「奈良の寄り道 奈良市諸社編」
<平成15年11月参拝>
1.「漢国神社」/「率川神社」/「春日大社」/「氷室神社」
平成15年11月。私は宇治にいた。もっとも宇治の用事は終了しており、私の用事は大阪にあった。ただ、大阪に行くには時間にゆとりがあった。大阪には夕方5時過ぎにつけばよいのであって、どこか適当な寄り道があれば幸いであった。
私は正直なところ関西には疎い。疎いながらに懸命に行動していた。そんな疎い頭で、奈良に寄り道しようかと思った。今思えば、この選択肢は失敗だった。
JR奈良駅から、時間を気にして駆け足状態で漢国神社・率川神社、さらには春日大社に立ち寄って、氷室神社に足を運んで、近鉄奈良駅から大阪に向かうまでの所要時間は二時間。往復6キロほどのみちのりであることも、頭の理解からかけ離れていた。
正直、かなり無茶苦茶で、ろくな記憶もないし、写真も不満足。
実のところ、今は平成16年6月。みごとなまでに半年前の事を執筆しているわけで、もはや記憶もあやふや。このページは神社の羅列となりますので御了承を。
「漢国神社」 (かんごう神社・県社)
<奈良県奈良市漢国町鎮座・朱印>
祭神
園神(そのかみ):大物主神
韓神(からかみ):大己貴命・少彦名命
由緒
推古天皇元年(約1400年前)に大神君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が勅を賜いて「園神」の神霊を祭ったことにはじまり、そののち元正天皇養老元年(717)に藤原不比等が韓神二座を相殿として祀ったのが「漢国神社」の創建とされる。古くは「春日率川坂岡社」と称していた。
明治社格では県社列格。
境内には「林神社(りん神社)」が鎮座する。祭神は林浄因命(りんじょういん命)。我が国で唯一の「饅頭の社」。林浄因命は中国浙江省の人。貞和五年(1349)に来日し漢国神社社頭に居住。我が国で最初に饅頭を作ったとされている。
正面鳥居 |
境内入口 |
社殿正面 |
社殿 |
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右:
漢国神社境内の林神社 |
JR奈良駅から東に約500メートル。
社地の後方には「開化天皇春日率川坂上陵」があった。まったく奈良が無知な領域である私は、足の赴くままに「開化天皇陵」をながめて、漢国神社の社頭にたつ。
社頭前は門扉が閉じられていた。立ち入って良いものかどうかを迷うが「御自由にお入り下さい」のようなので、静かに足を踏み入れる。神社に足を踏み入れるのに緊張したのもひさしぶり。
社地はかなり窮屈さを感じる。桃山時代に建立されたという社殿が正面にひかえる。端正さにあふれる境内を一巡し、境内の林神社にも拝する。
来た時のように、門扉を閉めて社地をあとにする。参道途中の社務所で朱印を頂戴して、次を目指す。
「率川神社」(いざがわ神社・子守明神・大神神社境外摂社・式内社)
<奈良県奈良市本子守町鎮座>
祭神
玉櫛姫命(右殿・母神)
媛蹈鞴五十鈴媛命(中殿・御子神・神武皇后)
狹井大神(左殿・父神)
由緒
推古天皇元年(593)に大神君白堤(みわのきみしらつつみ)がお祀りをしたという、奈良市内最古の神社。
三輪の大神神社境外摂社。社殿は奈良県指定文化財。
漢国神社からは南に250メートルほどのところに鎮座。由来も由緒もしらずに立ち寄った神社。社号標に「大神神社摂社」の文字が記載されておりかなりの驚きを感じる。
境内ではちょうど儀式(七五三)をおこなっているらしく、なんとなく立ち寄りがたい気配。遠目でながめて、三殿並立の本殿を垣間見る。摂社とはいうけれども充分な気配を醸し出しており、さすがに奈良市内一の古社であると納得できるものであった。
春日大社 (延喜式内名神大社・官幣大社・二十二社七位)
<奈良県奈良市春日野町鎮座・朱印>
祭神
第一殿:武甕槌命(鹿島神宮)
第二殿:経津主命(香取神宮)
第三殿:天児屋根命(枚岡神社)
第四殿:比売神(枚岡神社)
由緒
