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「桜井三輪石上〜山之辺道〜探訪記・その3」
<平成16年8月参拝>

その1.「談山神社」

その2.「山之辺道〜桜井から三輪へ」
「山之辺道南部」「八阪神社」「志貴御県坐神社」「大神神社南部摂末社


その3.「大神神社周辺」
大神神社」「大直禰子神社(若宮)」「久延彦神社」「狭井神社」「桧原神社


時間は14時5分。桜井駅から1時間20分歩んで「大神神社」に到達したことになる。
脇から入るのは面白くないが、かといって一の鳥居まで迂回するわけにもいかないので、そのまま足を踏み込む。

「大神神社(官幣大社・式内名神大社・二十二社のひとつ・大和国一の宮・国重文)
<奈良県桜井市三輪鎮座・朱印

祭神:大物主大神(大己貴命和魂)

配祀:大己貴神・少彦名神

古くは大神大物主神社。三輪名神と通称。当社は古来から神体山である「神奈備の三諸山・三輪山<467M>」を信仰してきた神社であり、山を神体として拝しているために当社には本殿はなく拝殿と神門だけがある。三輪山山中には今も磐座等の祭祀遺跡が散在している。

崇神七年に大物主神は崇神天皇の夢枕に現れ、神託によって(書記では倭迹迹日百襲姫命に神懸かる)、崇神天皇が命じて三輪君の祖となり大物主神の子孫にあたる大田田根子命に大物主神を祀らせたことにはじまる古社。<神々の祭祀と三輪伝説
もっとも神代期に大己貴命(大国主神)が自らの幸魂奇魂(和魂)を三輪山に鎮め大物主神の御名をもってお祀りされたのが三輪山の神としてのはじまり。
大国主神とともに国土経営をおこなっていた少彦名神が、常世の国に戻ってしまったあとに、海を照らしながらやってきた神があり「我を祀り共に国をつくろう」とおおせられた。大国主神が「汝は何れの神ぞ」と尋ねると「我は汝の幸魂奇魂ぞ」と答えられ「我を大和の青垣東の山上にまつれ」と仰せられた。この「青垣山」こそが三輪山であり、日本最古の神社とされる起源でもある。<オオクニヌシの国造り

延喜式内名神大社。摂社である狭井坐大神荒魂神社(狭井神社)・綱越神社・神坐日向神社(日向神社)・玉列神社、奈良市内の境外社である率川神社などが式内社・式内論社とされている。
中世期には大和国一の宮、二十二社の一つとして篤く崇敬。両部神道・三輪流神道の中心でもある。

現在の拝殿は寛文四年(1664)に徳川家綱が再建したもの。国の重要文化財指定。拝殿の奧正面、神体山禁足地とを区切る場に「三輪鳥居」が鎮座している。瑞垣共々に国重文指定。
明治五年官幣大社列格。当社の祭神はまた酒造の神ともされる。

大神神社
大神神社二の鳥居
大神神社
手水舎の白蛇
大神神社
拝殿(国重文)
大神神社
拝殿
大神神社 左:巳の神杉と拝殿

境内を丹念に拝し、息を整える。拝殿のみの社殿として著名ではあるが、本殿の有無は気にならない。拝殿はどっしりと鎮座しており、それだけの安心感がある。ようやくに「大神神社」にこれたという安堵心につつまれつつ、また一つ私の視野・世界観が広がった気にさせられる。

三輪の山を拝し、御朱印を頂戴して、次にすすむべく方向を考える。このまま山之辺道を北上すべきか、参道を進んで「一の鳥居」まで行くべきか。
神社趣味者としての私は、意外と律儀で神社は毎度毎度一の鳥居のあるところまで歩んでいたりするが、今回はなにやら選択肢が違っていた。まだわずかにしか歩んでいないが山之辺道に魅せられてしまった私はこのまま北上する選択肢を選ぶ。大鳥居はどこからでも見える。間近でみるのも良いが時間が惜しいので、とにかく先に進もう。


大直禰子神社(若宮)(大神神社摂社・国重文)
<奈良県桜井市三輪鎮座>

祭神:大直禰子命(大田田根子命・。意冨多多泥古命・オオタタネコ命)

