「神々の出雲を詣でる・出雲大社編」
<平成15年12月参拝・平成16年1月記>
1.「出雲へ」/「出雲大社」
2.「稲佐海岸へ」/「日御碕神社」
3.「八重垣神社」「神魂神社」
4.「六所神社」「真名井神社」
「出雲へ」
実は出雲国に行くのは三度目だったりする。
一回目は小学生の頃、家族に連れられたらしい。このときは松江城と小泉八雲の記憶が若干ある。出雲大社にも詣でたらしいが、ガキにはそんな記憶はない。あとは駅前にくたびれた鉄道が走っているなあ、という印象。
二回目は大学生の時。このときは「くたびれた鉄道」がすべての目的であった。
京都から今は無き「夜行急行・大山」にのって、早朝の一畑電鉄を全線乗りつぶした。このときも出雲大社に詣でたはずだが詣でたという以外の記憶はなかった。そしていつしか神社に興味を抱くようになっていた。
私には心残りがあった。出雲にいったことがあるのに、脳裏に出雲大社の光景が浮かばないということを。神社を好む者、歴史を探る者として、出雲に呼ばれている気が常にしていた。伊勢には詣でたことがある。次こそは出雲だった。
念願の出雲は日帰りだった。冗談みたいな旅を私は常にしている。私の旅の前身が「鉄道趣味」、いわゆる鉄ちゃんであることが、行動原理に影響を及ぼしていた。単純に出雲の神社に行きたかっただけで、日帰りをするあたりが剛毅でもある。
得てして鉄道好きの人間は無理をする。鉄道に乗るという目標のために無理に鉄道に乗るという、それこそ鉄道に乗ることが満足なことであるという、常人には理解しがたい原理で旅が組み立てられていた。そんな私も鉄道よりも神社がすきになってしまったのだからしょうがない。神社のために旅に出ているのだから、やっぱり常人には理解しがたいだろう。それこそ神社以外はまったくもって眼中にないのだから。
出雲に行く。私は早朝の羽田空港にいた。飛行機で旅に出るという、過去の私にはない行動であったが、もはや飛行機は私の中で当たり前になっていた。
気がついてしまった。時間的損得を考えると圧倒的に飛行機は有利であり、そしてチケットの取り方次第では安くとれるという事実に。それでも「こんな鉄のかたまりが宙に浮くということは自然の摂理に反している」などと考えているのだから滑稽だった。そのうえ空の上で富士山にみとれているのがますますもって滑稽きわまりない。
富士の山 |
富士 |
飛行機の中で捜し物。どうやらメモ帳を忘れてしまったようだ。旅に出るときはメモ必死なうえに、執筆するときもメモが頼りなのだが、ないものはしょうがない。あやしげな記憶にたよるしかないだろう。一時間ほどのフライトを地上観察とささやかな睡眠で過ごすと宍道湖を滑空していた。宍道湖を横断するとそのままに滑走路にすべりこむ。なかなかの光景。飛行機的にも、着陸しやすそうな空港であった。
空港はシンプルで、気がついたら「出雲大社行」のバスに乗り込んでいた。この空港からの連絡バスだけはあらかじめ確認しておいた項目であり、唯一「バスに乗って出雲大社」という行為が計画通りだった。逆に言うと出雲大社以外にはなんら予定は立てていなかった。
バスは出雲の平原をゆるやかに走る。あっという間に「出雲平野のバス」におさまって斐伊川を渡っている自分の立場というものがおかしみの極みだった。未だ、感覚が鈍っていた。出雲にいるのだという感覚が。
そうこうしているうちに気がついたらバスは到着している。こころがまえも何もあったものではない。いきなり出雲大社に到着しているというのもどうかと思うが、それでもたいした違和感はない。さすがに三度目だと身体が覚えているのかもしれなかった。目の前に大きな国旗がみえるも。、ここが出雲大社なわけではなく、大社教の拝殿。その先に、大きなしめ縄が特徴的な出雲大社の拝殿をかいまみる。
「出雲大社」 (式内名神大社・出雲国一の宮・官幣大社・国宝・いずもおおやしろ)
<朱印・島根県簸川郡大社町杵築東>
主祭神:大国主神
