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「大坂の神社詣紀行・その3」
<平成15年3月4月参拝・平成15年8月記>

その1・目次/「大坂へ」「大鳥神社(和泉国一の宮)」「住吉大社(摂津一の宮)」

その2・目次/「阪堺電気軌道」「阿部野神社」「今宮戎神社」

その3・目次/「坐摩神社(摂津一の宮)」「生國魂神社」「高津宮」/附記「難波神社

その4・目次/「四条畷神社


「坐摩神社」(摂津一の宮・式内名神大社・いかすり神社・ざま神社)
朱印・大阪府大阪市中央区久太郎町鎮座>

祭神:
生井神(いくい)/福井神(さくい)/綱長井神(つながい)/波比岐神(はひき)/阿須波神(あすは)

*五柱の神々を総称して坐摩神という。坐摩神は神武天皇が即位されたときに宮中に奉斎されたのが起源とされる。坐摩(いかすり)とは諸説あるが土地又は居住地を守り給う意味での「居所知(いかしり)が転じたものという。
 祭神は神祇官西院にて坐摩巫に斎かれた神であり、朝廷の崇敬がきわめて篤かった。

由緒:
 当社の創建には諸説あるが、神功皇后が新羅よりご帰還の折、淀川南岸の大江、田蓑島(のちの渡辺の地=現在の天満橋の西方、石町付近=坐摩神社別宮あり)に奉祀されたのが始まりという。
 平安期の延喜式記載の式内大社。
 朱雀天皇期の天慶二年(939)以来、祈雨十社のうちの一社に列し、以後たびたび祈雨(雨乞い)のご祈請・奉幣に預かっている。中世期には住吉大社の末社であった時期もあったらしい。
 天正十年(1582)、豊臣秀吉の大坂築城に際し、替地を命ぜられ、寛永年間に現在地に移転。現在地を渡辺と称すのも、元の地名が移されたもので、全国の渡辺・渡部等の姓の発祥地ともいう。旧社地とされる石町には、現在坐摩神社の行宮が鎮座。
 明治元年(1868)の明治天皇大坂行幸の際には当社を御親拝され、相撲を天覧。昭和11年(1936)に官幣中社に列格し、その際に社殿を造営するも、戦災にて焼失。現在の社殿は昭和34年(1959)に鉄筋コンクリートにて復元されたもの。

<参考>神社由緒書・神社辞典・角川地名辞典

坐摩神社
坐摩神社正面
坐摩神社
ちなみにとなりは「大阪府神社庁」
坐摩神社
拝殿
坐摩神社
本殿
坐摩神社
境内社・陶器神社(左)
境内は官幣中社として考えると、狭いかな。
摂津一の宮ではあれど、こじんまり。
隣が神社庁なので、そちらが賑やか、ともいう。

 予約していたホテルにて荷物を下ろし、最寄りの地下鉄「谷町4丁目」から二駅先の「本町」駅で下車。高速道路高架下のような薄暗い空間を歩くこと3分ほど。
 神社らしからぬクリーム色の三輪鳥居が出迎えてくれる。正面はこぢんまりとしているが、清楚で静寂。境内はよく整備されており開放的な空間であった。「官幣中社・摂津一宮」という格高いイメージとはほど遠い神社。きっと神社外装も影響しているのだろうが。
 鳥居を抜け、手水をすまし拝殿にて排し、社務所で朱印を頂戴するという一連の流れをこなしてしまうと、相変わらずやることはなくなる。朱印を頂戴したときに気がついたが、この社務所は「大阪府神社庁」と兼用らしい。この環境が神職さんにとって幸いなのか災いなのかは定かではないが。

 今の私は4時頃までに「なんば」に行かなくてはいけないという時間的制約がある。ゆえに、ちょっとだけ慌て気味。今日の散策をもはや中止してもいいのだが、せっかくだからという貧乏性ゆえに回り道をしたいと思う。



