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「熊野三宮巡拝記・その3」
<平成17年2月参拝>

目次
その1・那智大社編 「熊野へ」/「那智大社」/「飛瀧神社」
その2.花の窟神社編 「新宮−有井」/「花の窟神社」

その3.速玉大社編 「新宮へ」/「熊野速玉大社」/「神倉神社」/「阿須賀神社」/「新宮城趾

その4.本宮大社編
その5.中辺路・闘鶏神社編

熊野の朱印ページはこちらから


「新宮へ」
花の窟神社からバスに乗り込む。
時間は14時37分。昼過ぎのまどろみはいやでも私を眠気の世界へと誘い込むが、せっかくの熊野灘をのぞむ沿線風景を寝ていてはもったいない。限りない太平洋であれど、ぼーっとながめる。
「港のある日本一小さな村」とされる鵜殿村を抜け、熊野川をわたれば、もう新宮。熊野川を渡ってすぐのバス停(権現前)で降りれば「速玉大社」も目の前。
到着時間は15時25分だった。

実は「花の窟神社」に訪れる前に「熊野阿須賀神社」を訪れている。時系列的には「熊野阿須賀神社」「速玉大社」「神倉神社」の順番にはなるが、文章的には「バスが新宮の速玉大社前」についたので、そのまま「速玉」を記してから、順次掲載しようと思う。



「熊野速玉大社」(日本第一霊験所・全国熊野神社総本社・熊野権現)
(官幣大社・式内名神大社・速玉神社・熊野新宮)
<和歌山県新宮市新宮鎮座・朱印

主祭神・・・熊野速玉大神(伊弉諾尊)

第一殿<結宮>熊野結大神(伊弉冉尊)
第二殿<速玉宮>熊野速玉大神(伊弉諾尊)
 
第三殿<証誠殿>家津美御子命(国常立命)
第四殿<若宮>天照大神
第五殿<神倉宮>高倉下命

   上記三殿を「上三殿」

*神社辞典参考
主神
第二殿<速玉宮(中御前)>熊野速玉大神(速玉明神・伊弉諾尊・薬師如来)

相殿
第一殿<結宮(西御前)>熊野夫須美大神(くまのふすみの大神・伊弉冉尊・千手観音)
第三殿<証誠殿>家都御子大神(けつみこの大神・国常立尊・阿弥陀如来)・・・須佐之男神も有
第四殿<若宮(若一王子宮)>天照大神(十一面観音)

   一、三、四殿を「上三殿」。

第五殿<禅師宮>・・・天忍穂耳尊(地蔵)
第六殿<聖宮>・・・瓊瓊杵尊(竜樹)
第七殿<児宮>・・・彦火火出見尊(如意輪観音)
第八殿<子守宮>・・・鵜ガヤ草葺不合命(聖観音)

   五、六、七、八殿を一棟に祀る「中四社」

第九殿<一万宮>・・・国狭槌尊(文殊)
第九殿<十万宮>・・・豊斟淳尊(普賢)
第十殿<勧進宮>・・・泥土煮尊(釈迦)
第十一殿<飛行夜叉宮>・・・大戸之道尊(不動)
第十二殿<米持宮>・・・面足尊(多聞天)

   九十、十一、十二殿を一棟に祀る「下四社」
   中四社、下四社を合わせて「八社殿」


由緒
創建年代は明かでないが、神社社殿建立は景行天皇58年の創建とされている。
熊野信仰の原点として神々の時代に「神倉山」の霊石ゴトビキ岩(天ノ磐楯)を御神体とする自然崇拝を源として、この天ノ磐楯に御降臨された熊野三神(熊野速玉大神・熊野夫須美大神・家都御子大神)を祀ったのにはじまる。神倉山から熊野新宮の東にある阿須賀神社の近くに祀られ、そののちに家都御子大神は熊野川をさかのぼって本宮の地に降臨、速玉大神は現在地にまつられたという。
「神倉」「阿須賀」から、新たに祀った故に「新宮」とも呼称。一説に本宮に対する新宮ともされる。

延喜式では本宮と共に名神大社列格。平安期以降に「熊野詣で」の隆盛とともに崇敬されるが、戦国期に新宮の堀内氏が羽柴秀吉に反抗して一時社領没収とされる。しかし江戸期に復興。
明治四年県社列格。明治十六年に大火災、明治二十二年に大洪水。現在の社殿は明治二十七年以降の再建。大正四年官幣大社昇格。
たびたびの災禍にあっているが、社宝等は全国トップクラスを誇っており、「熊野神宝館」には国宝・重文多数が納められている。古神宝約1000点が国宝指定。

社殿配列は神門正面に「鈴門」
斜め左に「拝殿」
拝殿後方の社殿は左から「結殿」「速玉殿」
その左に「証誠殿」「若宮」「神倉宮」「中四社」「下四社」の配地


「熊野速玉大社」正面

御神木「ナギの木」
平重盛手植えという。樹齢1000年

境内社
左:鑰宮・手力男神社(式内社・天手力男神社)
右:八咫烏神社

神門
奧が鈴門

拝殿

拝殿
左から「結殿」「速玉殿」「上三殿」

左から「上三殿」(鈴門左三つ)「中四社」「下四社」(右端)

