「郷土の鎮守様〜稲城の神社散歩」
<平成22年6月参拝7月記載>
1「穴澤天神社」 矢野口鎮守・延喜式内社・旧郷社
2「島守神社」 旧無格社
3「天満天神社(稲荷天神社)」
4「下新田ノ津島神社」 旧無格社
5「八坂神社」旧無格社
6「天満神社」坂浜鎮守・旧村社
7「杉山神社」平尾鎮守・旧村社
8「堅神社」 百村鎮守・旧村社
9「青渭神社」 東長沼鎮守・延喜式内社・旧郷社
10「但馬稲荷神社」旧無格社
11「大麻止乃豆乃天神社」 大丸鎮守・延喜式内社・旧郷社
稲城市の神社地図
調布から多摩川を渡れば稲城。
6月のとある日曜日。ちょっと自転車で走り出してみた。調布の家を朝6時ちょっと前に出発。
多摩川を渡って、6時15分。最初の目的地である穴澤天神社に到着。
「穴澤天神社」 (郷社・延喜式内社・稲城市矢野口鎮座)
(あなざわてん神社)
祭神:小彦名大神
相殿:菅原道真公・大己貴命
創立は孝安天皇4年という。延喜式神明帳記載の武蔵国多摩郡八社の一社。
中世期に小沢城主より崇敬を受けてきたと推測できる。小沢城は神社のすぐ南側の山上。
天正18年(1590)に社殿を再建。元禄17年に社殿を改修し菅原道真を合祀。
当社石段下の三沢川右岸沿いに二つの横穴巌洞(横穴古墳?)があり、これが穴澤といわれる起源となっている。
かつての横穴は崩壊してしまっており、現在の洞穴は二代目。洞窟内には元石仏の安置跡も残っており明治4年の神仏分離後に石仏像は当時別当寺であった威光寺に移されている。
明治社格では郷社。
大正7年に谷戸鎮座の国安神社を合祀。現在の社殿は昭和61年修復。
多摩川。中央右の緑に穴澤天神社が鎮座 |
中央の山中腹に鎮座 |
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昭和58年に神輿庫建設をする際、
地盤からかつての御神木と伝承されていた巨木の根が発見され
境内に保存されている
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穴澤天神社の御神水・東京の名湧水に選定 |
湧水場の脇に横穴がある |
京王線・京王よみうりランド駅から500メートルほど東。三沢川の南岸高台に鎮座しており社殿は西面している。
さすがに朝早すぎるので、まだ社務所はあいてはいない。ただ、参拝者は足しげく立ち寄っており早朝のすがすがしい空気のなかでそれぞれの人が思い思いに足を運んでいた。
平成14年に訪れて以来8年ぶりの参拝。当時は各地の神社を参拝し始めたばかりでまだ式内社もよくわかっていない状態であったが、こうして8年の歳月を得てしまうとなかなかに感慨深いものを感じる。いろいろなものを見ていなくて、忘れていて、いま改めて境内を散策すると新鮮味あふれる事象が多い。
早朝の静寂な境内に朝日差し込む社殿を眺める。多摩川と多摩丘陵に挟まれた当地は新緑樹木にあふれており、この場所に佇むだけで心地よい神域を感じることができる。気持ちよい空間だ。
ご朱印を貰ったことがない神社であったが、今回はさすがに朝が早すぎる。ご朱印は改めて貰いに来よう。
山の下に湧いている御神水を頂戴する。手を浸すだけでも結構気持ち良いものだ。
まだ6時30分だというのに、ポリタンクを抱えた人たちがひっきりなしにやってくる。この賑わいは驚きだ。看板にもわざわざ「大量に取水される方は1回に20リットルとし後から来た人と譲りあいながら気持ちよくご利用ください」と書いてあるぐらいなので、相当量を汲まれる人もいるのだろう。こうして人々が集まるハブを提供しているというのは、とても大切な場所でもあるということを実感。大事に残したい景観でもある。
