倭建命の熊曾・出雲討伐
景行天皇に、熊曾建(くまそたける・熊曾は西の辺境)の兄弟を討伐するように命じられた小碓命(おうすのみこ・倭建命・このとき16歳という)は、斎宮として伊勢大神宮を祭っていた叔母の倭比売命(やまとひめのみこと・前述)を訪問し倭比売命の衣装を頂戴し、剣を懐に入れて出立した。
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建(たける)という名は勇士・勇猛な人物に与えられる名。つまり熊曾建は熊曽地域の猛者という意。同様に倭建命は倭の猛者の意。
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倭比売命の衣装を借りることは伊勢の神の霊威を借りたことを意味する
熊曾建の家についてみると、その家の周りは軍勢が取り巻き、熊曾建は新しい室が完成した祝宴をひらく準備をしていた。そこで小碓命は祝宴の日を待つこととした。
祝宴の日に小碓命は髪を少女のように垂らし、倭比売命の衣装を身につけ、すっかり美しい姿となって女達に紛れて祝宴にまぎれこんだ。すると熊曾建の兄弟は、その乙女を見て大いに気に入り、自分たちの側に座らせて祝宴を楽しんだ。
宴もたけなわの時になって、小碓命はふところから剣を取り出し、熊曾の兄建の衣の襟を掴み、剣を胸から刺し通してしまった。それをみた熊曾の弟建(おとたける・弟の建の意味)は恐れをなして逃げだそうとした。小碓命はすぐさまこれを追いかけ、その背中をつかんで剣を刺し通した。すると熊曾の弟建は「わたしはあなたに申し上げたいことがあります」と言うので小碓命はしばし待つことにした。熊曾の弟建は「あなたはどなたでいらっしゃいますか」と申すと、小碓命は「私は大八島国を治めている大帯日子淤斯呂和気天皇(景行天皇)の御子、名は倭男具那王(小碓命の別名)である。天皇はお前等、熊曾建の兄弟が服従せず秩序を乱していると聞き。お前等を討ち取れと仰せになり、私を遣わしたのだ」と仰せられた。熊曾の弟建は「西の方には私たち兄弟以上に強い者はいません。ところが大和には私たち以上に強い者がいらっしゃった。だから私はあなたさまにお名前をさし上げましょう。今から倭建御子(やまとたけるのみこ)と名乗られるのがよいでしょう。」と申した。申し終えると弟建の体を切り裂いて熊曾建を殺した。それでこのときから、名をたたえて倭建命というようになった。
そうして帰る途中に、山の神・川の神・穴戸の神(海峡の神)を平定した。(九州の平定)
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以後は倭建命(ヤマトタケル)と表記する
倭建命はそのまま出雲に入られ、出雲建(いずもたける)を討伐しようと思い、土地の者と親交を結んだ。
そしてこっそりと偽物の太刀を制作し、出雲建と肥河で水浴びをすることにした。倭建命は先に川から上がり、出雲建の太刀を身につけ、「太刀を交換しよう」と仰せられた。そして出雲建も川から上がり、倭建命の偽物の太刀を身につけた。そこで倭建命は「太刀あわせをしよう」と仰せられ、お互いに太刀を抜こうとしたが出雲建が身につけた太刀は偽物の為に抜くことが出来ず、倭建命はすぐさま太刀で出雲建を打ち殺してしまった。
倭建命が歌う
やつめさす 出雲建が 佩ける太刀 黒葛多纏き(つづらさはまき) さ身無しにあはれ
(出雲建が腰につけていた太刀は、その鞘に葛をたくさん巻いて飾りは立派だが、刀身がなくて ああおかしい)
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この偽物の太刀を仕込むという策略は『書記』の崇神天皇の頃、出雲振根(いずもふるね・出雲臣)が弟である飯入根(いいいりね)を打ち殺した策略と同様。
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書記には出雲にたちよる話はない
このように服従しない者どもを平定した倭建命は天皇のもとに戻ったが、すぐさま東国平定の命を授かることになる。
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書記では弓の名手とされる美濃の弟彦公(おとひこのきみ)とその配下である石占の横立(よこたち)と、尾張の田子稲置(たごのいなき)・乳近稲置(ちちかのいなき)が日本武尊(ヤマトタケル)に従って出発している。
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書記では熊曾の首長は川上梟帥(かわかみたける)とされる。
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書記では帰途に吉備の穴海の悪神と難波の柏済(かしわのわたり)の悪神を討伐され、水陸の安全を確保したと復命している。
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