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「熊野三宮巡拝記・その1」
<平成17年2月参拝>

目次
その1・那智大社編 「熊野へ」/「那智大社」/「飛瀧神社


その2.花の窟神社編 「新宮−有井」/「花の窟神社」
その3.速玉大社編 「新宮へ」/「熊野速玉大社」/「神倉神社」/「阿須賀神社」/「新宮城趾」
その4.本宮大社編
その5.中辺路・闘鶏神社編

熊野の朱印ページはこちらから


「熊野へ」

いろいろあって私は熊野を目指していた。目指し方も独特であり、大がかりなもの。本来「熊野詣で」をおこなうのであれば上皇よろしく京都大阪方面から紀伊田辺に南下し、そこから「中辺路」を経由して本宮、そして那智に新宮を目指すのがただしいのかもしれない。しかし私は関東人ある。関東人たる私は名古屋に用事があった。それゆえに名古屋から伊勢方面を経由して新宮にはいるという。熊野詣でからすれば裏口的なルートを選択せざるを得なかった、
もっとも江戸期の感覚で言えば伊勢詣で、ちょっとがんばって足を伸ばして熊野詣でであれば伊勢を経由するのも間違ってはいない。

そんなわけで私は熱田神宮を参拝し、四日市に宿泊。さらに南下して伊勢神宮内宮・外宮を参拝して、夜半に新宮にたどり着くといういささか大がかりな旅行をすることになった。ちなみに新宮には二泊する。さすがに熊野三山を一日で回るのは慌ただしすぎて「観光バス」でもつかわないかぎり時間的に難しい。初日に那智と速玉。翌日に新宮から本宮を経由して紀伊田辺に抜けるのが時間的旅程的にもベストであった。

新宮の夜。翌日からいよいよ熊野詣でをするというのに、困ったことに計画がゼロであった。最近の私の悪い癖で、スケジュールをたてなく、いきあたりばったりで旅行するという術ゆえに、明日の計画を今晩中に練らねばならなかった。
さすがにバス接続までは無計画ではしんどいので。
ところが、どうにもうまくいかない。私の手元にはJR周遊きっぷ「南紀白浜ゾーン券」があるため新宮〜紀伊勝浦〜白浜〜紀伊田辺間のJRと本宮経由のバスが乗り放題になっている。乗り放題であれど、乗りたい時間に電車が走っていないのではしょうがない。
どうにもならないのを、どうにか調整するのが時刻表マニア。とりあえず、これ以上はないだろうというバスと電車の接続を考え出して、明日に備えて就寝する。接続の妙技はあまり自慢しない方がよいのだ。


7時52分に新宮を出発し、那智勝浦着が8時14分。
そして那智勝浦駅前バス停。8時25分。
となりの「熊野三山巡り」定期観光バスに乗る人間は多数いるが、路線バス「那智大社(神社お寺行き)行き」にのるのは私一人。出発して降りるまで私一人。なにやら申し訳ないような感じだけれども「大門坂」停留所で下車する。熊野詣でをするにあたり多少の下調べはしてきた。時間がないけど熊野古道を歩きたい人向けにうってつけなのが「大門坂」。ここから熊野那智大社まで、熊野古道がささやかではあるがつながっているために、私は情緒を楽しむために歩くことにする。
ちなみにバス停を降りた時間は8時47分。

熊野古道
熊野古道・大門坂入口。「日本の道100選」
熊野古道
この付近は新宮藩の関所があった。那智まで1.2キロ
熊野古道
夫婦杉。樹齢約800年。この先に古道が続く。
熊野古道
熊野古道。大クス。樹齢約800年
熊野古道
熊野古道、参詣中辺路の最後の王子
「多富気王子跡」
明治十年に那智大社に合祀され大門坂に跡地が残る

大門坂は「日本の道100選」。
約200本の杉の並木道となっている。
石段は267段。約1.2キロのみちのり。
熊野古道
熊野古道。大門坂。

もう入口から「熊野行古道」の気配が濃厚で、歩き始める前から「バスを降りて正解だったな」とマジマジと思う。まったく誰もいない古道を一人黙々と歩く。贅沢すぎる時間のなかで、この情緒を満喫する。
茶屋がある。大門坂の情緒をさらに楽しむために、平安装束等の衣装のレンタルをおこなっているようだ。なるほどなあ、と感じる。たしかに贅沢だ。なんにも意味がないようだけど、意味を考える以前に、うらやましいなと感じるシチュエーション。さすがに男一人なので、そんなシチュエーションを楽しむ権利は有していない。
意外とリアルだった。たいしたことないだろうと歩いていた大門坂であれど、なかなか馬鹿には出来ず本格的に山道の古道であって両脇にそそり立つ古木が圧倒的に並んでいるその真ん中を、ちっぽけな私がとぼとぼと歩いていく。
那智大社の鳥居まで到着したのは9時15分。大門坂を30分ほど歩いていたことになる。