「生國魂神社」(いくくにたま神社・官幣大社・式内名神大社・生国神社)
朱印・大阪府大阪市天王寺区生玉鎮座>

祭神:
生島神(いくしま神)
足島神(たるしま神)
相殿:大物主神

 祭神は神祇官西院にて生島巫によって祀られる神。歴代天皇が即位の際に祀る神として国家祭祀(八十島祭)の社。国土神霊として崇敬されてきた。

由緒:
 神武天皇が九州から難波津にお着きになられた際に、現在の大阪城付近に生島大神・足島大神を祀られたのが、当社の創祀とされている。そののち相殿に大物主神を祀っている。
 平安期の延喜式には「難波坐生國咲國魂神社」(二座)と記載され、御祭神は特別に生島巫によって祀られるなど、国家祭祀(八十島祭)の社として知られている。
 中世期には当社に隣接して「石山本願寺」が建立。元亀年間には信長の本能寺攻めにより延焼。その後、再興されるも秀吉の大阪築城によって天正11年(1585)に現在地に遷座したとされている。
 以来、当社は「難波大社」の尊称をもって広く崇敬され、明治期には官幣大社に列せられ、国土守護神・大坂総鎮守として篤く信仰されてきた。

 本殿社殿は「生國魂造」と呼ばれる独特の建築様式。本殿と幣殿は一つの流れ造りでふきおろし、正面屋根には千鳥破風・すがり唐破風、さらに千鳥破風の三破風をすえたものとなっている。
 社殿は明治45年、昭和20年に焼失し、さらには昭和25年の台風によって総檜素木造の本殿が倒壊。
 現在の社殿は昭和31年に鉄筋コンクリートによって建てられたもの。

<参考>神社由緒書・神社辞典・角川地名辞典

生国魂神社
生国魂神社
生国魂神社
生国魂神社
生国魂神社
生国魂神社
生国魂神社
城方向(きたむき)八幡宮
大阪城鬼門の守護神
生国魂神社
浄瑠璃神社(祭神:音律和調霊神・文楽先覚諸霊神)
なかなか面白い祭神ですね。
生国魂神社
鴫野神社
祭神は一寸島比売神・大宮賣神のほかに
淀姫神も祀られている

 相変わらず地下鉄「谷町9丁目」駅からはいあがる。大阪の地下鉄路線図は頭に入っていないので、それだけでも一苦労ではあった。もっとも東京の地下鉄はそれ以上に怪しげだが。
 開けた空間にドンッと鳥居がそえられ、その先には安定度抜群の拝殿がある。なぜだかクリーム色。さきほどの坐摩神社ともどもクリームに違和感を感じるが、拝殿だとそれでもさほどではない。それよりも許せないのは車祓い。例のごとく、拝殿前に扉という扉を開け放った車が鎮座し神職さんが車の周りを回って、それとともに所有者夫婦が拝礼して、というおごそかな儀式。動作が悠長で待つ身も疲れる。私としてはそんな車の前に突出して拝したくないし、かといって本社拝殿を無視して摂社巡りはしたくないし、朱印を頂戴すべき社務所は拝殿脇にあるようだし、致し方がないが鳥居の脇で人様の車祓いを見物するぐらいしか、さしあたっての用件はなかった。
 本殿がみたい。この生国魂神社の本殿は、神社建築上異色の建物。しかし拝殿がドンッと構えすぎて、本殿を伺うことができない。脇は本殿よりも低地になっており遠望も不可能。わずかながらに特殊系の屋根だけを望む。
 車祓いも終わり、ゆっくりと拝殿にて参拝。達筆な神職さんから見事な朱印をいただく。
 境内には由来をもつ摂末社が多い。境内奥の鴫野神社の脇には占い所までがある。この鴫野神社は淀君も深く信仰したという。さすがに女性のための社という気配が濃厚。

 まだ時間はある。地図をみてきになるところが一カ所。今いる場所から歩いてすぐのところに「高津宮」という神社がある。予備知識もないけれども「宮」がつく神社ゆえに歴史的な格がありそうなので散歩をしに行く。



