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「桜井三輪石上〜山之辺道〜探訪記」
<平成16年8月参拝>


その1.「談山神社」

その2.「山之辺道〜桜井から三輪へ」
「山之辺道南部」「八阪神社」「志貴御県坐神社」「大神神社南部摂末社


その3.「大神神社周辺」
「大神神社」「大直禰子神社(若宮)」「久延彦神社」「狭井神社」「桧原神社」


その4.「穴師・景行・崇神」
「相撲神社」「大兵主神社」「水口神社」「伊射奈岐神社」


その5.「大和神社から石上神宮へ」
「大和神社」「夜都伎神社」「都祁山口神社」「石上神宮」




東京駅6時5分発の「のぞみ」新幹線。唐突に連休となり全く予定になかったが、連休なので出かけようかと思った。それゆえに唐突に新幹線に乗り込むあたり、私の放浪癖も病的なものがうかがえる。

一週間前。確かに私は8月5日木曜日の旅行計画を練っていた。一ヶ月前から確保していた「ムーンライトながら91号」の指定席券を片手に、行くべき土地を模索していた。
「来週の火曜日、休んでもいいよ」と唐突に職場所属長にいわれる。どうやら私の残業が多すぎるゆえに一日休みを呉れてやろう、と言うことらしい。呉れるものはありがたくもらっておこう。そんなことで、急に週明けの月曜火曜が連休となった。この週は水曜の夜行もあるので、かなりハードスケジュール。そんなことはわかっているが、連休に家で寝ているのも面白くないのでどこかに行こうと思う。

さっそく計画を練る。いろいろな下地があるから行く方向さえ決まれば、おのずと行動も決まってくる。
「三輪山」。神社に赴く趣味を持つものとしてはずせない土地だった。「歩くか・・・」、かねてより気になっていた「山の辺の道」、歩くことを決めたのは前日だった。ネット上で宿を確保し、夜が明ければ「京阪神周遊きっぷ」を確保する。細かい行動は決めていないが、一気に旅行モードを整える。ただ予定外の出費で、もはや8月後半のスケジュールはガタガタになってしまったが。

6時5分発の「のぞみ201号」は8時24分に京都に到着する。京都まで2時間30分かからないで到達できるのは、随分と時間距離が短縮されたものである。京都といえば私の中では「ムーンライトながら」で一晩かけて赴くところだったので、そういう意味では「京都にきた」という実感は全然ない。気がつけば京都に背を向け奈良へと向かっていたのだから。
実は迷った。京都で途中下車するかどうかを。ただ片手間ではすまない京都は、私にとって本腰をいれたい街。ゆえに今回は目線を奈良に定めて京都をあきらめる。
京都から奈良線に乗りかえて8時40分に出発。9時35分に奈良に到着し、9時38分に桜井線に乗り込むと10時7分に桜井到着。
すんなりと桜井に着いたようで、実はそうでもない。ここに至るまでは試行錯誤の連続。奈良で降りるか飛鳥にむかうべきかを迷いつつ三輪山の秀麗な姿に虜になりながら三輪駅で下車すべきかをさまよいつつ迷いつつ、私は意を決めて「桜井」で下車する。
下車をしてバス停で悩む。行こうと思っていた「談山神社」のバスは一時簡に一本。あと30分以上待たないとバスはやってこなかった。普段の私なら30分ぐらいはなんて事なく待っていただろう。しかし三輪の山を拝しながらやってきた私は、時間的ゆとりがなかった。今は30分といえども時間が惜しかった。
駅前のスーパーで飲食料を買い込んで、タクシーに乗り込む私。一言「談山神社まで」。あとはさも知った土地のように何食わぬ顔でタクシーにおさまる。

さすがに山だった。これはなかなかこれるところではないな、と思いつついきなりタクシーは社務所の直前まで車をつけてくれる。なにやら思いっきり「身分不相応」な状態でいささかどぎまぎな私はタクシーから下車する。
入山料を払うべき場所は無人ゆえに、社務所で声をかけて「入山料」をお納めする。ついでに帰りのバス時間も確認して、改めて「意を決して」境内に足を踏み入れる。いまいち「神社に訪れた」感がしないのもタクシーでいきなり、というよろしからずな参拝をしているからだろうか。それとも鳥居をくぐっていないからだろうか。


「談山神社」(旧別格官幣社・大織冠社・多武峰社)
<奈良県桜井市大字多武峰・朱印

主祭神:藤原鎌足公

由緒
舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子の勢力が高まり国内政治実権を掌握していた。中臣鎌足は国家のあり方を考え、あるとき法興寺(現・飛鳥寺)で蹴鞠の会があり中大兄皇子とまみえる。
二人は645年5月、多武峰にて「改新」の談合を行い、蘇我氏本家を滅ぼし、一連の「大化の改新」が断行される。
のちにこの山を「談らい山・談所ヶ森」と呼び、神社社号の由来ともなった。

