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「伊豆相模の神社風景・鎌倉の神社編」
<平成15年3月参拝・平成15年6月記>

目次
鎌倉宮荏柄天神社白旗神社と頼朝墓鶴岡八幡宮

伊豆山神社編」「小田原と川匂神社編


 川匂神社の二宮駅から東上して、大船乗り換え。鎌倉に到着したのが午後3時。なんか微妙に時間がたりないような気もするが、急いでバスに乗り込み「鎌倉宮」にむかう。時間もないので、鎌倉では余計なものは目に入れずピンポイントで行動する事にする。



鎌倉宮 (神奈川県鎌倉市二階堂鎮座・官幣中社)
朱印

祭神:大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)

 護良親王は後醍醐天皇の皇子。11歳の時に比叡山に入山し20歳で比叡山延暦寺天台座主となり尊雲法親王と称した。
 当時、元寇以後の鎌倉幕府の経済的疲弊・執権独裁強化により諸国の武士階級に不満が醸成され、民心は不穏なものとなった。後醍醐天皇は民心を安定し天下を太平にするため、天皇親政・倒幕を決意。
 正中元年(1324)に後醍醐帝は側近の日野資朝・俊基らと討幕運動を計画するが、露見。元弘元年(1331)に正中の変に続いて再度の倒幕運動を起こし護良親王は後醍醐帝の命により比叡山で挙兵する手筈を整えていたが、計画が再び鎌倉幕府に露見。後醍醐天皇は笠置山に逃れたが捕らえられ隠岐に配流される。
 後醍醐帝が隠岐に流されると親王は還俗して名を護良と改め、天皇に代わって楠正成らとともに鎌倉幕府軍と善戦。親王は諸国の御家人や有力豪族に令旨を下し、足利高氏(尊氏)や赤松則村が京都六波羅探題を攻略し、新田義貞は鎌倉を陥落させ鎌倉幕府は滅亡。
 後醍醐帝による建武の中興によって親王は征夷大将軍兵部卿となった。しかし武家の統領を欲していた足利尊氏と対立し、建武元年(1334)に足利尊氏の謀叛。親王は奸策によって捕らえられ、鎌倉二階堂の東光寺裏の土牢に幽閉。
 翌建武二年に鎌倉幕府の遺臣を中心とする北条時行の「中先代の乱」が勃発。鎌倉を守備していた足利直義(尊氏の弟・のちの観応の擾乱の主役)は防ぎきれずに敗走。敗走時に部下の淵部義博に命じて親王は暗殺された。親王はこの時28歳であった。

 明治2年(1869)2月。明治天皇は建武の中興に尽くされ非業の最期をとげた護良親王の遺徳を偲び、親王終焉の地であった東光寺跡に社殿創建を仰せられ、御自ら社号を「鎌倉宮」と名付けられ創建された。
 境内には摂社として、親王幽閉の際に身の回りの世話をし事の次第を宮中に奏上した時明院藤原保藤の娘であった南御方を祀る南方社と、吉野城陥落の際に親王の身代わりとなって戦死した村上義光を祀る村上社がある。また九ヶ月間幽閉されていた土牢や元明治天皇行在所であった宝物殿などがある。

鎌倉宮
官幣中社・鎌倉宮正面
鎌倉宮
鎌倉宮拝殿前
鎌倉宮
本殿
鎌倉宮
本殿
鎌倉宮
摂社・右が村上社、左が南方社
鎌倉宮
親王が幽閉されていたと伝えられる御土牢

 バスを使うというのも面白くないが、時間がないからしょうがない。鎌倉宮前で下車して、目の前には珍しい鳥居を目にする。白が基調だが一番上が何故か赤い鳥居。
 神社自体は明治期の建立でもあり、私のイメージとしても「近代風」な雰囲気から脱却することができない。
 拝殿脇から拝観料を払って土牢を見聞。予想よりも深くそして狭い。そして奧が見えないほどに暗い。実際にこの土牢に閉じこめられていたのかどうかは説話の世界であり定かではないが。
 前日の雨がわずかに残る濡れた空間のなか、真摯に手を合わせたくなるような、そんな気分にさせられてしまった。

 鎌倉宮からとぼとぼと歩く。200メートルぐらい西に歩くと荏柄天神社がある。べつに興味があるわけではないが、そこに神社があるので寄り道をする。


「荏柄天神社」(神奈川県鎌倉市二階堂鎮座・村社)

祭神:菅原道真公他四柱

平安末期の長治元年(1104)に雷雨と共に天満宮の画像が降臨し、里民は堀河院に奏上し、この地に社を建立し画像を納めたことにはじまるという。鎌倉地域の中でも、鎌倉幕府創立以前より鎮座していた古い部類に属する神社。
源頼朝の鎌倉幕府創建の際に、鬼門守護神として崇敬された。
明治六年村社列格。

荏柄天神社
荏柄天神社
荏柄天神社
荏柄天神社拝殿

 鎌倉の古社というだけあって、村社という格ではもったいない感じ。天満さんらしいというのかはわからないが、境内では近所の子どもたちが長閑に遊んでいた。平日の夕方、観光地鎌倉といえども日常の時間が流れていることを実感する。

 荏柄天神社から大倉山沿いに歩く。途中、怪しげで鬱蒼とした石段があり「伝大江広元の墓」とあった。ついつい、いつもながらに墓にいってしまう。いったところでどうにかなるわけではないのだが。