「高津宮(高津神社)」(府社・こうづ宮)
<大阪府南区高津鎮座>

祭神:本座:
仁徳天皇

左座:
仲哀天皇/応神天皇/神功皇后

右座:
葦姫皇后/履中天皇

由緒:
 仁徳天皇の遺徳を偲んで、清和天皇の貞観8年(866)に橘良基が創建したという。天正11年(1582)に大阪築城にあたり、現在地に移転。当地は式内社・比売古曽神社の境内地であったが、この神社を地主神として摂社に奉斎されている。
 社殿は昭和20年3月に戦災焼失。昭和36年に復興。
 仁徳天皇が都を営んだ高津宮は当社地であるとされたが、現在では難波宮付近が有力。

<参考>神社由緒書・神社辞典・角川地名辞典

高津宮
高津宮正面
高津宮
拝殿
高津宮
本殿


高津宮
比売古曽神社(下照姫命)
延喜式内社。大阪築城により高津宮が当地に遷座すると
高津宮の地主大神として奉斎された。

 仁徳天皇の高津宮にちなむ神社らしいと境内入り口の看板で学習する。そんな由緒も知らないけれど、いきなり仁徳天皇期まで歴史的体感を感じるのも悪くはなかった。もっとものちに調べたところ鎮座由来の「高津宮」説には疑問符らしいが。
 おまけに境内には先ほどの「生国魂神社」よりも人が多く賑やか。何事だとおもいつつ歩みを進めると「サクラ」であった。どうやら桜鑑賞・宴会・花見な方々多数。完全にできあがっている。そんな境内をまじめに参拝しようとしている私が馬鹿みたいだ。酒盛りと屋台と子供たちを尻目に参拝をすませて境内を散策していると「延喜式内社」を発見する。由緒も由来も知らないけれども、延喜式内社が境内社として普通に存在しているところが、「機内の神社」らしくて面白い。もっとも式内社巡りをしている場合だと、境内社まで押さえるのは大変だろうが、生憎というか幸いというか私にはそこまでの熱意と根気と知識はなく、やみくもに有名神社を散策しているだけではあるが。

 高津宮をあとにして、地下鉄に乗り込む。今度こそ行き先は「なんば」であった。もっとも俗の世界に戻るわけで、本来の大阪遠征の大目的であるライブに参加。コンサート会場でまったりとしていると、いつものファンサイトでお世話になっている、いつものメンツをみかける。彼らは関東から「うどん」を食べに四国に渡り、大阪にやってきたという大げさな面々。
 ライブはライブ。そんなことはここに記載することではない。終了後、ファンサイトの面々と「お好み焼き」を食して、「宿はどこです?」という流れ。驚いたことに4名とも同じだった。しめしあわせたわけではないけれども、同じ宿を予約していたというおもしろさ。大阪でネットが使い放題で、ネット予約ができる安い宿という選択肢までもが同じであった。さすがにネットで知り合った面々である。

 ただどのみち余事である。余事は余事として、ひとまずは次の項に進もうかと思う。


「大阪の神社詣紀行・その4」へ


附記/平成15年11月参拝


難波神社(府社)
<大阪府大阪市中央区博労町鎮座>
祭神:仁徳天皇
配祀;素戔嗚尊

由緒
第18代反正天皇が河内に遷都された際に、父帝仁徳を御祭神として河内国内に創建したことがはじまりという。
天慶6年(943)朱雀天皇の頃に天王寺付近に遷座し難波大宮と称され摂津国総社とされる。。
正親町天皇の頃、豊臣秀吉の建長二年(1597)に当地に遷座し難波宮と称される。
明治8年に難波神社と改称し明治14年府社列格。
昭和20年3月14日の大阪大空襲によって全焼し昭和49年に社殿再建。


難波神社

難波神社

大阪に行く用事があった。実はこの時もライブだったりするのだが。
目的のほどちかくに神社があることがわかっていた。そもそも坐摩神社に行ったときからこの神社の名前は聞いていた。なんとなく気になっていたので、もう夕方だったけど寄り道ついでに立ち寄ってみた。

もう日も暮れかかっているので、普通に参拝して、あっという間に用事は終わり。私の立場はこのあともやっぱりライブだったので、ささやかながらに成功を祈願しつつ。


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