祭神のオオタタネコ命は三輪の大物主神の御子孫。崇神天皇のころに大物主命の御心により、茅渟県陶邑から召し出されて大物主命を祀る祭主となった。大神神社歴代宮司を務めてきた大神氏(高宮氏)は祭神の子孫。
若宮は神仏習合期には「大神寺」のちの「大御輪寺」として信仰をあつめていた。
弘安8年(1285)に西大寺の思円上人が建てた本堂がそのまま本殿とされている。国重要文化財指定。

若宮
若宮正面
若宮
社殿(国重文)

14時25分。まるで寺院のような若宮社を詣でる。もっとももとが寺院であるので間違いではない。大神神社二の鳥居から北上したところに鎮座。中心の喧騒はウソのように静まりかえっていたのが印象的。やはり有名社であっても摂社を丹念に訪れる人は少ないようだ。


久延彦神社(大神神社摂社・知恵の神様)
<奈良県桜井市三輪鎮座・朱印

祭神:久延毘古命(クエビコ命・山田のかかし)

祭神の久延毘古神は、いながらにして世の中の事をことごとく知っているという智恵の大神。
大神神社の祭神である大物主大神・少彦名大神と同時に出現せられ、神代から鎮座しているという神様であるという。

久延彦神社
久延彦神社入り口
久延彦神社
久延彦神社参道
三輪山
久延彦神社からみる三輪山
三輪山
久延彦神社付近の三輪山
久延彦神社からの展望
久延彦神社からの展望
左奧の山:金剛山/中央奧の山:葛城山
左山は:畝傍山/右山:耳成山/右:大鳥居
久延彦神社からの展望
久延彦神社からの展望
耳成山と大鳥居

若宮から、そのまま久延彦神社に赴く。ちょっとした丘の上に鎮座している久延彦神社に着くまでにすでに息が切れている。竹林にかこまれた参道のまっすぐな石段を登れば、そこに展望台と神社が鎮座している。無人かなと思っていた社務所には人がいたので、朱印を頂戴して、展望台で一息をつく。眼下には巨大な「大神神社大鳥居」がそそり立っている。畝傍山と耳成山、そして大神大鳥居。その向こうは葛城山と金剛山。贅沢な空間を満喫し、振り返れば三輪山が顔を覗かせる。ますますの贅沢さで、しばしの時をわすれて見惚れる。

久延彦神社からさらに道を進む。三輪山丘陵地帯をすすめば「三輪山」はさまざまな姿を見せてくれる。途中の展望台で何度となく三輪山を拝す。ありがたいばかりの瞬間。そのまま進めば狭井神社に到達する。


狭井神社(大神神社摂社・式内社・狭井坐大神荒魂神社・花鎮社)
<奈良県桜井市三輪鎮座・朱印

祭神:大神荒魂大神・大物主神
配祀:媛蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメ命)・勢夜陀多良比売命(セヤタタラヒメ命)・事代主神

垂仁天皇のころに創始という。垂仁天皇が淳名城椎姫命に命じて大倭大神を一時「大市の長岡岬」に祀ったとされ、長岡岬が狭井神社社地と伝承されている。

延喜式内社。狭井坐大神荒魂神社五座。
狭井の地名は「さい」というヤマユリが多かったことからとも、井戸の名ともいう。近くを流れる狭井川は薬川ともよばれ巻向川に合流する。
神武天皇皇后たるヒメタタライスズヒメ命(伊須気余理比売命)はこの付近に住んでいたという。

当社は鎮花祭が有名だが、鎮花祭とは春に花が飛散する時に疫神が分散して病を運ぶとされ、それを鎮圧するための祭り。狭井神は大神の荒魂とされる。

当社境内には「薬井戸」とよばれる御神水霊泉がある。
また当社境内から三輪山神体山への登山口もあり、いくつかの注意事項に合意すれば登頂できる。

狭井神社
狭井神社
狭井神社
狭井神社
狭井神社
狭井神社拝殿
狭井神社
狭井神社本殿
狭井神社
狭井神社境内。三輪山遙拝登山口
狭井神社
御神水

14時45分。狭井神社に到着。当社から「三輪山」登山道がある。時間があれば是非にも登りたいところだが、いかんせん山に登れば今日の予定は終了となってしまう。さすがにまだ三輪山の雑多な姿を捉えきれていない私にとっては、登るという行為は「気が早い」。今回は山を拝しつつ山之辺道を歩きたいと思っているので。