「島守神社」(天王社) (旧無格社・稲城市押立鎮座)
御祭神:天照皇大神・秋葉大神・素戔嗚尊
創建年代・由緒不明。
もともと押立地区は府中に属していたが、寛文年間(1661−72)の大洪水で流路が北側に移動したため村は多摩川によって南北に分断。
北の府中側が「本村」、南の稲城側が「向押立」と呼称。
北側の押立鎮守は「本村神社」、南側の押立鎮守が当社となる。
江戸時代は村の西はずれに鎮座し神明宮と呼称。明治15年(1882)に現在地に遷座。
なお南岸の押立地区は昭和24年に稲城に編入されている。
昭和62年に社殿再建。
午前7時。島守神社到着。稲城大橋有料道路の東側、多摩川を背にして南面している。南北に通過できる境内はときより散歩がてらに参拝している方々が見受けられる。社殿は62年に新造されたもの。格別な拝殿はなくそのまま階段を登って拝すという形式。
多摩川を背としている環境はすがすがしい気配にあふれていた。
「天満天神社(稲荷天神社)」 (稲城市東長沼鎮座)
御祭神:倉稲魂命・菅原道真公
創建年代・由緒不明。
午前7時15分。稲城大橋有料道路の西側に鎮座。最初鎮座場所がわからなかった。一見するとここは個人宅の敷地なのかなあ、という微妙な境目に鎮座。河川敷から下に下りるように階段を下りると当社が鎮座。社殿は西面していた。こんな小さくても神社庁の所管神社なのだ。
天満の天神という神社。天満天神社という語呂は面白いなと感じた次第。
「下新田ノ津島神社」 (旧無格社・神社庁所管外・稲城市東長沼鎮座)
御祭神:素戔嗚尊
創建年代は不詳。江戸末期の新編武蔵風土記稿には「天王社」と記載。天明7年(1787)、天保7年(1836)に社殿修復の記録が残っている。明治時代には八坂神社と呼称。
大正期に本社であった愛知県の津島神社が改称されたことにより現在の社名に改称。
午前7時30分。川崎街道に向けて参加していたら、なんとなく左手に鳥居が見えた気がした。マーキングをしていなかったので、規模はわからなかったが近寄ってみたら意外にしっかりした神社が鎮座していた。
社名を確認してみたら、津島神社だった。関東で津島神社というのは結構珍しいような気がする。
脇には用水路が流れており、涼しげな景観。
神社庁の所官外の神社であれど、把握できるのは把握していきたいと実感。神社庁所管外の神社はなかなか事前の調査が難しいものですが。
「八坂神社」 (旧無格社・神社庁所管外・稲城市東長沼鎮座)
御祭神:素戔嗚尊・猿田比売命・御子神八柱
鶴川街道に東面して鎮座。江戸期には放光院の支配にあり東長沼2009に鎮座。大正期の道路拡張に際して現在地に遷座。
昭和49年に現在の社殿を整備。
7時40分。こちらもマーキングをしていなかった神社。手元の地図で、神社と書いてあったので立ち寄ってみた。鶴川街道の旧道側に鎮座。稲城市役所より150メートルほど北西に鎮座。
神社庁には所属していないが、おそらく町内会持ちなのかもしれない。非常に綺麗に手入れされていた。
神社庁に所属していない神社もきちんと参拝しないとな、となんとなくだけど感じて、ちょっと気持ちを入れ直し。
当地の向かい側には「奚疑塾(けいぎじゅく)跡」がある。
多摩地域随一の漢学者であった窪全亮は明治13年に私塾として奚疑塾を開設し地域の教育に寄与したとされその記念の碑がたっていた。
ぜんぜん知らないことであれど、なんかこういう発見がうれしかったりもする。
「天満神社」 (旧村社・稲城市坂浜鎮座)
御祭神:菅原道真公・天照大神・日本武尊・建御名方命・倉稲魂命
創建年代は不詳。元禄7年(1694)に当時の地頭天野伝左衛門重政が社殿を造営した。
