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上越地方の古社詣で 〜平成19年9月参拝・平成21年2月記載〜

<その1 糸魚川>
ムーンライト信州〜大糸線 / 天津神社・奴奈川神社
 

<その2 上越>
直江津ノ八坂神社 / 越後ノ府中八幡宮 / 居多神社(越後一の宮) / 春日山ノ春日神社 / 春日山神社 / 榊神社 



糸魚川から上越市の直江津駅に向かう。そうして直江津に着いたのが13時。駅前でレンタサイクルを借りて市内の神社を巡る予定。
お昼時なので、駅ソバを食べてから、そうして自転車にまたがる。


「直江津ノ八坂神社」(旧郷社・式内社・新潟県上越市西本町鎮座

祭神 建御名方命(諏訪) 須佐男命(八坂) 大山咋命(日吉)

創建年代は不詳。式内社「佐多神社」の論社とされる。
「三柱神社」「八王子様」とも俗称される。
当初は八坂一社であったが、のちに諏訪神社と日吉神社を合祀している。(諏訪神社・八坂神社・日吉神社の三社が元禄二年(1689)に合祀。)
合祀後は諏訪神社とも「三柱神社」とも呼称していたが、昭和3年に「八坂神社」と改称。
明治社格では郷社列格。


郷社 八坂神社(八阪神社)

拝殿

社殿

本殿

13時20分。
直江津駅前北側200メートルの地に鎮座。社殿は東面している。正面の社号標には「郷社 八阪神社」とあり、その後ろには「三柱神社」とある。北側の入り口には「諏訪神社」ともあり、社名が転々としている三社合祀の神社。
式内社「佐多神社」の論社ともいわれていており、社名がコロコロしているようだ。

参道に商店が並んでおり、町の中で同化している。そんなにぎわいが感じられる神社も、境内に足を踏み入れればすっきりと広がる空間があった。



「越後ノ府中八幡宮」(越後国総社・越後国一国一社八幡宮・上越市西本町3丁目)

祭神:誉田別命
合祀:沼河姫・建御名方命(諏訪大神)

創立年代は不詳。宇佐八幡を勧請とも、石清水八幡を勧請したともいわれている。
越後国の総社として重んじられており上杉謙信をはじめ歴代高田城主の崇敬も篤かった。
往古は「阿比多御館」といわれた「高志総社」であった。
鎮座地のすぐ西側には国府・国分寺もあり、越後国一の宮の「居多神社」も鎮座している。

社殿内には「御神馬」の像がある。これは慶長15年(1610)に徳川家康の6男であった松平忠輝が越後福島城主であった堀氏にかわって越後に入国した際に八幡宮に寄進をしたものという。


府中八幡宮

境内

拝殿

社殿横姿

八幡宮社号

松平忠輝奉納の神馬像

13時30分。
レンタサイクルにまたがって次に向かったのが「府中八幡宮」。直江津駅からは500メートル西方に鎮座。社殿は南面している。
一国一社の八幡社にして、越後国の総社でもある神社。正面参道は広く、雰囲気の良い社殿が良い感じに古びた気配を醸し出している。
社殿をのぞくと神馬像があった。この神馬像を奉納したのが、松平忠輝。家康の6男にして伊達政宗の婿殿でもあった人物。隆慶一郎の「捨て童子・松平忠輝」を読んで以来の忠輝ファンであった私は、ここでその名を見てわくわくしてしまう。越後高田城主であった松平忠輝を思い起こす。旅先でのこういった邂逅が大好きだった。



「居多神社」(越後一の宮・旧県社・上越市五智6丁目)
   こた神社・ 別称:ケタ神社

祭神:大国主命(出雲大神)・奴奈川姫命(越の姫神)・建御名方命(諏訪神=大国主命と奴奈河姫命の御子神)

創建年代は不詳。古くは居多明神・媼嶽明神(おうなだけみょうじん)とも称した。
もともとは日本海に面した居多浜村岩戸浦山の半腹に鎮座していたが、貞和年間(1345−49)に社地陥没にあい、さらに慶応2年(1866)に山崩れにあい、明治12年(1879)に海岸浸食によって社地が崩壊したために現在地に遷座したという。
この地は国府の所在地でもあり国司の崇敬篤く、越後国一の宮として隆盛を極めた。
気多神社と系統を同じくするともいわれ、ケタ神社と読解する説もある。

延喜式では小社に列格。
戦国期には春日山城主上杉謙信の崇敬篤かったが、謙信死後の後継者争いに当社も巻き込まれている。上杉景勝と景虎が家督相続を巡って争った「御館の乱」(1578)では居多神社は景虎に味方をしたために景勝派に攻撃され社殿焼失。神主花ヶ前一家は能登越中に逃亡し、上杉景勝が会津に転封された慶長3年(1598)にようやく帰国するも昔日の面影はなくなってしまっていた。

