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「尾州・犬山小牧路をゆく」

<平成17年10月参拝/平成22年3月参拝記載>


犬山城址周辺
 「針綱神社」    (延喜式内小社・旧県社・尾張五社の一社)
 「三光稲荷神社」  (旧村社)
 「犬山神社」    (旧村社)
 「熊野神社」  

大縣神社周辺
 「諸钁神社」    (延喜式内小社)
 「大縣神社」    (延喜式内名神大社・旧国幣中社・尾張国二の宮)

田縣神社周辺
 「田縣神社」    (延喜式内小社・旧郷社)
 「久保山ノ熊野神社」(旧郷社)
 「岩崎山ノ熊野神社」(旧村社)




前日は「遠州・天竜浜松路をゆく」で掲載した神社を詣でていた。その日は名古屋に宿泊。
翌日は「犬山」「小牧」界隈の神社を探訪。午後からは用事があったようであいかわらずの駆け足参拝。

犬山遊園駅についたのが8時30分過ぎ。ここから犬山城方面へと足を運ぶ。




「針綱神社」 (延喜式内小社・旧県社・尾張五社の一社・愛知県犬山市北古券鎮座)
 (はりつな神社)

御祭神:尾治針名根連命(天火明命の子孫)
    伊邪那岐命・菊理姫命・大己貴命・玉姫命・建筒草命・建稲種命・建多乎利命・大荒田命・尾綱根命

創建年代は不詳。太古より犬山の峯に鎮座し「白山大明神」と呼称され濃尾の総鎮守であった。
延喜式延喜式神明帳記載の尾張国丹羽郡の式内社「針綱明神」。

天文6年(1537)に織田信長の叔父であった織田信康公によって犬山市内の木ノ下城を峯の山頂に移築するに当たりもともと現在の犬山上天守閣あたりに鎮座していた社殿を犬山市白山平(日本モンキーパークの付近という)に遷座。
慶長11年(1606)に犬山市内名栗町に遷座し犬山城主成瀬氏の代々祈願所であった。
明治8年(1876)に郷社列格。明治15年に名栗町から現在地に遷座し、社格は県社。

織田信康公が木ノ下城主であったころ奥方が御懐妊し、織田信康公自らの手彫りの狛犬一対を奉納され安産祈願をしたことから安産の神として崇敬されている。

<神社由緒案内板等参考>


右が「針綱神社」 左は「三光稲荷神社」

針綱神社正面

針綱神社神橋

針綱神社参道

針綱神社社殿

針綱神社社殿

「針綱神社・御朱印」印が逆さまなのはご愛嬌。

犬山橋をながめつつ。木曽川岸にそって歩く。
犬山城址を真正面にとらえつつ「白帝城」とも美称された天主を丘の上に臨む。
社頭前には8時50分頃到着。「針綱神社」と「三光稲荷神社」が鳥居を並べており、道路を挟んで南西には犬山神社も鎮座している。
まずは「針綱神社」へ。10月の参拝であれどまだ紅葉には早い季節。ちょっと残念。
予備知識なしで参拝をすると、あとからあわてることになる。直前に「式内社」であることだけを頭に入れての参拝。

社務所で御朱印を頂戴するも、「印をさかさまに押してしまいました」と。「あははっ、構いませんよ」。これもまた思い出ということでまあ良いでしょう。そもそもこれを書くときまで逆さまなことを忘れていたぐらいですから。

このまま針綱神社から犬山城に抜ける。




「犬山城」
犬山上の天守は国宝指定の4城のひとつ。木曽川沿いの丘上(約88メートル)に築城された平山城。別名を「白帝城」と呼称する。
現在の店主は元和3年(1617)に成瀬正成が改修した姿を伝えている。
wikipedia−犬山城


犬山城 後方は「ライン大橋」と「伊木山」

犬山城

犬山城

犬山城天守閣からみた「ライン大橋」と「伊木山」
犬山城の西方

犬山城天守閣からみた「犬山橋」
右は「大聖寺」「善光寺山・日本モンキーパーク」
犬山城の東方

せっかくなので犬山城の天守へ登る。
見事な展望。天気も良く晴れ、ダイナミックな青を空に川に感じる。気持ちも爽快でついついのんびりしてしまう。




「三光稲荷神社」 (旧村社・愛知県犬山市北古券鎮座)
 (さんこういなり神社)

御祭神:宇迦御魂大神・猿田彦大神・大宮女大神

創建年代は不詳。
かつては現在の犬山城南西の三狐山(三光山)に鎮座し、織田信長の叔父である織田信康公に特に篤く崇敬される。
江戸時代には犬山城主成瀬氏の代々祈願所。
神仏習合し三光寺とも称していたが明治期の神仏分離によって三光稲荷神社となる。
明治社格では旧村社。
昭和39年(1964)に現在地に遷座。