「熊野那智大社」(日本第一霊験所根本熊野三所権現・国重要文化財・世界遺産)
(官幣中社・熊野大社・熊野三所権現・熊野(ゆや)権現・熊野十三所権現・熊野三山の一つ)
<和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦町那智山鎮座・朱印

祭神
第一殿<滝宮>大己貴命(大国主神)
第二殿<証誠殿>家都御子神(けつみこの大神・素戔嗚尊)
第三殿<中御前>御子速玉神(みこのはやたまの大神・伊弉諾尊)
第四殿<西御前>熊野夫須美神(くまのふすみの大神・伊弉冉尊)
第五殿<若宮>天照大神
第六殿<八社宮>天神地祇八神

*神社辞典参考
第一殿<滝宮>・・・大己貴命(千手観音)、飛龍(ひろう)権現遙拝殿
第二殿<証誠殿>・・・家都御子大神(けつみこの大神・国常立尊・阿弥陀)
第三殿<中御前>・・・御子速玉大神(みこのはやたまの大神・伊弉諾尊・薬師)
第四殿<西御前>・・・熊野夫須美大神(くまのふすみの大神・伊弉冉尊・千手観音)

第二殿から第四殿が主祭神

第五殿<若宮(若一王子宮)>・・・天照大神(十一面観音)
第六殿(上下八社殿)
<禅師宮>・・・忍穂耳尊(地蔵)
<聖宮>・・・瓊瓊杵尊(竜樹)
<児宮>・・・彦火火出見尊(如意輪観音)
<子守宮>・・・鵜ガヤ草葺不合命(聖観音)
<一万宮>・・・国狭槌尊(文殊)
<十万宮>・・・豊斟淳尊(普賢)
<勧進十五所>・・・泥土煮尊(釈迦)
<飛行夜叉>・・・大戸之道尊(不動)
<米持金剛>・・・面足尊(多聞天)

由緒
紀伊半島南東部を古来より熊野と呼称し、神々の住まう尊なる土地であった。JR那智勝浦駅ほどちかくの「浜の宮(大神社=渚の宮)・補陀洛山寺」に神武天皇が上陸をされたとされている。
那智社は神武天皇が那智大滝を祀ったことに始まるともいわれており、その原始信仰の古さを感じることが出来る。
熊野三山の一社であれど、当社はほかの二社とは創立を異としている。那智山中の大滝をその信仰対象としており、飛龍権現として崇敬されてきた。
仁徳天皇五年に那智大滝より現在地に遷座。
はやくから修験道場としてしられており、役小角は当地を第一の霊場としている。

社殿は天正九年(1581)の織田信長の兵火によって焼失。豊臣秀吉が再建し、嘉永四年(1851)以降に大改修がおこなわれたもの。
東西に並んだ第一殿から第五殿。第五殿の南に並ぶ第六殿と御縣彦神社からなる社殿。各社殿は瑞垣で仕切られており、鈴門が設けられている。
第一殿から第六殿は嘉永四年から七年の建立(1854)。御縣彦神社は慶応三年(1867)の建立。
社殿規模は大きく、なおかつ彫刻をもちいない社殿であり、三山の社殿のなかでも最も古式の熊野形式を伝えている社殿とされる。
平成七年に重要文化財指定。平成十六年に世界遺産登録。

隣接する青岸渡寺も同じく信長の兵火で焼失しているが、豊臣秀吉が弟秀長に命じて天正十八年(1590)に再建したもので、国重要文化財。
境内には、平重盛が手植したといわれる大クスや後白河法皇お手植えの枝垂桜などがある。天然記念物「那智原始林」、国名勝「那智大滝」も当社の所有である。

熊野三山の「本宮」「速玉」は延喜式内に列格しているが、当社は列格してない。列格しなかった理由としては当時は社殿が造立されておらず大滝信仰であったとも、仏教的な色が強かったためともいわれている。。
明治六年に県社列格。大正十年官幣中社昇格。

熊野那智大社
熊野那智大社
熊野那智大社
児宮・多富気王子神社。前述の合祀神社
熊野那智大社
熊野那智大社
熊野那智大社
拝殿
熊野那智大社
拝殿
熊野那智大社
拝殿と大クス木(平重盛手植え)
熊野那智大社
本殿。第一殿から第五殿が横一列に並ぶ<国重文>
熊野那智大社
第六殿と御縣彦神社(ヤタガラス)は
第五殿の南に位置する<国重文>
熊野那智大社
那智大社に隣接して青岸渡寺
熊野那智大社
青岸渡寺<国重要文化財>
熊野那智大社
飛瀧神社・那智御瀧の遙拝所