天智天皇8年(669)に大津京にて藤原鎌足が病床につき、大職冠内大臣に任じ、藤原の姓を賜った。鎌足公没後、鎌足次子不比等によって摂津三島郡阿威山に葬られ、のちに唐から帰国した鎌足長男定慧和尚によって多武峰に墓が移葬し、十三重塔婆を建立。(白鳳七年・678)
のちに塔の南に「妙楽寺」を建立。大宝元年(701)には塔の東に「聖霊院」を起こし鎌足公御霊像を祀る。
これらを総称して「多武峰寺」と呼称。
こののち、塔を中心に信仰する「妙楽寺」と御霊像を祀る「聖霊院」が対立。延長4年に天神地祇・八百万神と鎌足尊像を合祀した惣社が建てられ「談山権現」と号した。
明治2年6月30日に神仏分離によって「多武峰寺」と分離し談山神社となり、明治7年(1874)別格官幣社に列格。

鎌足公墓とされる円墳が霊山「御破裂山」の頂上にある。この霊山が鳴動すると「聖霊院」に祀られている神像が破裂すると伝えられており、神霊が国家の大事を戒告するものと伝えられてきた。それ故に「御破裂山」。

談山多武峰には僧兵が居住し、しばしば興福寺との衝突があった。
豊臣秀吉の検地に際しては寺領3000石と公称していたところが明智光秀らの検地によって6000石と報じられ、寺領没収の危機を迎える。羽柴秀長の命によって談山を下りて郡山に遷座すれば旧領を認めるとの約により天正16年に大和郡山に遷座。羽柴秀長は郡山城下の繁栄の為に「新多武峰大織冠社」を建立し「鎌足公御霊像」を遷座させるも、羽柴秀長は病に伏せ、さらには郡山城が鳴動したという噂により天正18年多武峰に御霊像が復座。

江戸期には日光輪王寺門跡支配に所属し徳川幕府の保護を受けた。

当社には国宝及び重文等の文化財多数。建造物に関しては写真にて解説。その絢爛たる社殿群に代表される談山神社は「西の日光」とも称されている。

左:
神廟拝所<重要文化財>
左奧は十三重塔<重要文化財>

神廟拝所は昇殿参拝可
白鳳八年(679)に定慧和尚が鎌足公供養の為に創建。
もとは妙楽寺の講堂。
現社殿は寛文八年(1668)再建されたもの。
左:
末社・総社拝殿<重要文化財>
わが国最古の総社。延長四年(926)の創建
寛文八年(1668)の造営。
談山神社拝殿を簡略縮小した様式。
正面背面供に唐破風をもつ。

総社本殿<重要文化財>
延長四年(926)の勧進。
寛文八年(1668)造営の談山神社本殿を
寛保二年(1742)に移築したもの。

総社本殿<重要文化財>


権殿<重要文化財>
天禄元年(970)に摂政右大臣藤原伊尹の創建。
阿弥陀像を安置した元の常行堂。

権殿<重要文化財>
現存の社殿は室町後期の再建という。
旧国宝指定

中央:末社・比叡神社<重要文化財>
寛永四年(1627)造営。
もとは飛鳥大原の大原宮。

閼伽井屋<重要文化財>
御神供のための井戸屋形。屋根は「こけら葺」
元和五年(1619)の造営。

十三重塔<重要文化財>
白鳳七年(678)創建の鎌足公供養塔。
現存のものは享禄五年(1532)の再建。
現存する唯一の木造十三重塔
旧国宝に指定

後方が権殿<重要文化財>

左:西宝庫<重要文化財>
中央:楼門<重要文化財>

西宝庫<重要文化財>
本殿向かつて東西に位置する同形式の宝庫。
校倉造で元和五年(1619)の造営。

左:本殿<重要文化財>
奧:祈祷殿
中央:勅使の間(亀甲の石畳)
右:拝殿<重要文化財>
拝殿は永正17年(1520)造営

本殿<重要文化財>
現在の本殿は嘉永三年(1850)の造替。

拝殿透廊<重要文化財>

東宝庫<重要文化財>
本殿向かつて東西に位置する同形式の宝庫。
校倉造で元和五年(1619)の造営。

摂社・東殿<重要文化財>
鏡女王(鎌足公夫人)・定慧和尚・藤原不比等をまつる
若宮とも称す
元和五年(1619)造替の談山神社本殿を
寛文八年(1668)に移築したもの。

龍神社(古代祭祀跡)
脇を流れる小川は寺川・大和川の源流のひとつ



談い山(566M)頂上。大化の改新談合の地

藤原鎌足公墓所(御破裂山607M山頂)

御破裂山からの展望。飛鳥橿原をのぞむ
中央が耳成山

御破裂山からの展望。耳成山。
デジカメ一脚撮りで光学10倍にてここまで拡大可能
右:耳成山
中央手前:天の香具山
左:畝傍山
左奧:二上山(大津皇子墓)