<神社由緒案内板等参考>


三光稲荷神社

境内社の猿田彦神社

三光稲荷神社参道
御朱印500円とありますが・・・貰ってませんでした。

三光稲荷神社社殿

三光稲荷神社奥之院

三光稲荷神社裏参道

9時30分。犬山城の天守閣から降りれば今度は「三光稲荷神社」へ。ちょうど裏参道から境内に入ることとなる。
裏参道からはいるといきなり「奥之院」。参拝順序が間違っているがいたし方がない。御朱印も頂戴できたはずなのに、私は貰っていなかった。忘れていたのかどうか。そのことも覚えてはいない。




「犬山神社」 (旧村社・愛知県犬山市北古券鎮座)

御祭神:
成瀬正成公以降の歴代犬山城主(成瀬氏)
戊辰戦争から大東亜戦争までの戦没者

犬山城南西に鎮座。犬山城西御殿(平岩親吉屋敷を移築したもの)の地に当たる。
成瀬正成公以降の歴代城主および戊辰戦争から大東亜戦争までの戦没者を祭る。
もともとは犬山城内で祖霊社として祀られていたとされる。享保2年(1717)に犬山城主4代目の成瀬正幸公が犬山城内から相生山(現在の日本モンキーパーク付近)に遷座し、「相生の宮」(相生社)として創建。
明治16年に現在地に遷座し「犬山神社」と改称し村社列格。
昭和23年に戊辰戦争から大東亜戦争までの戦没者371柱を合祀。


犬山神社正面

犬山神社参道

犬山神社社殿

犬山神社本殿

三光稲荷神社・針綱神社の道路を挟んで反対側に鎮座しているのが「犬山神社」。歴代犬山城主成瀬氏を祭っている神社。いわば祖霊社である。社殿は東面。境内の後方は駐車場をかなており広々としていた。




「犬山東古券ノ熊野神社」 (犬山市東古券鎮座)

御祭神:伊那那岐神、速玉男之神

創建年代および由緒は不明。寛文8年(1668)再建の記録が残る。

このあたりをかつては熊野神社が鎮座することから熊野町と呼称。以前は神社境内に「熊野山・先聖寺」が鎮座していた。(現在は外町に鎮座)
熊野町は寛永年間(1624−1644)には魚屋町に属していた。町の南端には「薬師口」という木戸があり、城下町と外部との境目をなしていた。


熊野神社正面

熊野神社境内

壁のない吹き抜け式の熊野神社拝殿と犬山祭の車山「住吉台」

熊野神社社殿

犬山城から南下。そろそろお城を離れる。南西の「犬山駅」を目指して歩いていたら、途中に「熊野神社」が鎮座していた。そんなに大きな神社ではないがせっかくなので寄り道。尾張地方の神社らしく「蕃塀」が備えられていた。拝殿は神楽殿兼用のような壁無し吹き抜け型。本殿はこじんまりとまとまっていた。社殿の隣には犬山祭りの山車が収納された蔵もある。




「諸钁神社」 (延喜式内小社・犬山市裏之門鎮座)
 (もろくわ神社)

御祭神:建御名方神(諏訪大明神)

延喜式神明帳記載の延喜式内社。
仁寿元年(851)創建という。そのほか由緒等は不明。


諸钁神社正面

諸钁神社境内入口

諸钁神社蕃塀

諸钁神社社殿

諸钁神社社殿

奥に見えるのが諸钁神社本殿

名鉄の「犬山駅」から電車で南下。名鉄小牧線にて二駅南の「楽田駅」で下車。10時15分過ぎ。
東に歩き始めたら道路の途中に鳥居が見えた。・・・読めない神社社号標。これは下調べしていなかったのでなんにもわからないがとりあえずいってみる。広い境内に、蕃塀があり奥に新めの社殿。その回りを樹木が覆っていた。
案内板のたぐいもなくて、結局参拝していたときは何の神社かわからない状態だった。
のちほど調べてみて、「あっ式内社だったのか」と驚く始末。「もろくわ神社」という読み方もこのとき知った次第。




「大縣神社」 (大県神社・延喜式内名神大社・旧国幣中社・尾張国二の宮・犬山市宮山鎮座)
 (おおあがた神社)

御祭神:大縣大神

当社ははじめ本宮山の頂に鎮座していたのを垂仁天皇27年に現在地に遷座とされる。(紀元前3年)
延喜式内の名神大社。
尾張国二ノ宮として崇敬され、大正7年に国幣中社に列格。社殿は尾張藩主二代目徳川光友再興の建造物で尾張造、国重要文化財に指定。
本宮山(293メートル)頂上には奥社「本宮社」が鎮座しており大縣大神荒魂を祀る。