境内右から
「上四社」「速玉殿」「結殿」。拝殿

熊野速玉社。新宮駅からは徒歩15分ほど離れている。私はバス停利用だったために徒歩3分で到着ではある。
私の到着時間は15時30分頃。そろそろ夕方モードに突入であり、神宝館も4時まででこの時間に入館しても半端で口惜しいので、すんなりと諦める。また機会があるはずだから。
私の目の前を団体さんの一行が通過する。どうやら観光バスのタイミングと重なったらしい。私は、まあ関係ない。彼ら団体さんがまとまって拝殿前で神職の話に耳を傾けている間に、御朱印と牛王神符を頂戴する。
手持ちの「那智大社」の御朱印帳を広げようとして、「速玉大社」の御朱印帳に目を奪われる。思わず、「この御朱印帳も頂けますか」と。
現時点で旅先なのに御朱印帳を4冊抱えている自分に呆れる。家を出る時は1冊だけだったのに旅先でつい目を奪われて御朱印帳まで収集(あくまで刺繍が綺麗なものに限定しているのだが)している。これではキリがないよな、と諦めつつ。(最終的には本宮大社も御朱印帳を購入して旅先で5冊。)

御朱印帳を頂いて、さらに「速玉社」と摂社の「神倉社」もあることが目につけば、私の反応は「こちらで神倉さんもいただけるんですか?神倉さんもお願いします」となる。
「自前の朱印帳を出しては、悩んで引っ込めて、こちらの朱印帳下さい」さらには「あわてて神倉さんもお願いします」となれば応対の巫女さんも内心ではあきれ顔なのかもしれない。

夕方らしい日差しのなかで、ちょっとだけぼーっとすればすぐに団体さんはいなくなる。神職さんのほうが密度が高いなかで、参拝者は私一人だけとなるこの瞬間が結構好きだ。

神倉神社の朱印は頂戴したけれども、まだ訪れてはいない。
実は神倉神社は今日の朝方にホテルの窓から見物してたりもするので、かなり心をひかれている。
早く行きたくてウズウズしているのだ。

速玉大社から山なりにあるくこと約1キロ10分で到着。ちなみに到着時間は16時15分頃。もっとも入口に到着したわけで、この先には急坂参道が待ちかまえているのだ。



熊野速玉大社摂社「神倉神社」
<和歌山県新宮市新宮鎮座・朱印

祭神:高倉下命

神倉山に鎮座。熊野速玉大社境外摂社。
神武天皇が東征の際に登った天磐楯山にあたるとされている。天照大神の孫御子神であった高倉下命がこの時に神武天皇に神剣<フツノミタマ>をささげ、ヤタガラスの案内で軍勢をすすめて熊野・大和地方を平定したとされている。
また当地は速玉大社に鎮座する以前に祭神がいた場所とされ、熊野神は神倉山から阿須賀社に移り、速玉社の場所に落ち着いたともされている。それゆえに神倉から新たに祀られた速玉社が新宮とも呼称されている。

神倉山は神代からの伝承を伝えており、山上には「ゴトビキ岩」といわれる巨岩が鎮座。付近からは祭祀遺物も出土しており、原始的な磐倉巨岩祭祀の名残を留めている。

急勾配な538段の石段は建久4年に源頼朝の寄進による鎌倉積みの石段。

毎年、2月6日には松明を手にして急坂参道を駆け下りる雄壮な「御燈祭」がとりおこなわれる。

神倉神社
神倉山入口
神倉神社
鎌倉積みの急勾配な石段
神倉神社
ゴトビキ岩と神倉神社
神倉神社
ゴトビキ岩と神倉神社
神倉神社
ゴトビキ岩
神倉神社
神倉神社からの展望。中央の小山が「阿須賀神社・神奈備山」
その手前が「浮島の森」。阿須賀神社の左手は「新宮城跡」
神倉神社 左の写真はホテルの窓から望遠撮影したもの。
朝6時45分撮影。
このときから、ゴトビキ岩に接したくて
ウズウズしていたのだ。

神倉神社。噂には聞いていた。私が熊野に来たかった理由のなかでも「神倉神社」に接したかったというのも大きな割合を占めていた。
入口から神社まで10分間かけて登る。いろいろな登山系神社に接してきたが、冗談抜きで急坂。この急坂を松明片手に駆け下りるということなど信じられず、登りながら立ち止まりながら、一歩一歩足を運ぶ。

展望が開ける。右手には「岩壁」が広がり、そのなだらかな岩肌の奧まったところに「ゴトビキ岩」と呼称される巨石がみうけられる。その脇にはささやかながらに社殿が設けられている。
思わず独り言。「うわー。すげーいい!!」
正直な言霊がなんの飾りっ気もなく口から思わずついてでる。
もう難しいことを考える場所ではなかった。静かに見上げて、見つめて、そして感謝する。
ゴトビキ岩をみつめて、そして何千年とそこに鎮座している事実を噛みしめて、その重みを実感する。