本殿客座:天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・天之常立神
由緒
創建については「古事記」「日本書紀」の神世伝承が物語っている。すなわち、須佐之男命の神裔(御子神とも六世の孫神とも)であった大国主神は稲羽の白兎を救い、八十神や須佐之男命による試練を経て、スセリ比売命と結婚。その後、少名彦名命とともに国造りを行った。
やがて、天孫降臨(天照大神の御孫神=ニニギ尊)にあたり、国土を譲られて出雲の広大な宮殿に隠棲された。祭祀を司る者として天穂日命(天照大神の御子神)が大国主神のもとで奉仕し、その子孫が代々の出雲国造家(=千家・北島/現在、国造は84代を数える)として受け継がれてきた。
歴史も深く古代以来、中世近世の動向には枚挙のいとまがない。
一般には大社といえば出雲大社をしめし、神宮といえば伊勢神宮をさすほどに、最も著名な神社。
延喜式には杵築大社と記載される名神大社。別名として「天日隅宮」「天日栖宮」「所造天下大神之宮」とも記載されてきた。
明治四年に出雲大社に社名を改称するまでは、杵築大社と呼称されてきた。
<神社辞典・神まうで参考>
出雲大社大鳥居(バス車内から撮影) |
正面入口(バス車内から撮影) |
大社参道 |
銅鳥居(寛文6年・1666)毛利綱広寄進 |
八足門は修復工事中 |
八足門から楼門をうかがう |
拝殿・昭和34年再建
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本殿・延享元年(1744)造替・高さ八丈(24メートル)
後方「八雲山」は神山にして禁足地 |
本殿(国宝)・御向社・天前社 |
斜後方から |
斜後方から
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本殿正面は南向き。本殿内部で御神座は西向き。
つまりこの位置が御神座正面。
手前社殿は筑紫社。 |
釜社と東十九社
東西十九社は「神在月」の際に全国の神様の御宿となる。 |
素鵞社
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宝庫 |
氏社と西十九社 |
稲羽の白兎と大国主神 |
幸魂奇魂と大国主神 |
いきなりの緊張感。ひさしぶりに拝するのに緊張する。参拝者の列がとぎれ、私一人が悠然と拝す。軽く一礼して賽銭を投じ、二拝し、四柏手、一拝。最後にもう一度軽く一礼。出雲大社は四回柏手をうつのだ。パンパンパンパン。小刻みにリズム良く鳴り響く柏手。きまった。ひさしぶりに気分良く参拝できた。
札所で御由緒書きありますか、と尋ねるも巫女さんにそっけなくご用意はありません、といわれてしまい、お札を授かる。私は武蔵国氷川神社を産土神としている土地に居住している。武蔵氷川神社の創始には出雲系氏族が深く関わっているため、出雲大社はやはり特別な感情を抱いていた。改めて朱印を頂戴して、ゆっくりと宝物殿を見聞。
周囲をまわる。本殿とは距離がある。しかし巨大であった。何度見ても本殿に圧倒される。どこからみても本殿に圧倒される。神威的に重厚な気配。正直、これだけで満足してしまった。出雲に来てよかった、と心が満ちていた。
一度、参道を戻る。正面参道からあらためて社殿をうかがう。拝殿しか見えないが、それでも重厚な存在感。
出雲大社で長居をする。極めて贅沢な瞬間。しかし、いつまでもそうしている訳にはいかなかった。
目的は出雲大社詣でであり、すでに目的は果たしてしまったが、このあとは単純にいくつかの神社を詣でようかと思っていた。
さしあたって稲佐海岸まで歩いてみようと思う。出雲大社の境外社を見聞しつつ。
サイト的には次ページですが。
参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
「稲佐・日御碕神社」
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