ちょうど「どこかの大学生グループ」が先生に引率され説明を受けている。「・・・これから御神体三輪山にのぼるにあたり云々」と。なにやらうらやましく指をくわえている私だが、あいにくながら登山をしてしまうと一日が終了してしまう。さらには三輪山山中は撮影禁止ゆえに、サイト的にも「私の文章力勝負」になってしまう。
私にとってはじめての三輪山はまだまだその悠然たる姿をながめているだけで心が洗われ感無量なので、登るのは将来の楽しみにとっておこうと思う。

狭井神社には登山口以外に着目すべき点として「御神水」がある。あらかじめ承知している私は道中のペットボトルを廃棄せずここまで持参してきた。御神水を携帯するために。御神水は予想に反して合理的な装置が採用されており、神水らしさを疑いたくなるが、それでも「なにごとかのありがたさ」を水に見いだし頂戴する。
水を飲みつつ、思い出す。大神神社の朱印帳を購入することを忘れた、と。朱印は頂いているので問題ないともいうが、どうせなら朱印帳も頂戴したかった。狭井神社で、改めて御朱印を頂きつつ、そんなことを思う。


15時ちょうど。狭井神社をあとにして、再び山之辺道を北上する。私に残された時間はあまりない。どこまで北上できるかは、自らの足にかかっていた。

歩き始めて3分。狭井川とまじわる。古事記に出てくる狭井川はその印象よりもあまりにも小さな細流であった。それも青い夏草に覆われており、その全貌も掴み難かった。
それでも、狭井川でヒメタタライスズヒメ命と神武天皇を思いだし、あらためて三輪山の奥深さを実感する。

狭井
狭井川の細流
狭井
北側からの三輪山
狭井
大神神社末社:貴船神社
玄賓庵
玄賓庵の道

15時5分。大神末社の貴船神社の前を通り、さらに足をすすめる。まさに「山之辺」たる三輪山の縁をあるきながら15時15分に「玄賓庵」を通過する。「玄賓庵」は南都名僧の玄賓僧都が隠棲していた庵があった場所。

その「玄賓庵」をさらにすすむと、15時20分に「桧原神社」に到着。ここは「元伊勢」の地でもあるのだ。


桧原神社(大神神社摂社・元伊勢・倭笠縫邑)
<奈良県桜井市三輪鎮座・朱印

祭神:天照大御神

崇神天皇の世にこれまで宮中で祀られていた天照大御神・大和大国魂神を同殿同床は恐れ多いとして、天照大御神を豊鍬入姫命に託して笠縫邑、大和大国魂神を淳名城入姫命に託して大市の長岡岬に奉遷したことにはじまる。
豊鍬入姫命が天照大御神をはじめてお祀りした場所とされるのが当社であり、のち垂仁天皇のころに倭姫命によって天照大御神をこれまでの笠縫邑から、さらに遷座させ伊勢に鎮座させたことから、当社を元伊勢と呼称する。
伊勢遷座後も神蹟として祀られていたが、江戸末期に荒廃。昭和40年に三ッ鳥居が建造され、昭和61年に豊鍬入姫宮が建立された。

桧原神社
桧原神社からのびる道。中央奧の双峰は「二上山」
桧原神社
桧原神社
桧原神社
桧原神社
桧原神社
桧原神社は鳥居のみ
桧原神社 左:境内に静まる豊鍬入姫宮

15時20分。ようやくにして桧原神社に到着。
当社は「元伊勢」とも呼ばれる地。正面を拝し、振り向けば道が一直線にのびている。それこそはるか先の「二上山」が望めるほどに道は延びていた。
ここではじめて人と出会う。いままでは大神神社と摂社群にはたしかに人がいたが、ここまで来る間の「山之辺道」では誰とも出会わなかった。ここにいたりはじめて「山之辺道」を歩む人と出会い、なんとなく安心する。

境内掃除中の神職をよびとめて御朱印を頂き、一息ついたところで出発。そろそろ脇にそれて駅に赴きたい心境でもあるが、まだまだ「山之辺道」は歩きどころ満載。歩くのが当たり前のようになって北上する。


参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)
角川日本地名大辞典29・奈良県
神まうで(鐵道省)
縮刷版・神道事典(弘文堂)
大和の古社・乾健治著・(學生社)



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