境内社
姫之宮 御祭神は大荒田命の御子玉姫命を祀る。
大国恵比須神社 大国主神・事代主神を祀る。

国史跡「青塚古墳」(茶臼山古墳) 神社西方33キロ
大縣神社飛地境内地。大荒田命の墳墓と伝えられる。愛知県下で二番目に大きい前方後円墳。


名鉄「楽田駅」から神社方面を望む

突き当りが「本宮山」。一路「大縣神社」へ

大縣神社正面

左に「大縣神社社殿」、正面が「姫之宮」

「大縣神社社殿」

「大縣神社社殿」

「姫之宮」

「姫之宮」

「姫之宮」本殿

「姫之宮」姫石

「大国恵比須神社」

左「大縣神社社殿」、正面「姫之宮」

「大縣神社社殿」

「大縣神社社殿」

大縣神社・御朱印

10時45分。大縣神社に到着。諸钁神社に寄り道して都合30分ほど歩いた形となる。距離としては楽田駅より東に1.5キロほど。そんなに遠くもないけれども道が一直線で、歩いても歩いても「本宮山」が近づいてこないので結構歩いた気になる。
訪れたときが10月。ちょうど例祭の時でもあったようで境内が賑わっている。
境内をはいって左側に「大縣神社」社殿が南面して鎮座。参道の突き当りには「本宮山」を背にして「姫之宮」が鎮座している。延喜式内名神大社にして尾張国二の宮であれど、世間的には「姫之宮の豊年祭」が有名。姫の宮本殿背後には「姫石」(女陰石)が安置されている。
祭礼の邪魔にならないように境内を散策し、御朱印を頂戴する。時間があれば「本宮山」に上りたいところであれど、なかなかそういうわけにもいかないスケジュール。ゆっくり来たいと思いつつ足場やに参拝する。

11時20分すぎ。神社をあとにする。そのまま楽田駅に戻り、名鉄を南下。次に目指すのは「田縣神社」。




「田縣神社」 (延喜式内小社・旧郷社・愛知県小牧市田県町鎮座)

御祭神:御歳神・玉姫神

創建年代は不詳。古くからの土着信仰に基づく神社。延喜式内の小社。当地は大荒田命の屋敷の一部であったとされる

大荒田命(おおあらたのみこと)
「旧事本紀」にみえる神。尾張国の邇波県(にわのあがたの)君の祖。

玉姫神は大荒田命の娘。饒速日(にぎはやひの)命12代の孫であった建稲種(たけいなだねの)命の妻となるが、夫が亡くなった後に実家に戻り、父を助けて当地を開拓したことから功績を讃えて祀られたという。


田縣神社 正面社務所・社殿は右手

田縣神社社殿

田縣神社拝殿に奉納される神輿

田縣神社奥宮参道

田縣神社奥宮参道

田縣神社奥宮

田縣神社奥宮に多数奉納される男茎形木彫

奥宮脇の珍宝窟

田縣神社 御朱印

12時10分。田縣神社に到着。名鉄「田県神社前」で下車して南西に300メートルの地に鎮座。境内は木曽街道に沿って鎮座している。鳥居も木曽街道に面した東側に建立されているが、社殿は90度折れるようにして南面している。
境内に足を踏み入れ拝殿に到達するまではいたって普通の神社。しかし拝殿内に奉じられている神輿を見れば「男根」。一歩奥へと足を踏み入れ「奥宮」にたどり着くころには、この神社の信仰形態がわかるだろう。なんでも祭神「御歳神」にちなんで男茎形(男根形)を奉納祈願する風習があり、境内には多くの男茎形石や木彫が納められている。そんなわけでいつしか世間で有名になった「男根」の神社。天下の奇祭・珍祭として「豊年祭」が知られる。


「古語拾遺」(大同2年・807に斎部広成が編纂)御歳神のおはなし。
神代のころ大地主神が農夫に田圃を耕作させ牛の肉を食べさせたことがあった。
それを見た御歳神の子(大国魂神)が、田圃にやってきて饗物に唾を吐きかけて帰り、その様子を父である御歳神に報告した。
御歳神は怒って蝗をその田圃に放った。苗の葉はたちどころに枯れ、篠竹のようになってしまった。
大地主神は巫人に占わせると『御歳神が祟りをなしている。祟りを解くには白猪・白馬・白鶏を献上して、その怒りを解くべし』と申した。そこで大地主神は教えにしたがって謝した。
大歳神の怒りは解けさらに言うには「麻柄で糸巻きを作り、それに麻をかけて麻の葉で掃いで、天押草で押し、烏扇であおげば蝗は出るであろう。それでも出て行かなければ、牛の肉を溝口に置き、それで男根形を作ってこれに加え、数珠球・山椒・胡桃の葉と塩を畔に置きなさい」と教えてくた。
そうして教えのとおりにすると苗の葉は再び繁茂し、田は豊作となったという。