明治6年に県社に昇格。現在は社殿焼失後の仮社殿のまま今日に至っている。

居多神社

居多神社参道

正面

拝殿

居多神社と親鸞像

本殿

社殿横姿

13時50分
直江津駅から西に約1.2キロメートル。五智公園の入り口でもあり、五智公園と国分寺に挟まれた地に当社は鎮座している。
今は、静かな集落の鎮守様のような様相ではがあれど、かつての隆盛を極めたという越後国一の宮。弥彦神社と肩を並べていた当社の繁栄は相当のものであったのだろう。社殿はかわいらしく古ぼけた雰囲気を醸しいる。そして横から社殿を望むと、予想に反して長屋のように細長いレイアウトをしているのが面白い。社頭の脇に親鸞像があるのも、越後国府の親鸞ゆかりの地らしくて微笑ましかった。



居多神社すぐ近くの海岸は親鸞聖人なじみの地。
承元元年(1207)、越後国府へ流罪となった親鸞聖人は、直江津居多ヶ浜に上陸したという。
親鸞聖人は35歳からから42歳までの7年間を直江津居多の国府の地ですごしている。
左:鏡ヶ池

念仏の弾圧を受けた親鸞聖人が越後国府に流罪となり、
この池の畔で自らの姿を写して木造を刻んだとされている。

この木造は国分寺境内に安置されている「伝親鸞聖人座像」
と伝えられている。

親鸞聖人上陸の地

展望台から日本海を望む



「春日山ノ春日神社」(旧村社・上越市春日鎮座)

祭神:天児屋根神・武甕槌命・経津主神・女神比売神

天徳2年(958)鎮座。越後国国府府内全域鎮護の神として、奈良春日大社を分霊し鉢ヶ峰上に祀った事にはじまる。以後、この山を「春日山」と呼ぶようになった。
永徳年間(1381)に守護代長尾高景が春日山城を築城するにあたって、当社を現在地に遷座し、春日山鬼門鎮護の神とした。
明治社格では旧村社。


春日神社

春日神社

参道を上から

拝殿

拝殿

本殿

14時20分
国府地域から一気に南下する。ここまでくると春日山駅の方が近く、春日山駅からは東に約1.5キロほど。私は国府の居多神社からレンタサイクルで南下。
春日山を望む手前の丘の上に「春日神社」が鎮座している。社殿は南面。細長い参道と木立が良い景観を作っていた。鬱蒼とした木立をぬければ開放感あふれる社殿が目に飛び込んでくる。この明暗のギャップが私は大好きなのだ。
春日山の由来ともなった春日神社に経緯を表して、次いでは春日山城址・春日山神社に向かうことにする。



「春日山神社」(旧県社・上越市大豆鎮座・春日山城址内鎮座)

祭神:上杉謙信公

明治20年に旧高田藩士小川澄晴が浄財を募り祭主となって創建。
上杉謙信公ゆかりの春日山城址内に鎮座しており、米沢の上杉神社を分霊したもの。
日本近代童話の父とも呼ばれる童話作家小川未明は澄晴の長男。


春日山神社参道

県社 春日山神社 社号標

正面

拝殿

本殿

上杉謙信像

春日山城址から市内を望む

正面の山が春日山

14時50分。
春日山城址。もちろん山城ゆえに斜面がきつい。山の中腹に上杉謙信をまつる「春日山神社」が鎮座。私の今回の目標は神社巡りだけで、さすがに城跡をめぐるまでの時間はなかった。戦国期の山城の様相をよく残す春日山城址は魅力的であれど、この日のうちに私は長野市まで赴かなくてはいけなかったために駆け足気味で参拝。
小川未明に関係するともある神社。いろいろと興味深い事も多かった。

15時10分。春日山をあとにして、いったん直江津駅まで戻る。自転車を返却して15時40分過ぎ。
そのまま信越線にのって南下して次に目指したのは「高田駅」。ここも上越市内。上越市には「長尾・上杉氏の春日山城」「堀氏の越後福島城」「松平忠輝以降の高田城」という3つの城跡がある。大規模な城が3つも集中しているという意味でもとても興味深いところであった。
せっかくなので、勢いにまかせて高田駅に着いたのが16時15分であった。



「榊神社」(旧県社・上越市大手町鎮座)
  さかき神社

祭神:初代・榊原康政公
合祀:3代・忠次公 11代・政令公 14代・政敬公

徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の榊原康政を祀る。
高田藩有志が藩祖榊原康政を祀る神社として明治9年に社殿建立。明治39年に県社列格。


榊神社

拝殿

拝殿 神楽殿

本殿

東洋一と呼ばれる高田城址外堀の蓮

高田城址 三重櫓

高田駅に16時15分について、バタバタと町に飛び出す。とりあえず城跡に。
約1キロを南東に歩めば榊神社があり、正面には高田城のお堀が見える。高田といえば松平忠輝という頭でいた私だったが、あっというまに改易されていたのでそのあとの城主は無知であった。幕末には榊原氏だったということも、実際に訪れてみてはじめてわかったこと。
境内はさほどに広くないが、よくまとまった雰囲気。
神社を参拝して、城跡をめぐってと散歩してみる。

例のごとくあまり時間がない私は高田を1時間あまりの滞在。そのまま信越線で南下して、この日の宿は長野駅のビジホ。
糸魚川・上越とあわただしく移動して、次の日は戸隠に行く予定。そのための長野宿泊なのだ。
そんな戸隠はまた次回の掲載です


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