウミ)が網(アミ)となり、第46代孝謙天皇勝宝2年(750)に神託によって、豊城入彦命を合祀したという。
延喜式神明帳の信太郡の阿彌神社の論社。
明治6年8月に郷社に列格。
明治39年12月に村内の無格社熊野神社・同香取神社・同天照大神宮・同皇産霊神社合祀。
明治41年4月に鹿島神社・愛宕神社・八坂神社・八幡神社・熊野神社・鈴神社・八幡神社・稲荷神社を合祀。
明治41年5月に無格社十握神社を合祀。
しかしこれらの神社は合併後もそれぞれの社において祭祀を執行しているという。
旧阿見村の鎮守。岡崎・中郷・西郷・立之越の4地区より総代が選出され8名の氏子代表が祭祀行事を司っている。
境内社は青麻神社・道祖神社・八幡神社・稲荷神社・日枝神社・諏訪神社。
境内の鎮霊社は、元霞ヶ浦海軍航空隊神社社殿。
霞ヶ浦神社は大正15年(1926)3月に霞ヶ浦海軍航空隊の敷地内に創建。飛行場創建以来の航空受難者を祀る。創建には当時霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭であった山本五十六もかかわる。
戦後は米軍の手に渡るのを恐れ有志の手によって現在地の阿彌神社境内に遷座。
当時神社が鎮座していた場所は茨城大学農学部キャンパス内、管理研究棟に向かって入り口の左手付近。
平成13年建立の社号標 |
ちょっと不思議な鳥居。銅板巻きとでもいうのか?
銅円筒の中身は空洞のようだ |
鳥居扁額 |
参道 |
文政3年の水盤 |
御神木 |
手前に小さな狛犬 |
拝殿 |
本殿 |
元霞ヶ浦海軍航空隊神社社殿 |
土浦駅の約6キロほど南に鎮座。調べてないけど、土浦から阿見町に向かうバスはあると思うがなかなかアクセスしにくい地。たぶん車がないとこれないだろうという場所。ちょうど県道203号と国道125号が交わるデルタ地帯を縦断するかのように鎮座している。
社殿は南面。参道は長く、境内地のほとんどを参道が占めている。距離にして200メートルはある参道は一直線に伸びている。周辺は住宅地ではあるが、これだけの空間が残っているのは立派だ。
境内には狛犬が2対あったが、面白いことに向かって右側の2体のみが縄をしめていた。これには何か意味があるのだろうか。よくわからない。
この神社には元霞ヶ浦海軍航空隊神社社殿が遷座してきている。ただ格別な案内は境内にはないために見ただけでは何もわからない。私もたまたま事前調査で「元霞ヶ浦海軍航空隊神社社殿」を知っていたからもっともらしく現地では拝見できたが、調査していなければ知る予知もない。
普段は私は一人で神社詣でをしているけど、今回は友人同行。それも神階免許保持者が同行しているとあってはなかなか勝手が違い、ちょっと私も緊張気味。今回最初の神社ということでさらりと参拝して、次の神社へと向かう。
「竹来ノ阿彌神社(阿弥神社)」 (旧県社・茨城県稲敷郡阿見町竹来鎮座) (あみじんじゃ)
御祭神:
健御雷之男命
普都大神(経津主命) 豊城入彦命
境内案内看板によると創建は607年、推古天皇の年代とされている。
また竹来の地は常陸風土記の普都大神降臨の地とされ、中世期には信太郡の「二の宮明神」と呼称された。信太郡一の宮は「楯縫神社」
「式内社調査報告」によると、第10代崇神天皇の第二皇子豊城入彦命が崇神天皇48年に東海より東山を治めたことにより、のちに祭神として祀られたという。創建年代は舒明天皇三年(631)とも孝謙天皇の勝宝年間(749−57)とも伝承されている。
延喜式神明帳の信太郡の阿彌神社の論社。
明治6年10月に県社列格。
平成12年造の鳥居 |
境内入口 |
「縣社延喜式内社阿彌神社」とある社号標 |
参道はまっすぐ |
綺麗に伸びる参道 |
社殿。後ろには御神木。 |
境内社と阿彌神社社殿 |
境内社 |
安永6年(1777)造の狛犬 |
丸みを帯びてユーモラス |
阿彌神社社殿 |
阿彌神社本殿 |
鹿島神宮大宮司による扁額 |
本殿うしろの御神木 |
神楽殿 |
参道脇の小祠 |
続いてやってきたのが竹来の阿彌神社。式内社としては有力とされている阿彌神社。
先ほどの阿見の阿彌神社と比べてさらに自然豊かな地に鎮座。な重厚な杜を司っている空間だ。
阿見の阿彌神社から約2キロ東南。霞ヶ浦に沿って東の伸びる県道231号線に面して鎮座している。
社殿は南西。参道は100メートルほどだが、とにかく緑が深い。
参道はまっすぐで気持ちよい。木々の豊富さが気持ち良い空間。参道の脇にいくつかの小祠があり、それぞれが木々に囲まれている。社殿の後方にはひときわ立派な御神木が一直線に天に伸びており、気持ちを引き締めさせる。
なかなか良い赴き。緑は多いが薄暗さを感じさせない木漏れ日が、居心地を良いものへと変えてくれていた。