タブーであった牛肉が神の怒りに触れるものであり、それでいてなおかつ田害を払う呪物でもあったらしい。

いずれにせよ大歳神はこの説話から「稲作神・豊作神」となり、男根を模したもの奉納する信仰へとつながることになった。
余談だが武蔵府中の「大国魂神社」に伝わる「からす団扇」「からす扇子」はこの古語拾遺の「烏扇」のエピソードが関係している。


さて、田縣神社をあとにしよう。
付近を見渡して丘が目に付く。あれはなんだろうなと地図を眺めたら熊野神社だった。線路をはさんで反対側の丘の上。せっかくだから赴いてみる。



「久保山ノ熊野神社」 (旧郷社・小牧市久保一色鎮座)

由緒は不詳。約600年前の14世紀頃(康永年間(1342−44)頃創建という)より村の鎮守であったとされる。
昭和34年の伊勢湾台風にて社殿が大破し昭和59年に再建。

<久保山砦跡>
天正12年(1584)に行われた羽柴秀吉と徳川家康が戦った小牧長久手の合戦で秀吉方の砦が築かれた地。
久保山ノ熊野神社一帯が砦跡とされ、秀吉方の武将であった丹羽長秀が守備をした。長久手の合戦後に秀吉自ら久保山砦に来たこともあることから一名を「太閤山」ともいう。



久保山ノ熊野神社
久久保山ノ熊野神社参道

久保山ノ熊野神社社殿

久保山ノ熊野神社社殿

久保山ノ熊野神社本殿

久保山遠景

12時35分。
田縣神社からは300メートルほどしか離れていない。こんもりとした丘の上に鎮座。
訪れてみれば小牧長久手の戦いの際に砦も築かれたらしい。なるほどといった感じ。おそらくあれだろうなあ、といった方向に小牧山らしい丘も見える。(違うかもしれないが)
小牧山までは約5キロほど離れている。小牧山城には徳川家康が入城し、この界隈は秀吉軍が砦を築いて対峙していたというわけだ。

ここには意外にも郷社格の神社が鎮座していた。伊勢湾台風後に再建という社殿は綺麗に纏まった感じ。シンプルで華美でなく落ち着いた雰囲気があった。

このあたりは「丘」が多いのだろうか。もうひとつ気になる出っ張りがあり、やはり地図を見ると「熊野神社」とある。
せっかくだからということで引き続き足を運んでみよう。



「岩崎山ノ熊野神社」 (旧村社・小牧市岩崎鎮座)


御祭神:伊邪那岐尊・伊邪那美尊

当社は標高54.9メートルの独山に鎮座し、全山を巨岩で覆われている。
山腹には県指定天然記念物の「五枚岩」があり、古代より盤境として崇敬されてきたという。
明治5年に村社列格。

<岩崎山砦跡>
小牧山と相対し、小牧長久手の合戦の際には秀吉方が砦を築き稲葉一鉄・貞道父子が布陣している。
また名古屋城築城の際には大岩を大量に切り出したといわれている。


岩崎山ノ熊野神社

岩崎山ノ熊野神社参道

岩崎山ノ熊野神社蕃塀

岩崎山ノ熊野神社舞殿

岩崎山ノ熊野神社拝殿

岩崎山ノ熊野神社本殿

岩崎山山中の巨石

岩崎山山中の巨石

岩崎山ノ熊野神社境内

「熊野神社の五枚岩」

「熊野神社の五枚岩」

「熊野神社の五枚岩」

15分ほど歩いて13時ちょうど。到着したら丘の規模も大きくて「岩崎山」と呼称されいた。
付近でも珍しい花崗岩の岩山で名古屋城の石垣にも使われているらしい。岩山には神社や寺院・祭祀場があり、古くからの信仰をうかがうことができる。
先ほどの「久保山」と同じくやはり「秀吉方の砦」が築かれていたらしい。この山の規模であれば結構な砦が築けたであろうことが想像できる美濃の稲葉勢が4000名の砦というのも納得であった。

なによりも岩が凄い。巨石が山中でごろごろしている。ちょっと不思議な感じもするこの山中は眺め歩くだけでも結構面白い。

ここからだと名鉄「味岡」駅が近いようだ。距離にして500メートル東に駅がある。
名鉄に乗って、名古屋へ。この日の午後は名古屋市内で用事があったようなのだ。神社参拝もここまで。




参考文献
各神社境内の案内板等
「神社辞典」東京堂出版

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