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「稲荷の雪山詣で・その1」
<平成7年2月参拝>

目次
その1・ 「稲荷へ」/「伏見稲荷大社」/「東丸神社」/「奥宮」/「伏見稲荷大社・奥社奉拝所

その2.「稲荷山・神蹟へ」


「稲荷へ」
この日は天気予報では「雪」となっていた。しかし大阪に宿をとっていたその日の朝は何にも問題なく晴れていた。これならば、と北上すると・・・アレレという間に「雪」になって、舞って降って積もっていた。
しかし私は「稲荷大社」にいきたかった。関西本面の未訪問社のなかでも、格が高く未参拝なところとして気になっていたのが「稲荷大社」。
どうしても行きたかったのだ。たとえ雪でも、そんなことは関係ない。「京阪・伏見稲荷社」に降り立ったのが午前9時すぎだった。



「伏見稲荷大社」(官幣大社・稲荷社総本社・延喜式内名神大社・22社のひとつ)
<京都府京都市伏見区深草藪之内町鎮座・朱印

祭神
宇迦之御魂大神(下社・中央座)
佐田彦大神(中社・北座)
大宮能売大神(上社・南座)
田中大神(田中社・最北座)
四大神(最南座)
五柱を「稲荷大神」と称する。

元明天皇の和銅四年(711)二月初午の日に、深草の長者・伊呂具ノ公が勅命によって三柱の神々を伊奈利の三ヶ峰に祀ったことにはじまる。以後、秦氏一族によって祭祀される。
伊呂具ノ公が的にして射た餅が白鳥と化して飛び立ち、その留まった山の峰に「稲」が生じたことから「イナリ」ともなったという。
淳和天皇の天長4年(827)、天皇のお身体が不健のために占ってみると、先朝の御願寺「東寺」の塔木として稲荷社の樹を伐られた罪たたりであることがわかり、このときに始めて「従五位下」の神階を授かり、天慶5年(942)に「正一位・稲荷大明神」となる。
延喜式内の名神大社、祈念・月次・新嘗・祈雨に預かる。
村上天皇の応和三年(963)に皇城の巽(東南)の守護神と定められる。
後朱雀天皇期の長暦三年(1039)に二二社の上七社に列格。歴代朝廷から特に篤い崇敬を受けてきた。
後三条天皇の延久四年(1072)に稲荷社と祇園社に行幸があり、これを「両社行幸」と称して、歴代の慣例として鎌倉時代まで及んでいる。
中世期に熊野信仰が盛んになると、稲荷明神が熊野参詣の道中を守護する誓いがあると信仰される。

明治四年(1871)に官幣大社「稲荷神社」として列格。昭和21年に宗教法人「伏見稲荷大社」となる。

稲荷大神は五穀を始め、すべての食物・蚕桑をつかさどる神として信仰。神仏習合によって稲荷社は東寺の守護となってからは、その信仰も一段と広まる。
農業神から殖産興業神・商業神・屋敷神と拡大し、各地に勧請。現在では稲荷社は三万余社とされ、全国神社の三分の一を占めるるうえに、屋敷神を含めればそれこそ無数に近い。

境内地は稲荷山を含む85万八千uという広大な領域。山中と山頂の神蹟周辺は一万数千基の御塚がある。山上に至る参道には一万余という朱鳥居が奉納されている。

当社はもともと稲荷山下社・中社・上社があったが、のちに田中大神と四大神がまつられて五社となった。応仁の乱によって社殿が焼失し、現在の形式となる五社相殿の本殿が建立される。
現在の本殿は明応八年(1499)に建立された「稲荷造り」と呼称される社殿。
明治42年に国宝に指定され、現在は「国重要文化財」指定本殿。

稲荷
参道門前町。午前9時過ぎ
稲荷
楼門
稲荷
外拝殿
稲荷
拝殿
稲荷
本殿。午前9時30分頃。
<国重文>
稲荷
こちらは11時30分頃の楼門。
お山巡り2時間後には晴天だった・・・
稲荷
山巡り終了後の稲荷正面
稲荷
雪解けの稲荷正面

伏見稲荷に到着したのが、9時15分。雪は小止みになった気分なので、足早に朱印を頂戴しようとするも、朱印を頂く場所は札所とは別で、なにやら境内を行ったり来たり。
ようやく落ち着いて参拝。あいかわらず雪景色なのであまり落ち着いてもいないのだが、楼門と拝殿と本殿とをぐるぐるめぐって参拝。
これから「山」に登るので体力温存なのだ。
山の下は格別に「稲荷」らしさは感じない。もちろん「キツネ様」で稲荷様、ではあるのだが。



「東丸神社」(旧府社)
<京都府京都市伏見区深草藪之内町鎮座・朱印

祭神:荷田春満(かだのあずままろ)命 (本名は羽倉信盛。のちに春満・東麻呂・東丸)

伏見稲荷大社に隣接して鎮座。東満(1669−1736)は伏見稲荷大社の社家である羽倉家の生まれ。賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤とともに国学四大人のひとりに数えられる。
当社は明治23(1890)の創建。明治36年に府社に列格。社地の隣に春満の生誕した羽倉家の旧宅があり、国史跡に指定されている。

稲荷
東丸神社
稲荷
社殿

雪は舞っているけれども、山に登る前に立ち寄る。
社務所で「朱印」を頂く。頂戴する時に「こちらは東丸神社ですがよろしいですか」といわれる。どうやら、伏見稲荷に隣接している為に勘違いをする人もいるようだ。勿論、私は「東丸神社さんの朱印」が欲しいので、全く問題ない。


いよいよ山に足を踏み入れる。なにやら急に雪が強くなったような気もするが、すでに意を決しているので歩くのみ。

本殿後方に「斎場」「奥宮」があり、その先に「千本鳥居」がある。二手に分かれる千本鳥居を抜ければ「稲荷大社奥社奉拝所」に到達。

「奥宮」
稲荷大神
本殿と同じく明応期の造営という。「上御殿」、または御扉が三戸前のところから「三社殿」とも呼称。
下中上社別殿の制、当時の上社、或いは上社に深い由緒を持つとされる社殿。

稲荷
ここから「稲荷山」に続く・・・。
稲荷
奥宮。
稲荷
千本鳥居
稲荷
まるで吸い込まれるかのような気配

稲荷大社奥社奉拝所朱印
当社は「奥の院」とも呼称。奥社奉拝所は「稲荷山」を遙拝する場であり、稲荷山三ヶ峰は社殿のちょうど背後に位置している。
すでに室町期には奉拝所として設けられていたという。江戸期には「封戸所・供物所」とも呼称。
昭和50年に社殿を現在位置に定め「拝所」が設けられた。

稲荷
奥社奉拝所。
稲荷
社殿。
稲荷 左写真。
奥社遙拝所後方。
稲荷大神をまつる。

「奥社奉拝所」にも札所があり、どうやら御朱印がいただけるようなので、せっかくだから頂戴する。それにしても雪は止まない。こんな雪の中で「稲荷山」を登ろうとするのは酔狂な世界だろう。そんなことはわかっているが、これから約4キロ2時間コースとされる「お山巡り」。雪の「お山」も得難い経験だろう。前向きに考える。
ひたすらに連なる朱鳥居に、引きこまれるかのように足を踏み出す。

・・・稲荷山編に続く。


参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)




「稲荷山・神蹟へ」


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