大正12年の関東大震災にて社殿倒壊。大正15年に社殿造営。
その際に本殿は上谷に鎮座していた神明社を現地に曳き、同時に周辺に鎮座している東部上野社・稲荷社・於部屋神明社・上谷神明社・堂ヶ谷諏訪社を合祀。
昭和51年に本殿・拝殿の修復を行っている。
午前8時。一気に移動して稲城南部の丘陵地帯を目指す。鶴川街道から「坂浜地区」へと外れるまさに坂の中腹に鎮座。このあたりが峠なのかもしれない。山を一つ越えそうな勢いで進む。さすがに自転車だとキツイ。
神社自身も社地を巧みに利用して鎮座。参道は北側から100メートルほど斜面を登るように延びているが、西側に折れ、社殿は東面して鎮座していた。山の中であれど意外に大きな社殿。社殿の前には大小3対の狛犬が綺麗に並んでいたのが印象的であった。
「杉山神社」 (旧村社・稲城市平尾鎮座)
御祭神:日本武尊・弟橘姫命・須佐之男命・猿田彦命
鶴見川流域に72社ある杉山神社のうちの1社。そのうちでも最も上流域にあると思われる神社。
創建年代は不詳。延徳年間(1489−92)に社殿再建の記録が残る。安政2年(1855)に社殿造営。
大正8年に各字に鎮座する八坂神社・日吉神社を合祀。
大正14年に本殿及び拝殿を再建。
昭和51年建立の社号標。昭和58年に社殿修復、大鳥居建立。
午前8時35分。坂浜の天満神社から更に南下すると山を越えて分水嶺の向こう側の平尾集落に到着。そこに鎮座しているのは杉山神社。武蔵国南部には杉山神社が分布しており、その杉並神社分布圏=鶴見川流域でも一番上流に鎮座しているといわれている神社。
たしかに杉山神社と聞くと、もっと南のイメージ。稲城に鎮座しているのが当初は不思議と思えたが、実際に足を運んでみれば納得。たしかに峠を越えてきたので、いわば信仰文化圏が違う地域にきたと言っても過言ではなかった。
神社は南面。山の中腹に鎮座している気配は、私の知っているそのほかの杉山神社と同じような雰囲気。ただ付近に川がないのがちょっと違うなというところ。
社務所に人がいらっしゃたのでご朱印を頂戴する。最近は早朝神社散歩ばかりしていて朝が早くて無人な神社ばかり詣でていたのでなんか久しぶりに貰った気もする。
さて、平尾地区からまた峠を越えて北上せざるをえない。また超えるのは億劫ではあるが致し方がないことでもある。
「堅神社」 (旧村社・稲城市百村鎮座)
(たて神社)
御祭神:大雷神(おおいかづちのかみ)
百村(もむら)の鎮守。宝暦14年(1764)に建立とされる。往古、落雷がたびたびあったために神として祀ったことに始まると伝承。
もともとは松本家の氏神。
江戸時代は百村の鎮守は妙見宮とされていたが、明治の神仏分離では妙見宮は妙見寺の管理となったため、当社が百村の村社とされた。
本殿は一間社流造で明治時代中期に建立。拝殿は明治21年(1888)に村中の木材を持ち寄って建立されたが、平成10年に稲城堅台土地区画整理事業を機に再建。
午前9時15分。稲城の街の中心部に戻ってくる。稲城中央公園の北側。再開発にて神社の再整備された雰囲気が濃厚であった。このあたりは百村地区といわれているが南の若葉台・長峰、北の向陽台ともどもに新興整備地区。いまいち古さを感じさせない土地で山を切り開いた感があるが、江戸期には今の稲城駅の南側に広がる妙見寺・妙見宮が集落の信仰の中心だったとされている。明治の神仏分離ではその妙見宮は妙見寺の管理となったため、この堅神社が百村の村社とされたという。
境内は芝生のような緑が広がり気持ちが良い。雷神を祀るだけあって、避雷針が社殿の脇に立っているのが面白いといえば面白い点。山を切り開いているのでもしかしたら雷の落ちる率も高いのかもしれない。
「青渭神社」 (郷社・稲城市東長沼鎮座)
