「大坂の神社詣紀行・その4」
<平成15年3月4月参拝・平成15年8月記>
その1・目次/「大坂へ」「大鳥神社(和泉国一の宮)」「住吉大社(摂津一の宮)」
その2・目次/「阪堺電気軌道」「阿部野神社」「今宮戎神社」
その3・目次/「坐摩神社(摂津一の宮)」「生國魂神社」「高津宮」
その4・目次/「四条畷神社」「楠正行御墓所」
大阪の宿に一泊する。翌日、早朝から出発する予定が前日に出逢った予定外の知り合いと同じ宿ということもあってまったりとバイキング朝食を食してしまう。腹一杯に食したために、精神的におかげでスタートがおくれるが、悠久の流れの中では些事である。
私もすこしはゆっくりと散策をしたほうがよいのだろう。行き先はとくに決めていなかったが、次の宿を「近江国大津」に予約してある。つまり京都経由して散策できればそれでよいのであった。なんとなくそのまま京都に上京するのではおもしろくない。
ちょっとだけ寄り道しようかと思った。しかしその選択がどうやら間違っていたらしい。電車に揺られつつ、だんだんと山が近づく気配を感じ、時間的距離を体感し始める。そんな雰囲気に行き先選択を間違ったかもなあ、と感じつつ駅からおりたところが「四条畷駅」。
四条畷という言霊だけで、歴史的趣味者はあることを連想するであろう。前日の「阿部野神社」に引き続いての「太平記」な世界の方向を考えていたらどうしても行きたくなってしまったのである。そういう意味では私はかなり単純なイメージで行動している。
朝9時ごろに四条畷駅に到着。生駒山地の麓たる街は大阪中心部から移動して来た人間にとっては隨分遠くまできたなあ、という感覚にとれわれる。
15分ほど歩く。駅から100メートルほど北上すると一本の道とまじわる。右に行くと飯盛山と四条畷駅。左に行くと楠正行墓がある。とにかくまずは四条畷神社に向けて歩みを進めようかと思う。
「四条畷神社」(別格官幣社・小楠公社)
<朱印・大阪市四条畷市南野鎮座>
主祭神:楠正行公(くすのきまさつら・楠正成の長男・楠木正行)
配祀神:楠正時公以下24柱
明治維新に際し、地元の住吉平田神社の神職であった三牧文吾らが小楠公殉死の地に神社創建を願出。明治22年に勅許がくだり、四条畷神社の社号と別格官幣社に列格された。明治23年4月に社殿完成、御鎮座。
楠正行を主祭神とし、弟の楠正時、和田賢秀ら受難将士を配祀神とする。
四条畷神社は飯盛山(標高314メートル、南北に500メートルにわたる平坦な山頂を持つ)の西腹にある。飯盛山麓を南北に貫く東高野街道(170号線)は京都から大阪・高野山吉野方面を結ぶ交通の要所であり、金剛山脈内で西に突出する飯盛山は戦略要地であった。(余事ながら戦国期に畿内を支配した三好長慶の居城もこの飯盛山城にあった。おまけにその時気が付かずに、今執筆中に気が付いた)
楠一族の説話は数多く、正行に関しても多々あるが・・・。
父である楠正成が手勢を引き連れて湊川に出陣する(延元元年1336年)際に、11歳の正行をさとし「父の死後は足利の天下になるだろうが、お前はどこまでも陛下をお護りせよ。それが父への孝行となるのだ」という旨をわが子に伝えた世にいう「桜井の別れ」が有名。
湊川で砕け散った楠正成の首が足利尊氏から楠家に届けられ、首を前にして後を追って自害しようとした楠正行に「父の遺訓を忘れたか」とさとし、奮起させ、南朝を支える忠臣として育て上げた賢母。
境内に「御妣神社」(みおやじんじゃ)として正行公御母堂が祀られている。
楠正行らが摂津で優勢を誇り足利勢は藤井寺・住吉にて連敗していたころ。(北畠顕家の阿部野神社を彷彿させる展開・・・)
業を煮やした足利尊氏は信頼する高師直・師泰兄弟に精鋭8万の大軍を与え出陣させる。
大軍の出陣をしった楠正行は自らの死を覚悟し、吉野へ参宮。後村上天皇に「死を決した大決戦を致します。思い出に陛下の御尊顔を拝してから参りとうございます」旨を申し上げると、後村上天皇は「御前を手足のごとく思い頼っているのだから決して無理はしないように」と仰せられた。
後村上天皇の御言葉に感泣して退出した正行は先帝後醍醐の御陵に拝し、次いで如意輪堂に一族143名を集めて
かえらじと かねて思へば あずさ弓
なき数に入る 名をぞとどむる
の辞世の歌を残して出陣なされた。(飯盛山山頂にこの姿の像有り)