礎石は往古の建物跡。鎌倉積みの石段が残る。
熊野那智大社
那智大社と飛瀧神社を結ぶ参道

熊野那智大社がちかくになると、俗な世界に戻ってくる。大型観光バスがはき出した「ツアー一行」があちこちに群れており、ザワザワと騒がしい。そんななかで那智大社を詣でるも、ここで勉強をする。「観光バス」の彼らは時間的な制約がある。私は紀伊勝浦の電車の時間を逆算するとかなりゆとりがある。それゆえに、彼かが慌ただしくやってきたときは我慢していれば、制約的にすぐにいなくなる。
結局のところ彼らを回避すれば、どこもかしこも閑静で静寂な気配を楽しむことが出来る。現にあれほど人にあふれていた那智大社もちょっとすればあっという間に人がいなくなる。神社の方々もそれがわかっているようで、そんな波の狭間に境内を整えている。もっとも私がいるのだが。

那智大社で朱印を頂く。ついつい朱印帳の刺繍に目を奪われて「朱印帳と朱印」を頂く。どうやら那智三社すべての「朱印」はもちろんのこと、「朱印帳」まで収集するはめになりそうだ。
那智大社から旧参道を歩く。これまた誰もいない小道。どうにも贅沢だ。観光バスで巡っている彼らには「この贅沢」を味わうことが出来ないのだから同情する。せっかく熊野まできて、バスで巡っているのでは熊野詣でも価値が半減する。中辺路古道を紀伊田辺から本宮まで歩くといった本格的な巡礼に比べれば、私のように電車とバスを利用する選択肢も価値は減っているが、それでも多少なりとも古道を歩こうという気分でいるのだから、観光バスで巡らされるのとは価値が違う。



熊野那智大社摂社別宮「飛瀧神社」朱印

祭神:大己貴命

那智大社から杉並木に覆われた鎌倉敷きの旧参道を歩くと「飛瀧神社」に到着する。

神武天皇が熊野灘から那智の海岸(浜の宮)に上陸したさいに、一条の光が軍勢を那智山に導いたという。その光の出所を探ると、瀑布の瀧壺深くに沈んでいったために、天皇は奇瑞に感じ入って当地に大己貴命を鎮座させ、瀧を御神体として祀ったことに始まるという。
その後、神仏習合によって役小角が修験道第一霊場に定め、千手観音を本地仏としたことから、飛瀧権現と呼称。花山法皇や文覚の瀧籠は特に有名。
当社は熊野那智大社の別宮。本殿はなく、瀧の前方に配所を設けている。

那智の大滝は四十八本の瀧の総称であるが、一般には「一ノ滝」を那智大滝と呼称。高さ133メートル、幅十三メートル、瀧壺深さは10メートル。第一等の名瀑である。

飛瀧神社
青岸渡寺三重塔と那智大瀧
飛瀧神社
飛瀧神社入り口
飛瀧神社
飛瀧神社
飛瀧神社
飛瀧神社遙拝所
飛瀧神社
祈願所
那智大瀧祭神:大己貴命
那智大瀧本地仏:観世音菩薩
山伏修験開祖;役小角行者
大瀧守護:不動明王

御瀧行者:花山法皇・弘法大師・伝教大師・一遍上人・文覚上人
飛瀧神社
那智大瀧

飛瀧神社。10時10分。那智大社に約1時間いたことになる。
こういってもほとんどの人がわからないだろう。多くの人は「那智の瀧」を見に来ているわけであって、瀧をご神体とする神社は、関係ないのかもしれない。例のごとく観光バスが来ているが、すぐにいなくなる。瀧を長々と眺めていたら、いつの間にかやっぱり私は一人だけの空間で「那智の瀧」と対座していた。何を語るでもないが、水の奏でる一定の空間のなかで、心を落ち着け、大自然の巨大さと凄まじさを実感する。

10時56分。お滝前のバス停。
飛瀧神社前からバスに乗り込んで紀伊勝浦駅まで戻る。この先の接続が苦心作で絶妙のできであるが特急にて新宮に戻る。
バスは11時20分に那智勝浦駅に到着し、11時36分の那智勝浦発新宮行きの電車に乗り込む。ちなみにこの次の新宮行き電車は12時32分なので、まさに1時間一本の電車。なかなか行動をするのが大変なのだ。

新宮着が11時51分。この続きはページを改めて・・・。


参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)
郷土資料事典・30・和歌山(人文社)




熊野・花の窟神社へ


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