新宮の街並みが綺麗だった。そんなに大きくない街並みとしてパノラマ展望が開ける。阿須賀神社の神奈備山も見事に熊野川に対座している。そしてその奥に「神倉山」。脇には「速玉大社」。
この上なく贅沢な環境に身をさらしていた。

そういえば日中は「花の窟神社」にいた。その前には「那智大社」にいた。海と山と滝。そして巨石信仰。熊野古道もわざかに歩いた。こんなに贅沢な神社詣では始めてかも知れない。神社密度的には京都を回った時も充実していた。伊勢別宮巡りをした時も十二分に満喫した。
しかし私の神社詣で遍歴の中でも、今日が過去のどんな日よりも最高に満足な一日であった。これ以上はないだろうと言うぐらいの。

しばらく展望を楽しみ、ぼーっとして、時間を忘れて佇む。

まだわずかに明るさがあるので、新宮の街を歩きながら17時15分に「新宮城(丹鶴城)跡」に到着する。
ただ、順不同ながらここで「阿須賀神社」を挿入しておきたい。ここだけは「花の窟神社」に行く前にたちよったので時系列がずれてしまうが。



熊野阿須賀神社
<和歌山県新宮市阿須賀鎮座・もと速玉大社摂社・旧村社>

祭神:熊野速玉大神・熊野夫須美大神・家津美御子大神
<熊野三神>

第五代孝昭天皇13年の創祀という。阿須賀とは浅州処(アスカ)を守護し、航海安全・延命・精算等を司る。
現在の速玉大社は景行天皇時代に阿須賀社から勧進されたも伝承されている。
もとは熊野速玉大社の摂社。
社殿背後の「蓬莱山」と呼称される山は秦の徐福(新宮に来たという伝承有)が不老不死の薬草を採取した山ともいわれる。阿須賀神社の御神体山であり、禁足地たる神奈備山。神社境内からは弥生時代の祭祀遺跡や住居跡が発掘され、古くからの信仰をうかがい知ることが出来る。

ちなみに東京の桜の名所で知られる飛鳥山は元享2年に豊島影村が阿須賀神社を勧進したことにはじまるという。

阿須賀神社
阿須賀神社正面参道
阿須賀神社
拝殿と神奈備山
阿須賀神社
本殿社殿
阿須賀神社
阿須賀神社神奈備山と熊野川。
紀勢本線車中から鉄橋通過中に撮影。
徐福
境内には「徐福之宮」もある<後方の石祠>
徐福
さらに新宮駅前には「徐福公園」がある
徐福像。後方の木々の中に「徐福の墓」があり。

新宮駅から徒歩10分。神奈備山が象徴的な気配溢れる神社。社地の後方は神奈備山と熊野川。かなり贅沢な社殿立地を、実感する。正面から神社を拝めば、その神奈備の美しさに改めて関心してしまうのだから。
電車の待ち時間に駆け足参拝をしてしまったのが勿体ないぐらいに落ち着いた神社であった。


話は戻る。
さすがに夕方の17時ともなればそろそろ切り上げたいところではあれど、このままホテルに戻るのも面白くないので「新宮城趾」に登ってみた。

「新宮城(丹鶴城)趾」
熊野川沿岸の丹鶴山にある平山城址。新宮市街を見渡せる立地は熊野川から太平洋、そして神倉山まで展望に開けている。別称「沖見城」
関ヶ原合戦後に和歌山城主となった浅野幸長の次男浅野忠吉が元和4年(1618)に築城開始。翌年に浅野幸長が安芸広島、忠吉が備後三原に移封となると、紀州徳川藩付家老の水野重仲が工事を引き継ぎ寛永10(1633)年に完了。
水野氏3万5000石として明治維新まで居城。
明治4年に廃城。現在は石垣が残り、城址公園として整備されている。
神具城は別名を「丹鶴城」と呼称される。築城以前に、この山に丹鶴姫が東仙寺を建立していたことに由来。丹鶴姫は源為義の娘であり、頼朝や義経の叔母。熊野別当行範の嫁となり、夫の死後に当地にて仏門にはいったとされている。

新宮城趾 左:新宮城趾入口

城趾は石垣が良く残っており
「城跡に来たなあ」と体感できる
新宮城趾
新宮城趾
新宮城趾
本丸付近

夕方17時にさすがに城跡に登る人間はいない。城址公園として良く整備されており、登り始める前はさほどに期待はしていなかったが、石垣が程度良く残されており、城趾に来た甲斐をみいだす。
「やべぇ、意外と楽しいかも」
そんな感想を抱きつつ、天守跡付近から四方を見渡せば熊野川から太平洋、新宮市街地からさきほどの神倉山まで視界がひろがる。せっかくだからそのまま佇むも、さすがに風が強くていささか寒い。さらには私しかいない夕暮れの城跡というのは、予想以上に心寒いものがある。
なかなか味わい深い城跡ではあれど、そろそろ人里が恋しくなったので、市街地に戻ろうかと思う。

このあと新宮市内のホテルに二日目の宿泊。翌日はいよいよ「本宮」にむかうので準備を整えるのだ。
本稿はここまで。さらに次ページへ。


参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)
郷土資料事典・30・和歌山(人文社)




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