正平3年(1348)正月5日、3000の兵を率いる楠正行は一挙に北進し、深野池東の野崎に陣を構える高師直を強襲。先陣を打ち破る。師直に迫ったが替え玉に欺かれて取り逃がし、遂には多勢に無勢、行き場を失う。後方との連絡もたたれて深野池の東北、葦の原っぱのなかで弟の正時と差し違えて殉節なされた。この時、正行は23歳であった。正行に従っていた将兵も腹をかききって息絶えたために、この地を後世「ハラキリ」と呼んでいる。
和田賢秀は楠正行の従兄弟。小楠公正行討ち死に後も敵にまぎれて高師直の首を取ろうとせまるが、寸前のところで敵に見つかり背後から斬りかかられて絶命。四条畷神社と小楠公墓地を結ぶ道路に交差する東高野街道に面した地に「殉節地」が残っている。
<参考>神社由緒書・神社辞典・角川地名辞典・神まうで・他
東高野街道との交差点 |
飯盛山・四条畷神社付近遠望 |
境内入口 |
楠正行ゆかりの四条畷神社
飯盛山山麓に佇む別格官幣社 |
拝殿前 |
拝殿 |
本殿 |
御妣神社 |
四条畷の駅から緩やかな坂道を登る。実は大荷物を抱えたまま(コインロッカーを使うのも面倒だったから)、活動しているからかなり荷物が身体にこたえる。1キロほどの直線だが、坂道のおかげでかなりバテぎみ。15分ほどで神社下に到着。石段の上に待っているものが楽しみで、疲れを忘れて足をすすめる。
四条畷神社境内。石段の上は予想以上に広い空間が広がっていた。朝9時すぎでも境内は人の気配がない静けさ。ただ神職の方々が集まって掃除をしている。拝殿は明治期の神社らしい精練とした造り。拝殿比べて本殿ははるかに小さかった。
掃除中の神職さんの手をとめて朱印を頂戴する。はっきりとした安定感のある朱印は美しく、なによりも「菊水」の存在感が嬉しかった。
四条畷神社から、飯盛山にも登りたくなってくる。しかしそんな時間的余裕はない。ただ飯盛山には式内社(御机神社)もある。ちょっとだけ迷ってしまった。迷ったけれども、疲れたので戻る。まっすぐ歩くと「正行御墓」がある。ちょうど神社の突き当たりにあるというのも、街の雰囲気の良さを感じる。
「小楠公御墓所」
四条畷神社参道からまっすぐに歩くこと1キロ。突き当たりに御墓所がある。楠正行が高師直の大軍と戦い、戦死し祀られた場所。そののち「南無権現」と書かれた小碑が建てられていた。100年ほど(82年後とも、戦死後すぐともいう)のちに何なにびとかが二本の楠を植えたが、そののち二本合し石碑を挟み込むように育ち、現在の大木となった。(樹齡約550年)
明治10年、明治天皇が勅使をもって金幣を賜り、御墓所拡張。大久保利通の筆による高さ6.5キロの大石碑も建立された。
余事ながら小楠公の首塚は京都嵯峨の宝筐院にある。足利義詮(室町二代将軍)は楠正行を尊敬し、遺言によって足利義詮墓は小楠公首塚のとなりに並んでいる。
御墓所入口 |
御墓所 |
楠正行公御墓の二本楠 |
大久保利通筆の碑 |
予想よりも大きかった。もっとこじんまりとしているかな、と思っていたが、あるで神社境内のような気配。楠の巨木が正行公の御霊をなぐさめるかのようにいきいきと大空に枝を広げていた。
四条畷という地名的イメージが私につきまとっていた。太平記で一杯だった。それゆえに「飯盛山」と聞いてもなにもイメージが湧かなかったのは我ながら恥しい。すくなくとも飯盛山で三好長慶ぐらいは思い出すべきだった。さすれば、この山に対するみかたもかわっただろうに。
ただ眠い目をこすりながら「JR片町線」にゆられて京都を目指す私がそこにいた。四条畷の神社で満足し、帰るという段階でははすべての思考が京都にとらわれていた。今にしてもったいないな、という感想。
ただ、それだけ京都の存在が大きいともいえる。それを目の前のエサにつられては、それ以外の歴史的価値観がちっぽけなものとならざるをえなかった。このあとに京都巡りがあるかと思うと私の心もはやる。京都の魅力にはなにものであれどもかなわなかった。京都での特別な予定はないし、とにかく山城国一の宮な「上賀茂下鴨」に行つもり。
さしあたっては「大阪の神社詣で紀行」はおしまいです。
参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
日本地名大辞典 27 大阪府 角川書店
神まうで・昭和14年・鐵道省
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