「白旗神社」(神奈川県鎌倉市雪ノ下鎮座・村社)

祭神:源頼朝

 白幡神社とも表記し、白旗名神とも称する。白旗神社は、源頼朝を祀っていた法華堂を明治5年(1872)に白旗神社に改め、雪下地区の氏神社としたもの。この地は、もともと大倉(=鎌倉幕府初期形態の大蔵幕府が成立した土地)と呼称されており、神社は大倉山の麓に鎮座。大倉山の中腹には源頼朝の墓や大江広元の墓がある。

白旗神社 白旗神社
源頼朝の墓 上:白旗神社

左:源頼朝の墓

 なんというか、不思議な神社。いや、神社は普通。ただ境内には白旗が乱立。源氏の白旗なのはわかるのだが、気が滅入ってくる。なんか意気をそがれるなあ。
 白旗神社前に石段が延びる。その上には源頼朝の墓。墓という味気なさと対面する。どうも私は頼朝のイメージがわかない。それゆえに、墓の前で「人物」を想起することがかなわなかった。



「鶴岡八幡宮」 (神奈川県鎌倉市雪の下鎮座・国幣中社・国重文)
朱印> 
再訪記事

祭神:応神天皇・比売神・神功皇后

 後冷泉天皇期の康平6年(1063)、源頼義が奥州を平定し鎌倉由比ヶ浜に源氏の氏神として今清水八幡宮を男山から勧進したことに始まる。
 後白河天皇期に源頼朝が鎌倉にはいると、現在地に遷座。現在の上下両宮のかたちに整えた。
 鎌倉幕府の崇敬が篤く関東守護・国家鎮護、そして全国の武家守護神として、鎌倉武士の精神をも支配するかの如き繁栄を誇る。
 現在の上宮社殿は文政11年(1828)に11代将軍徳川家斉が造営した江戸建築。下宮の若宮は二代将軍秀忠が修復したものであり両宮ともに国重要文化財指定。
 明治15年、県社から国幣中社に昇格。


由比若宮遙拝

境内末社・白旗神社

境内摂社・若宮社(下宮)

境内摂社・若宮社(下宮)

舞殿

楼門(たし工事中のため立ち入り禁止だった)

三の鳥居

二の鳥居と段葛

一の鳥居
一の鳥居からまっすぐには神社に行けません。
この一の鳥居は道路のまんなかにポツンとあるので。
歩道からまん中に道路の立ち入って、
一の鳥居をながめる私は、気狂いみたいだ(笑)
二の鳥居から先は
段葛の参道を歩いて神社まで行けます。

 私は鎌倉宮方面から歩いている。ほんらいの鶴岡八幡宮参拝順路としては邪道ではある。しかし、いまさら若宮大路(段葛)に出直すのも億劫だし意味もない。このまま東鳥居から参拝する。

 東側には「白旗神社」と「由比若宮遙拝所」がある。
 境内末社の「白旗神社」は白旗社(源頼朝)に柳営社(源実朝)を明治19年に合祀したもの。小田原城を開城させた秀吉が「天下の英雄は吾と君のみ」といって肩を叩いたとされる源頼朝木像を神体としている。
 由比若宮(=元八幡)は境外末社。白旗神社の前に、もともとの鶴岡八幡の鎮座地にある社を遙拝する場がもうけられている。

 その先には下宮「若宮社」がある。そして石段の上には上宮があるはずなのだが、なにやら様相がおかしい。上宮は修復工事中らしく大銀杏や楼門や本社に行くことがかなわないと瞬時に理解する。それと同時に、今回の鎌倉詣では瞬時に終わったことも把握。どうやら鶴岡八幡宮は出直しとならざるをえなかった。

 下宮摂社「若宮社」の祭神は仁徳天皇・履中天皇・磐之媛命・仲津媛命。寛永元年(1624)の修営。

 工事中は上宮の応神天皇・比売神・神功皇后も下宮に祀られているらしい。そうでなくては参拝の意義が薄れてしまう。もっとも祭神を気にして参拝する人間は少数ではあるが。

 中央に舞殿がある。上に昇れないから舞殿のまえで佇む程度。誤解している人もいるようだが、この舞殿で「静御前」が舞ったわけではない。若宮(下宮)回廊で舞ったわけであり、今の舞殿なわけではない。
 でも神社由緒には「舞殿・・・静御前が義経公を慕い、心をこめて、舞ったところで、下拝殿とも言います」などと書いてある。まるで「今この目の前」の舞殿で舞ったいたような記述である。

 とにかく私は興味が薄れた。正式な本殿に参拝できない仮殿な神社では悔しさが倍増。
 上宮本宮と今宮(後鳥羽・土御門・順徳天皇を祀る)、丸山稲荷神社(国重文、境内最古の建築物)、そして境外社の由比若宮(元八幡)などはまたの機会。
 どうせ又来ることが確定したし、日も陰ってきた。そろそろ駅に向かって若宮大路に引き返す頃だろう。
 三の鳥居、段葛、駅からの入口になっている二の鳥居。そして一の鳥居までわざわざ迂回しつつ。



<参考文献>
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
日本地名大辞典 14 神奈川県
神まうで・昭和14年・鐵道省




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