「木原ノ楯縫神社」 (旧県社・茨城県稲敷郡美浦村木原鎮座)
(たてぬい神社)
御祭神:経都主命
配祀神:彦狭知命・大己貴命二座・宇賀魂命二座・市杵嶋姫命
須佐之男命・皇産霊命・熊野加夫呂岐命
推古天皇16年(608)創建とも神武天皇18年や元明天皇の和銅元年創建ともいわれている。
古来、経都主命が高天原より降りられてこの地を平定し、やがて高天原に復命の為に身につかれていた兜や楯をみな脱ぎ捨てて高来の里に置き白雲に乗ってお上りになったといわれている。この高来の里は現在の阿見町竹来の地。この故事にちなんでこの地を「楯脱ぎ」というようになり「楯縫い」に変じたとされる。
延喜式内社の論社。
信太郡の一の宮。
境内の北側には杉の巨木の根幹(径6メートル余)があり木原の地名の起こりとも言われている。
広大な神領を持っていたが南北朝期の興国元年(1340)には北朝方の高師冬が当地に侵攻し神領を残らず略奪し無禄となったといわれている。
戦国時代には付近に木原城が築城。
明治6年に県社列格。
楯縫神社 入口 |
鳥居扁額には「一宮縦縫神社」 |
広い参道 |
このあたりは参道の立派な神社が多い気がする |
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積もる落ち葉が静寂な雰囲気を演出 |
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御神木と社殿 |
本殿 |
3社目は「楯縫神社」。竹来の阿彌神社からさらに東に霞ヶ浦の南を走る。阿見町の隣である美浦村に鎮座。社殿は南西に面している。参道が広くそしてまたもや直線の気持ちの良い空間を作り出している。やはり200メートルほどはあるだろうか。積もる落ち葉を踏みしめつつ参拝。このあたりの神社は豊かな樹木とまっすぐな参道が特徴的なようだ。気持ちよい参道をゆっくりと歩くことにする。
本殿まわりの瑞垣は新しくなっていた。すこしずつ手入れがされている感があり、そこに空間が生きている気配を感じる。停滞した空間より動きがある空間のほうがやはり安心する。息づいている気配とでも言おうか。
「信太ノ楯縫神社」 (旧村社・茨城県稲敷郡美浦村信太)
御祭神:普津主命
創建由緒は不詳。
鳥居扁額には「信太郡惣社 楯縫神社」とある。木原の縦縫神社が「信太郡一の宮」と称しているに対して、当社は「信太郡惣社」と称している。
当社を延喜式内論社とする説は少ない。
明治社格は村社。
ものの本というか「式内社調査報告」では当社は式内社とは掲載されていない。
しかし信太郡惣社という呼称もあり、木原の楯縫神社から分祠したような由緒もないようなので、まあ式内社の論社にしても良いような気がする。
神社はちょっとした丘の上に鎮座。入口が多少わかりにくく感じだ。神社参道は約150メートルほど綺麗に整えられており多少のカーブを描いていた。特に神社の由緒を記するものもなく、信太郡の総社はとても静かな佇まいであった。
以下は、神社とは直接に関係しない。
元霞ヶ浦海軍航空隊神社を調べていたら、いろいろと興味深いサイトを発見できた。
なかでも「千葉県と茨城県の戦争遺跡と戦跡」というサイトでいくつかの航空隊神社跡が掲載されていた。
このあたりは、また時間を設けてまわりたいものだ。
予科練平和記念館と予科練念館「雄翔館」
阿見町 予科練平和記念館
陸上自衛隊 土浦駐屯地・武器学校
阿見町 予科練平和記念館
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陸上自衛隊土浦駐屯地 武器学校内の予科練念館「雄翔館」
手前は山本五十六像。建物は空母を模している |
霞ヶ浦南岸の「鹿島海軍航空隊」
カタパルト跡 |
霞ヶ浦南岸の「鹿島海軍航空隊」
カタパルト跡 |
鹿島海軍航空隊スリップ跡
今はジェットスキーの発着で活用されていた |
鹿島海軍航空隊カッター船着場跡
往時の桟橋が伸びる |
鹿島海軍航空隊カッター船着場跡 |
以下は完全に余事であるが、もともと友人は空を飛ぶ予定だったのだ。
夕方近くに霞ヶ浦界隈から利根川界隈まで南下移動。
そんなわけで、こんな感じに友人は空を飛んでいた。まだ免許取得のための訓練とのことだが、なかなか立派。
友人は空を飛ぶという用事があって、私は神社を詣でるというおまけを持ち込んで、この日は有意義な休日をすごすことができました。
また機会があれば突然どこかの神社をおまけで詣でることになるでしょう。。。
参考文献等
各神社境内の案内板等
式内社調査報告 第11巻 東海道6
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