奈良平城京に都が移される時に藤原不比等は氏神と崇める鹿島神を春日山に迎え和銅三年(710)に祀ったことに始まる。神社の創建は称徳天皇の神護景雲2年(768)。
その後も長岡京に大原野神社、平安京に吉田神社を創建し、藤原氏は常に春日社を都に分祀している。
本社は藤原氏一統の氏神社として篤く崇敬されてきた。藤原氏氏寺の興福寺鎮守神でもある。中世期には摂関家の氏神として、皇室祖神の伊勢神宮、武家崇拝の石清水八幡と並んで「三社」と併称されたこともあった。
明治四年官幣大社列格。本殿は国宝。幣殿舞殿等の社殿群は国重文。境内外摂末社は61社。
春日大社鳥居 |
参道の神鹿 |
手水所の神鹿 |
車舍 |
参道 |
南門 |
幣殿 |
竃殿 |
中門 |
中門 |
後扉御門 |
内侍門 |
摂社・若宮 |
摂社・紀伊神社 |
JR奈良駅から東に1キロで猿沢池。そこから一之鳥居まで1.5キロ。さらに本社まで1キロの道のり。参道の左右には約2000基とされる石燈籠が立ち並んでおり、春日の神鹿が思い思いに佇んでいる。
あまり時間がないのがかなり悔やまれる。駆け早に歩むにもおしすぎる境内参道。奈良に立ち寄ったことすら後悔を憶える。こんな中途半端な状態での「春日社」参拝は心残りが多すぎる。それならば参拝しないしないほうがはるかにマシだった。今にして、自分の準備不足と計画性のなさにあきれる。
そんなこんなの春日社は境内を流れるが如くに歩み、社殿群も頭に残らぬままにすぎさっている。それだけが心残り。どうせ奈良にいるのなら、奈良公園を中心に近隣神社を散策したいところだが、たった二時間の奈良滞在ではなにもできない。
ゆえに春日社をはじめ各神社がかなり半端な状態での掲載であることをお詫びしておきたい。
「氷室神社」(村社・式内論社)
<奈良市春日野町鎮座>
祭神
オオササギ命(仁徳天皇)
闘鶏稲置大山主命(ツゲイイナキオオヤマヌシ命・氷室創始の神)
額田大仲彦命(ヌカタオオナカツヒコ命・仁徳天皇の皇弟)
由緒
氷室の歴史は額田大仲彦皇子が闘鶏で狩りをしていたところ闘鶏稲置大山主から氷室のことを聞き、皇子はその氷を天皇に献じた。その時以後、冬季に氷を氷室に保管し、春分に配ったという。
当社は元明天皇の和銅三年(710)に平城京左京の春日山に鎮座し貯氷を起し、平城氷室・春日氷室・御蓋氷室と称せられたことにはじまる。
奈良朝七代七十余年間、継続して平城京に氷を献上し続けたが、平安京遷都後に平安京にも氷室が設けられたために衰微。貞観二年に現在地に遷座。
延喜式の添上郡高橋神社の論社とされている。
社殿は奈良県文化財。本殿床下には二室が設けられているという。
春日大社を名残惜しさに溢れながらあとにする。もう時間がないから駅に向かわなくては行けないのだ。
歩んでいる途中に「氷室社」という神社があった。一瞬迷うが、神社正面の気配にひかれて足を踏み入れる。このあとは走ればよいのだから、とわりきって参拝。
静かな神社は氷室という呼称ゆえか清涼な気配を感じる。舞殿上にネコが横切る。見渡すと数匹のネコがのどかそうに、眠そうにくつろいでいた。しばし見つめる私。なんかこういうのも良いかも知れない。
氷室神社本殿は、杜に隠れて明瞭ではない。しかし神威的な気配は濃厚であり、誰もいない境内は、私にとって贅沢すぎる場を提供していた。目の前の騒々しい道路とはうらはらに。
あとは近鉄奈良駅にむかうだけ。宇治から足をのばして、13時30分に奈良に到着した私は2時間後の15時30分後には奈良をあとにしていた。
余事ながら近鉄線で大阪に向かった私は16時30分に「難波神社に立ち寄ってから「大阪厚生年金会館」に向かっていた。大阪でのとあるコンサートに参加するために。
実は朝一番の新幹線に飛び乗って「石清水社」を詣でて「宇治」を詣でて「奈良」を詣でて「大阪」でコンサートに参加して、急行寝台「銀河」で東京に戻るという無茶苦茶さ、だったのだ。
参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名辞典・京都府
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