大和のまほろば。大和三山。
まどろみのひととき。

談山神社正面入口

130段の正面石段

石段途中には城跡のような石組みもある

後醍醐天皇寄進石燈籠<重要文化財>
元徳三年(1331)寄進の石燈籠

藤原不比等の墓・淡海公十三重塔
台座には永仁六年(1298)の刻あり

10時30分。いよいよ境内に足を踏み込む。

実はことさらに緊張していた。私の参加している同人メンバーに「談山神社の権禰宜さん」がいる。神社趣味者として駆け出しの私は、そのことを承知の上で「談山神社」を訪問しているわけだが、今この瞬間に私は「権禰宜さん」の事を意識していても、むこうは私の事を知らない。いっそのこと、先ほどの社務所で「談山神社権禰宜の○○さんは本日いらっしゃいますか。もしよろしければ突然ですが『奇魂同人の伊達』というものがきましたとお伝えしていただけませんでしょうか」とでも言えば、私の立場もかなりかわっただろう。
屁理屈では「初めて接する神社に紹介者がいては私の感性が鈍る。ゆえに一人で参拝したい」ということをいえるが、あまりにもいきなりすぎる展開で心の準備ができていない。これが一週間でも余裕があれば、人づてに「訪問しますからよろしく」という伝言をしてお互いに「心を決する」ことができるわけだが、なんせ私が「談山神社」に行こうと思ったのは当日の朝(それまでは漠然と三輪にいこうかなとしか決めていなかった)ゆえに、私もいきなりすぎた。それ故に先方は全く「寝耳に水」となる。
向こうからすれば「同人の若造が前触れもなくいきなり気やがった。無礼な奴だ」的な印象になるかもしれない。
それならば私が胸に秘めていた方が愉快だ。「あの人がもしかしたら」的にすれ違う神職を観察しつつ、境内をおもねる。いずれにせよ「伊達青衝」と名乗る人間を知っている人がいるであろう「境内」を何食わぬ顔で散策する。

社務所から足をすすめるなり圧倒される。重厚な社殿の上に象徴的な「十三重塔」。「あぁ、談山にきたんだな」と実感させてくれる瞬間。夢中で境内を歩み、駆けより、見聞し、そして拝す。人の気配も希な境内で、悠然自若に境内を散策する。あまりにももったいないばかりの時間をすごす。「これはヤバいな。完全に虜だ」と感じつつも、そんな感覚が好きだった。

本殿拝殿脇の札所で「朱印」を頂戴する。わたしの「もしかして?」は強烈に敏感に反応する。なんとなくこの朱印を書いている人が「同人の権禰宜さん」のような気がしてならない。そんなオーラを私は一人で感じて無性に愉快になる。もちろん先方の神職さんは私の内心などは一切関知せず、だが。ここで「名乗り」をあげてもいいかな、と頭によぎるが、いまさらでありながらも激しくいきなりすぎる展開を収拾する力は私にはなく、なんとなく途方に暮れそうなので、「名乗り」はやめおく。

境内を一巡し、時間を確認する。11時15分。けっこうゆっくりと散策し昇殿してぼーっとしていた時間もあり45分を消費していた。一時間に一本のバスはすでに出発しており、もう一時間を待たねば行けない。時間はまだまだあるので「山」にのぼる。

鎌足公墓所がある「御破裂山」。山の名前としては奇怪ではあるが、この霊山が鳴動すると神像が破裂すると伝えられており、神霊が国家の大事を戒告するものと伝えられてきた。それ故に「御破裂山」。
11時15分に登山を開始し、11時20分には「談らい山」に到着。そして11時30分には「御破裂山」山頂に到着。鎌足公の墓所を拝して、展望台に赴く。「これはヤバい。ヤバすぎる。」、境内でも見事にはまってしまったが、ここでもあまりの見事さに「ヤバッ」と口ずさむ。それほどに魅了的な光景が眼下に広がっていた。
大和三山、そして二上山。大和平野が私の眼下に広がっていた。完全に時間をわすれ、見とれる。歴史空間が凝縮されて頭に飛び込んでくる。さまざまな史跡旧跡の位置関係を眼でたどりつつ、あきることなく眺める私がそこにいた。

バスに乗らねばならない。時間を改めて確認し、山を降りる。いきなりタクシーで来た私はバス停の一位置もわからなかったが、なんとかバス出発前にバス停に到達し、ようやく一息をつく。
もっとも乗りおくれたら乗りおくれたで「談山神社」を飽きることなく眺めていても良いのだが。

談山神社。間違いなく私は魅了されてしまった。それはこの構成をみてもわかるだろう。構成を「一頁一社」で扱い、写真も大量に掲載している。それほどに見所に溢れており、間違いなく私の「お気に入り神社」として胸に刻まれた。
それこそ「最初の無意味な緊張感」とやらはどこかに消えていた。


1時間30分滯在した「多武峰談山」をあとにする。再び「桜井駅」に降り立った私は、改めて「三輪山」に向けて歩き出す。
ただ「三輪山」編は、続編にて。



参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)
角川日本地名大辞典29・奈良県



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