(あおい神社)
祭神:青渭神・猿田彦命・天鈿女命
弘仁年中(810−824)の創立ともいうが、詳細は不詳。
昔はこの付近に大きな青い沼があったとされ、その神霊を祀ったことが起源とされる。そのため「大沼明神」「青沼大明神」と称していた。
祭神は出雲系とされる青渭神。
この神社も多摩川の豊富な水と関係のある神社で、かつては霊泉もあり、かつ弥生の住居跡もある。
明治6年に郷社列格。
現社殿(幣殿・拝殿・覆殿)は昭和49年造営。本殿は徳川時代初期建築との伝承あり。
社殿の付近は東京におけるナシ栽培の起源地(元禄年間に植樹)でもあるという。
午前9時30分。稲城長沼駅の近くまで移動。青渭神社は一度きたことがある神社。とはいっても、前回参拝は8年前でまだ神社散歩も駆け出しだったころなのにろくに観察もできていなかった。細長い参道は100メートルほどある。神社は南面。住宅地の中であれど木々が豊富で緑が気持ちよい。自転車を漕いで疲れた体を休ませるのには気持ちの良い空間だ。
「但馬稲荷神社」 (旧無格社・稲城市大丸鎮座)
御祭神:宇魂命
創建年代不詳。幕末期の嘉永・安政期(1848−60)のころは繁栄を極めていたと伝承される。
午前9時50分。南武線の線路の北側に鎮座している。南武線はちょうど高架工事をやっていてちょっとあたりはバタバタしていた。それでも一歩奥に入れば静かな住宅街。家と家の間に唐突に神社の空間があって、赤い社殿が太陽光を眩しいばかりに照り返していた。
但馬の名前はどこから来ているかはわからないが、社殿には「文久2年」の扁額が掲げてあり「正一位 但馬稲荷大明神」と誇らしげであった。
「大麻止乃豆乃天神社神社」 (郷社・稲城市大丸鎮座)
(おおまとのつのてん神社・郷社・稲城市大丸鎮座
祭神:櫛真智命
創建年代は不詳。延喜式神明帳記載の古社。
祭神の櫛真智命は記紀にはみえないが、高天原の天香久山の神とされ卜占の神とされている。
江戸期には「丸宮明神社」と称しており新編武蔵国風土記稿には社号丸宮明神と記載がある。
参道の右側にはかつての別当寺円照寺が鎮座。
明治維新後に神仏分離令が出されたときに従来から延喜式内社候補とされていたため大麻止乃豆乃天神社の名前を申請。
大和国十市郡に「天香山坐櫛真命神社」(大社)があって「大麻等乃知神」と元の名が注されていることを根拠にしているという。
末社のうち、秋葉神社は拝殿西隣に鎮座。江戸期にはすでにこの地に鎮座していた末社。
本殿東側の覆殿は神明神社・白山神社は大正4年に合祀、稲荷社はそれ以降に合祀。
南側の稲荷社は上河原の医王寺持ちの社殿を合祀。
中央の神明神社は大丸7-810に鎮座していたものを合祀。
白山神社は大丸7-877に鎮座していたものを合祀。
本殿東脇の大久保稲荷神社は大久保家の鎮守を明治6年に合祀。
午前10時。大麻止乃豆乃天神社到着。こちらも8年ぶり。この神社はよく参拝できなかったことをよく覚えている。そのときは穴澤天神社〜青渭神社〜大麻止乃豆乃天神社を2時間ほど掛けて歩いてまわり、夕方近くにここまでたどり着いた記憶がある。もう暗くなっていて、ろくに観察をしていなかったが。裏山の雰囲気が秀逸。これは時間を見つけて登ってみたい、そう感じさせる風観。隣には円照寺というお寺が鎮座しており、神社両脇に墓地が広がっているが、そんなに違和感を感じない。神仏習合も自然な感じで営まれていた。
今回の神社散歩はこれまで。稲城の神社庁所属神社は全参拝。神社庁所属外はいくつか残っているというあんばいです。
参考文献等
各神社境内の案内板等
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